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119能面の男事件05

 熊谷の表情はまた能面に戻った。すっきりと、()き物が去ったかのような笑みを浮かべている。ぞっとする変貌ぶりだった。


「これは失礼しました、皆さん。私はどうも、気に入らないことに感情を高ぶらせてしまうのです。仕事ではそんなことないんですけどね。この屋敷では素が出てしまうというか。……大丈夫ですか、菅野さん」


 結城はよろめきながら立ち上がった。頬を手でさする。


「はい、大丈夫です。すみませんでした。お許しください」


 こんなクレイジーな奴に平身低頭謝る結城が、何だかとても可哀想に見えた。英二は彼女を殴りつけた熊谷に、射殺すような視線を浴びせ続けている。


 熊谷が慇懃(いんぎん)に一礼した。


「では、お上がりください、諸君」




 驚いたことに、この屋敷には地下室が設けられていた。書斎の本棚の裏側が入り口で、急階段からコンクリート剥き出しの広い部屋に繋がっている。


 そして、そこは異常だった。


 壁一面に鉤爪(かぎづめ)付きの(むち)や各種剣がかけられている。世間に割と知られている、『鉄の処女』と呼ばれる器具が片隅に置かれていた。その他鋭い針がびっしりと突き出た椅子、(とげ)だらけの鉄箱など、ある目的のために集まられた古今東西の代物――


 熊谷が蛍光灯の乏しい明かりの中、奇術師よろしく両手を広げた。


「震えてますね、朱雀君。そうです、ここは拷問部屋です」


『能面の男』は手品を成功させたような満足感をちらつかせた。


「高い金を払って集めた、私の可愛い蒐集(しゅうしゅう)物です。膝砕き器やハゲタカの娘、審問椅子に異端者のフォーク……どれもこれも拷問という芸術のために作られた傑作器具です。これで英二君と朱雀君をたっぷりもてなしてあげますよ」


 俺は気が遠くなった。熊谷たちに殺されるのはもはや確実だ。それも、想像だに出来ない残虐な方法で。更に絶望的なことに、誰かが助けに来ることも考えられない。俺は小便をちびらないよう気をつけねばならなかった。


 一方英二の精神は、公開された救いのない未来にも決して(くじ)けたりはしなかった。


「熊谷とやら、ずいぶん用意周到だったな。まずお前は数々の資料で結城を味方に引き入れた。そして『能面の男』出没の噂を結城を通じて流し、俺たちを警戒させた。そして時を待ち、俺たちが気を緩めかけた絶妙なタイミングを狙って、大きな破裂音を発生させた。それはまあ、変わった爆竹といった辺りなんだろう。そして結城に危険を訴えさせ、俺と楼路をお前らの車に乗せ、一路この屋敷へ連行した……」


 能面が微笑した。


「ふふ、その通りです。冷静なんですね。いつまでその強がりがもつか、楽しみにしていますよ。それにご安心ください、ここには何でも粉微塵に粉砕する機械があります。死体の処理に都合がいいんですよ。最終的にあなた方は森林の肥やしになります。素晴らしい!」


 結城は頬を腫らしたまま、まつ毛を伏せた。熊谷が舌なめずりした。


「では始めましょうか。今まで我が熊谷工業が受けてきた数々の屈辱を、じっくりたっぷり、晴らさせていただくとしますかね」


 両手を揉み絞り、冷血な眼差しでにたりと笑う。俺は全身のわななきで立っているのも難しかった。


 だが英二は違った。


「ふん、悪趣味な奴だ。それで熊谷、その『熊谷工業が受けた屈辱』ってのは何だ? 俺には全く心当たりがないんだが。拷問の前に聞いておいてやるから話してみろ」


 熊谷はぴたりと止まった。さっきのように狂気の沙汰を繰り返すのかと思ったが、今度は落ち着いたままだった。口端を吊り上げる。


「……大した胆力(たんりょく)ですね。この状況で狼狽(ろうばい)の一つも見せないとは……」


 どうやら感心したらしい。俺も同じだった。


 熊谷は二度首肯した。


「いいでしょう、開陳(かいちん)しましょう。話は簡単ですよ。『熊谷工業』は下請けの慎ましい工場のことです。私の父が祖父から受けついだ事業で、小規模ながら、たくさんの笑顔と共に回転していました。私は会長の孫、社長の子としてちやほやされたものです」


『能面の男』は遠い目をする。


「しかし、その幸せは打ち破られました。多方面進出のため、貪欲に企業買収を進めていた『三宮造船』に、主幹の仕事を根こそぎ持っていかれたのです。会社の業績はみるみるうちに縮小し、負債は爆発的に増加しました。自転車操業も追いつかず、『熊谷工業』はその後数年で不渡りを起こして潰れました」


 俺も英二も結城も漆原も、この奇妙な男の述懐(じゅっかい)に耳を傾けている。


「それからは生き地獄でした。祖父の非業の死もあり、家族の心もばらばらに離れていきました。私は泥水をすする毎日で、三宮家への恨みは骨髄(こつずい)まで徹しました。そんな折、私はある仕事に手を染めるようになったのです――暗殺でした」


 屋敷の主は目を細めた。


「新聞の三行広告で知り合った中年男が、私の師匠でした。他人を殺す手伝いをすることに、私は何らの罪悪感も感じませんでした。三宮家への復讐を胸に秘めていたからでしょう。大義の前には小虫の命など一顧(いっこ)だに(あたい)しなかったのです。やがて私は仕事を任されるようになりました。裏社会に生きるようになってから成人するまでに、10人は殺したでしょうか。その後は数え切れません。報酬は回を重ねるごとに跳ね上がり、それらを得た私はこの屋敷を建てました」


 実に楽しそうに英二を眺める。


「そして何をしたと思いますか?」


 英二は沈黙したままだ。分からないらしい。熊谷は冷笑した。


「自分の父と母を殺し、この屋敷の機械で死体を処理したんです」


 俺は背筋に寒気を感じた。能面は気づかない。


「年老いた両親は(みにく)かった。長年の苦労で体のあちこちがおかしくなっていた。だからいっそのこと、私が彼らの人生にピリオドを打ってあげたのです。実の息子に殺されて、両親は本望だったことでしょう」


 俺は唾を喉へ通過させた。


「……狂ってる」


 英二が点頭した。


反吐(へど)が出るな」


 熊谷は斜め45度に首を傾ける。


「それから私は何も感じなくなりました。『能面の男』と呼ばれるようになったのもその頃です。後は三宮家への復讐のみが私の生きる糧でした。磨きに磨いた暗殺の腕で、三宮家の当主である三宮剛の命を奪う。その瞬間を思うとぞくぞくして眠れなくなるほどでした。しかし……」


 笑みが消える。


「三宮剛は隙がなく、いつも黒服に護衛されていて殺害の機会がありませんでした。彼自身も気づいていたのでしょう。自分が罪深い人間であり、轢殺(れきさつ)してきた人たちの憎悪を買っていることに。常に誰かに生命を(おびや)かされていることに。私は彼の鉄壁の守りの前に、膝を屈してしまいました」


 腕を組む。


「そこで代わりに目をつけたのが、一人息子の三宮英二君、君です。君を殺されたら、三宮剛は嘆き悲しんで地獄を味わうでしょう。私は君の殺害に(かじ)を切りました。覚えているでしょう、山中でのバーベキューの一件を」


 英二は仏頂面で答えた。


「ああ。チンピラに殺されかかった」


「あれは自分でも成功するとは思いませんでした。ほんの遊び、小手調べ、といったところです。まずはどれぐらいの守りか確かめたわけです」


 俺は『バーベキュー』事件を回想した。『能面の男』は黒服の沢渡(さわたり)さんとチンピラを抱き込み、ボウガンを凶器として英二殺害を狙ったのだった。

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