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010折れたチョーク事件03

 その後の二時間、俺は早く学校が終わってほしいような、終わってほしくないような、せめぎあう心に翻弄(ほんろう)された。体育館で痛い注射を待つ小学生のような気持ちだった。一分が一時間のように緩慢(かんまん)に感じられたかと思うと、一時間が一分のようにあわただしく過ぎ去ったようにも思われた。


 ホームルームも清掃も終わる。俺は帰宅準備を整えると、深呼吸してから奈緒の机におもむいた。彼女もまたノートや筆記用具を鞄に詰め込んでいた。俺は喉の耐え難い渇きに悩まされながらうながした。


「ここじゃまずい。別の場所にしよう」


「分かった」


 俺は奈緒を引き連れ教室を出た。二人きりで話せそうな場所を頭の中であれこれ検索する。渡り廊下脇の壁際がいいか。俺はそこに向かった。奈緒は何も言わずついてくる。俺の「話」の内容が掴めているのだろうか? しかし彼女に緊張の色はない。


 ようやく目的地に到着した。廊下を歩く生徒はまだ少なくなかったが、こちらに興味を抱いて立ち止まるものは皆無(かいむ)だ。


 俺は回れ右して奈緒に正面を向けた。深呼吸して切り出す。


「じゃ、ちょっと俺の話を聞いてくれ」


「うん」


 俺はこちらを見上げる奈緒の透き通った瞳をまじまじと見つめた。


「……あのさ」


「うん」


 俺の喉にせり上がってきた次なる台詞は、しかし無難なものにとどまった。


「この前の日直のとき、一人でゴミ捨てに行って悪かったな」


 奈緒は微笑した。


「そんなこと……。感謝してるよ」


 俺は今度こそ本題に入ろうと頭をフル回転させた。空回りに近かったが。


「飯田さんって、彼氏とかいるの?」


 いい質問だ。まず肝心要(かんじんかなめ)なことを問いただす、それが大事だ。もしうなずかれたらどうしよう。しばらく立ち直れないかも。


 だが奈緒は、こちらの期待に応えるかのように首を振った。


「いないよ」


 俺は歓喜で胸郭を膨らませた。しかし直後に彼女の口をついて出た言葉は、こちらを幻惑するかのような意味不明なものだった。


「私、まだ子供でしょ?」


「え?」


 奈緒は俺の不得要領な顔を気にせず続けた。


「私だけでなく、朱雀君も、皆も、まだ高校一年生だよ。子供なんだよ」


「うん……」


「子供は勉強するべきだと思うの。彼氏がいるかいないか、彼女がいるかいないかなんて、そんなことはもっと大人になってから問題にするべきよ」


 事態は暗く不明瞭な崖下へ転落していくかのようだ。


「私は高校三年間、異性と付き合わず、勉強に邁進(まいしん)するつもり。朱雀君もそうでしょ?」


 俺の口はチャックでもついたかのように開かなかった。無理矢理こじ開けると、肺から出たのは降参の音だった。


「……そうだな。そうだよな」


「でしょ?」


 奈緒は腕時計を見た。


「私、早く帰って勉強しなくちゃ。話はおしまい?」


 俺は唾を飲み込んだ。言え、言うんだ朱雀楼路。「飯田さんが好きなんだ」と、男らしく想いを告げるんだ。


 俺は激しい葛藤(かっとう)にさいなまれた。決定的な言葉は体内で固形化し、喉から外に飛び出す機会を今や遅しと待ち構えている。言え、言え。俺は全身を極度にこわばらせ、そして――


「ああ。話は以上だ」


「そう。それじゃあね、朱雀君」


 奈緒はさわやかに別れを告げると、渡り廊下を下駄箱の方へ歩いていった。こちらを振り向くことはない。彼女の影はやがて見えなくなった。


 後には間抜けな男が一人、取り残された。告白さえ出来ない臆病者。


「勉強に邁進、か」


 俺は数分前までの緊張と高揚を、何十年も昔のことのように懐かしく思い出していた。


「告白する前にふられたようだね」


 突然物陰から純架が現れ、俺は悲鳴を上げそうになった。


「何だよ、盗み見てたのか?」


「失礼な。ピーパーと呼んでくれ」


 英語で同じ意味だ。


「楼路君、まあがっかりするな。女なんて星の数ほどいる。たまたま一人に『不潔! ドブネズミ! きもい! 変態! すかたん! 唐変木(とうへんぼく)!』と言われても我慢することだね」


 奈緒にかこつけて俺を馬鹿にしてないか?


「お前は人を好きになったことはないのかよ」


 純架はスマホで俺の顔写真を撮影した。


「これで後一年は笑える」


 何をやっている、何を。


 純架は携帯をポケットにねじ込んだ。


「好きになった人なら昔はいたよ。小学生の頃かな、三歳年上のお姉さんに憧れた時期はあった。それぐらいかな。今はもちろんいないよ、おかしなことにね」


 いくら類まれな造形でも、奇行の愛好者となれば誰も近づきさえしないだろう。純架は「それにしても」と言った。


「飯田さんは帰宅部なんだね。自宅か塾での勉強最優先なのかな?」


「俺が知るかよ」


 俺は心の痛手をひた隠し、ゆっくりと昇降口へ歩き出した。




 その翌日の火曜日は学校を休みたくてしょうがなかった。だが純架に「ふられたことが恥ずかしくてさぼったんだ」などと図星を指されるのも(しゃく)だ。俺は平気なふりをして家を出た。玄関前で純架と落ち合い、共に登校する。


「昨日色々考えてみたんだけどね」


 純架が両手をこすり合わせながら切り出した。


「チョークは今日の放課後か明日の早朝にまた折られる蓋然性(がいぜんせい)が高いんだ」


 俺はぎょっとした。


「何でそんなことが分かるんだよ」


「パターンさ。今まで1年3組のチョークは三回折られてきたが、その三回とも教室が無人のときを狙われた。前にも言ったけどね。思い出したまえ、最初のチョーク折りはいつだったか」


「そんなもん覚えてねえよ……。確か、先々週の木曜日のホームルームだったか?」


「当たり。でも正しく言うなら、それは宮古先生が折られたチョークを発見して憤慨したのが夕方の集会だった、というだけさ。では次のチョーク折りは?」


「知らん。忘れた」


 純架はとがめた。


「駄目だよ、楼路君。君は『探偵同好会』の一員なんだから、何でも捨て目が利かないと。二回目のチョーク折りは先週の水曜日、朝の始まりの会だ。これも一回目と同じで、既に折られたのを宮古先生が見出してむかっ腹を立てたんだ。さて、三回目は?」


 俺は首をひねった。


「確か先週の木曜、体育のサッカーが早めに切り上げられて、お前に引っ張られて教室に戻ったときだ。矢原に問い詰められたんだっけ」


「そうそう、その通り。それが三回目だった。そして宮古先生はうちのクラスの担任で、朝と夕方のホームルームで連絡事項を書くために白いチョークを使うんだ。つまりチョーク折りはその前に行なわれているということになる」


 純架はまるで教師のように物事を話す。自分の平手を眺めた。


「最初の木曜は、何事もなく過ぎ去った朝会から、夕方の終わりの会までの間に、何者かの手でチョークを折られた」


 親指を折り込む。


「次の水曜日は、前日の火曜日の下校時刻から、翌水曜の朝のホームルームまでの間に折られた」


 人差し指を曲げる。


「そして最新の木曜では、朝の集まりでは何事もなく、二時間目の体育終わりには折られていた」


 中指をたたんだ。


「ではここで我が1年3組の時間割を見てみよう」


 純架は鞄から紙切れを取り出した。


「まずは火曜日だ。1時間目、生物基礎。2時間目、現文。3時間目、地理A。4時間目、英語I。5時間目、古文。6時間目、数学A」


 俺は困惑した。


「何だそりゃ。事件と関係あるのか?」


 純架は無視する。


「そして木曜日。1時間目、数学A。2時間目、体育。3時間目、英語I。4時間目、家庭基礎。5時間目、家庭基礎。どうだい、面白いじゃないか」


 俺にはさっぱり分からなかった。純架の持つ紙を覗き込む。


「何が面白いんだ? ……ん? これは……」


「何か気づいたかい?」


 俺は指摘した。


「数学Aの後、か? 犯人がチョークを折っているのは……」


 純架は出来の悪い生徒が高得点を叩き出したことに拍手喝采した。


「その通りだよ、楼路君! なんだ、頭いいじゃないか。そう、犯人は決まって、宮古先生の数学Aの後に出来た無人の時間を使ってチョークを折っているのさ。火曜日6時間目数学Aの後、放課後か翌早朝かは分からないが、犯人はここで折っている。そして木曜日1時間目数学Aの後、体育で皆が教室を出払った隙に、こっそり教室でチョークを真っ二つにしている。恐らく先々週の木曜日もそうだったんだろう」


 俺は感心した。


「なるほど、それが『パターン』か。そうか、それでいくと今度の犯行は今日、火曜日の放課後か明日、水曜日の早朝になるわけか。今日の6時間目に宮古先生の数学Aがあるんだからな」


「そういうことさ」


 純架は堅苦しい説明が終わったことに解放感を得たのか、その場で制服を脱ぎ捨てトランクス一丁になって仁王立ちした。


「いやあ、爽快爽快!」


 変質者か。

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