第8話 初日17:45
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仮に彼ら三人が、赤星が提案したとおりに山に向かっていたとしたら、その後の展開は大きく変わっていたはずだ。
他でもない狭井三兄弟が、山の中腹を拠点としていた。
元は牧場だったらしい。その一帯の斜面だけは切り拓かれていて、柵で囲われている。牛舎もあるが、中に牛はいないし、管理する人間の姿もない。放棄された施設に狭井たちは遠慮なく上がり込み、管理小屋で休んでいた。
赤星たちが不用意に山に入れば、遭遇していた可能性は極めて高い。そうなれば、間違いなく戦闘に突入していただろう。
生存することを至上命題とした場合、遭遇が避けられたのは双方にとって幸運だったが、より幸運なのは狭井たちのほうだった。
薬剤を二錠使ってしまったとはいえ、まだ一錠残している赤星たちに対し、狭井たちは三錠使い切ってしまっていた。
試験開始直後に長男の肇が、続いて、赤星に対抗するために三太が身体強化した。
ふたりが暴れ回っている間、次男の丈嗣は身を潜めていた。講堂の壁が二カ所で破壊され、生存者数百名が外へ逃れたので、丈嗣は彼らを始末するために薬剤を使った。
三人合計で、八百名以上の殺戮。
その代償として、薬剤の手持ちがなくなった。
彼らとしても予定外の状況ではあった。殺した相手から薬剤を奪えれば万事問題ない、と計算して動いたのだ。しかし、身体強化した状態では、錠剤を壊さずに手に取ることが困難だった。そっと摘むように持っても粉砕してしまう。薬の存在は前もって知っていたものの、自分で服用するのは初めてだったため、力を完全には制御できなかった。
「ごめんよ、兄貴……。ボクがもうちょっと器用だったらよかったんだけど……」
「謝るな。今さら言っても、しようのないことだ」
しおらしくなっている三太に対して、狭井肇は慰めるでもなく叱るでもなく、どこか突き放すように応じた。椅子に座り、腕と脚を組んだ尊大な姿勢。
丈嗣は、その様子を少し離れたところから見ている。
彼もまた、三太と同じように薬の拾得に失敗したことになっている。
失敗したことを装っている。
実際には、丈嗣は薬剤を三錠所持している。肇を運ぶ任務を負っていた三太と違い、丈嗣は単独で動けた。身体強化中に薬を奪うことは不可能だったが、自分で殺した死体を三体ほど担いで運び、強化が解けた後で懐を探ったのだ。
使用したのと同じだけの数の薬剤を得て、プラスマイナスゼロ。
であるにもかかわらず、丈嗣はその事実を兄と弟に伏せ続けていた。
「薬がなかろうと、この場にいれば安全だ」
狭井肇が自分の分析を告げる。
「下から有象無象が登ってきたとしても、そこの窓を見ていれば一目瞭然だ。敵を確認してから身を隠せば悠々間に合う。夜の暗がりに乗じてこられると少々やっかいだが、照明がないこの山道を夜に登ってくる奴がいるとは思えん。あと警戒すべきなのは野生動物だが、ここに牧場があるということは、この近辺には危険な動物はいない。いたら、牧場など経営できたはずがない」
「そっか……。言われてみりゃ、全部兄貴の言うとおりだね……」
「おい、兄貴よお。もっともらしいこと言ってるけどよお、素人判断は危ねえんじゃねえか?」
丈嗣は苛立ち混じりに反論をぶつけた。
「確かにさあ、牧場が経営されてた頃は安全だったと思うぜ? 牧場主が色々と対策していただろうからな。けど、今はどうよ? 見た感じ、牧場主がバックレてから数年は経ってんじゃね? 対策はされてないし、周囲の生態系だって変化してるだろうし、楽観するとかマジヤバいだろ」
「………」
肇はしばらく黙り、睨むような目つきで丈嗣を見た。
丈嗣は一瞬怯んだが、平静を装って睨み返す。
三太は「あわわ……」と小さく呻き、どちらを制止しようか迷っているが、どちらもまだ動いていないため、制止しようがなかった。
最近、度々起こる兄弟喧嘩。
その前兆かと思われたが、肇は深く溜息をついただけで、動かなかった。
「丈嗣の言うことにも一理あるかもしれん。だが、それでどうする? 危険な動物がいるとして、お前には何か対策があるのか?」
「いんや、知らねえよー。俺だって専門家じゃないんだからよお。ただ、心の準備だけはしといたほうがいんじゃね? って話。兄貴の判断を鵜呑みにしてたら、いざってときにビビっちまうかもしれねえしさ」
「何だ、その程度のことしか言えないのか。対策を提案できないのであれば、言っても言わなくても同じじゃないか?」
「……相変わらず、イラっとくるわ、このクソ兄貴が。あー、わかったよ。黙ってりゃいいんだろ?」
丈嗣は投げやりな気持ちになり、頭をかきながら兄から視線を外した。肇も、それ以上何も言うこともなく、やりとりは終わった。
丈嗣は、自分が兄よりも優れていることを確信している。もっと言えば、兄は腕っ節だけは強いが、頭は悪いと思っている。周囲の誰も表立って言わないが、それは兄の力を恐れているからだ。
今回の件でも、丈嗣が指揮をとっていれば、講堂の時点でもっと多くの受験者を減らせたはずなのだ。丈嗣に言わせれば、肇の始動のタイミングは早すぎた。人の流れが出口に向かい、混雑してきたところを一網打尽にすべきだったのに、まだ広がっているうちに動いたため、二百以上もの逃走者を許す結果になった。
過去にも、似たような経験が多数ある。本当は丈嗣こそが評価されるべきなのに、次男という理由で一段下に見られる。そんな日々を過ごすうちに、丈嗣は心の中で反抗心を育てていた。
所持している薬のことを報告しないのも、それが最大の理由だ。
指揮官としての狭井肇を信用していない。
肇に懐いている三太も、丈嗣の心情的に味方ではない。
自分の手で殺そうとまでは思わないが、命を張って助けてやるような親切心はさらさらない。いざとなればふたりとも見捨てて、自分だけ助かればいい。
これは何も、島に拉致され殺し合いを命じられたという極限状態によって丈嗣の精神が崩壊した結果ではない。
丈嗣の考えは、島に来る前から何ら変化していない。
命のやりとりなど、彼らにとっては日常だ。
だから当然、通信用に渡されたスマートフォンはマナーモードにしてある。着信音で敵に位置を知られるようなへまはしない。
振動したのは長男、狭井肇の端末だけだった。他のふたりのものに動きがないということは、先ほどのような一斉連絡ではない。何者かが個別に、狭井肇にコンタクトをとってきた。
もっとも、端末の番号は他人に教えていないので、連絡してくる人間は限られる。
「ご機嫌いかがかな、狭井くん! いや、狭井くんたち!」
案の定、運営者の破芝だった。肇は情報共有のため、通話をスピーカーモードに切り替えた。
「何の用だ、ゴミクズ」
「ふはっ! さっきはクズ呼ばわりだったのが、ゴミクズに進化したか! 君は肝が据わってるなあ! ますます気に入ったぞ!」
「喜んでもらえたなら何よりだが、それよりも用件言え。わざわざ連絡してきたってことは、何かあるんだろ?」
「うむ! 大したことではないのだが、二三、確認したいことがあってだな」
「ほお?」
「君たち、我々の正体について、どこまで推測がついている?」
破芝が問うてきたのは、やや飛躍した感のある質問だった。
運営者。
他の受験者たちにとっては「常軌を逸した謎の組織」としかわかっていない。それ以上の情報を、破芝は開示しなかった。この質問を受験者にぶつけたところで、何の返答も期待できないだろう。
だが、狭井三兄弟だけは例外だった。彼らの持つ事前知識があれば、ほとんど特定できる。
「あんな砂色の軍服を着てるのは、砂流家の手の者しかいないだろう。それともアレか? 砂流家だと装うためのコスプレだったか? ゴミクズなら考えそうなことだが」
「いや! コスプレではない! れっきとした正装だ! 我々は砂流家の配下で動いている!」
「だろうな。俺たちを狭井家の人間とわかって連れてきたってことは、狭井家の敵対組織。その条件なら、他にもいくつか候補はあるが、こんな馬鹿みてえなイベントをおっぱじめそうなクズは、貴様らしかいない」
裏社会で抗争を繰り返している暴力組織。私兵集団。ある者たちは無数の企業の利潤を搾り取り、ある者たちは日本全域の支配をも企み、ある者たちはただ戦うのが好きで、戦闘に明け暮れている。
彼らは、その世界の住人である。
「拉致された時点で俺個人としては完全に敗北だったんだがな。俺たちを生かしておいてよかったのか? 殺さないでいると、今後も貴様らゴミクズの『試験』とやらを早く終わらせるために動くつもりなんだが」
得意げに語る狭井に対し、破芝は楽しそうに応じる。
「はっは! 威勢がいい! だが、諸君は終わらせるのに失敗したよな? 残念なことに!」
「………!」
狭井の神経を逆撫でする一言だった。
しかし狭井としても、言い返せない。あの講堂で狭井家以外の全員を殺害していれば、「試験」は終わっていた。それを果たせなかったという点は、言い訳のしようがない。
「どうせなら、本当にあの場で完結させてくれてもよかったのに、できなかった! 諸君のことは気に入っているが、その落ち度は自覚すべきだ! いや、発想は素晴らしいと思ったよ! 実は私も同様の『試験』を受けたときに、同じことをしたのだ! そして、その場で完遂して、砂流家の一員になった! まあ、その時と今回とでは人数規模に差があるから、単純な比較はできないが、それでも諸君に親しみを感じるのは本当だよ!」
「何だ、自慢か? それとも、俺たちをおちょくるための連絡か?」
「いやいや、諸君には期待しているということだよ! 今後も頑張ってくれという、激励の連絡だ!」
「……質問があるんだけどさー」
横で聞いていた丈嗣が会話に入った。
「俺たちがこの『試験』とやらに合格すると、砂流家の人材選抜を通過したってことになるわけ? 狭井家の人間が砂流家のために戦うとか、本気で思ってるのん?」
「なるほど! もっともな疑問だ、狭井丈嗣くん! その質問には、こう答えよう--」
破芝の表情が変わった気がした。
電話であり、相手の顔は見えないが、笑顔が歪なったような、そんな気配を感じ、丈嗣は寒気を覚える。
「--君たちは、戦わざるを得なくなる」
そこで通話は切れた。
「試験」初日、夕暮れのことである。