第4話 初日17:11
「兄貴ー、こんな感じでいーんだよね……?」
「いちいち確認をとるな。足を止めるな。そのまま有象無象を蹴散らせ」
「りょーかーい……」
狭井の弟は兄の指示を受けてまた動く。その場から消えたと思ったら、次の瞬間には反対側の壁際にいた。彼が通過した軌道上にいた者が、糸が切れた人形のように次々と倒れていく。
「てめー、待ちやがれ!」
赤星は狭井を放置して弟を止めにいこうとするが、
「俺の眼前で余所見をするとは、やはりお前は」
狭井の手が後ろから伸びてきて、赤星の肩を掴む。振りほどこうとする間もなく、逆の手が赤星の首に巻き付いた。締め技に移行する。
「低能だ」
「ぐっ……!」
赤星は狭井の腕を掴んで引き剥がそうとするが、力は拮抗している。辛うじて、窒息死だけは回避しているが、身動きがとれない。
「ほう……」
狭井は意外そうに声を漏らす。
「薬を使えば、人間の首を折ることくらいは容易い。ということを俺の弟が実証してくれているのだが、お前の首は折れない。なるほど、お前も薬を使ってるせいか? だとしたら」
そして、狭井は再び弟に指示を飛ばす。
「薬を飲もうとしてる奴を優先的に潰せ! 見逃すな!」
「うん、知ってたよ……」
弟は気怠げに応じる。
既にかなりの人数を殺害したとはいえ、まだ数百人の生存者がいる。ひとりで全員の動向を把握するのは困難なはずだ。
それでも、今のところ、狭井兄弟と赤星以外で薬の服用者は見当たらない。大半の人間が事態についていけておらず、また、先ほどの狭井の指示が脅しとして効いてもいた。
薬を取り出し、口元に運び、飲み込む、という、たったそれだけの動作だが、どうしても数秒の時間を要する。その数秒の間に殺される危険は十分すぎるほどあった。
結局、この虐殺から逃げ切ることは困難だ。
ただただ無抵抗に殺されていく者たちに対して、赤星は強く苛立って叫ぶ。
「ビビって突っ立ってんじゃねえよ! このままだとどっちにしろ殺されるだろうが! 一か八かで薬を使えって!」
「だから、させないって言ってんじゃん……」
狭井の弟は大きく方向転換した。赤星の声に呼応しようとした者を目ざとく見つけて、弾丸のような速度で駆けつける。人垣を薙ぎ払いながら移動し、対象者のところにたどり着き、
「えいっ」
平手で頬に一撃を入れた。
決して、力感溢れる攻撃ではない。ただ、細腕の男が手首のスナップを利かせて叩いた、というだけ。しかし、この場合、身体能力が強化されているという条件だけで事が決する。叩かれた男の顔は大きく凹み、勢い余って、首を軸にして三回ほど回転した。当然絶命し、その場に崩れ落ちる。
「非力だなあ。俺がやれば、首だけでなく全身を吹っ飛ばせるだろうに。とはいえ、取りこぼしがなさそうで何よりだ。修羅場を潜ったことのない無能どもでは、到底対処できまい」
狭井は自分の弟の仕事ぶりを冷徹に、余裕たっぷりに論評した。残忍な笑顔が、赤星の背後、至近距離にある。
赤星は首を絞められながら、息も絶え絶えに言う。
「てっ、めえっ、はっ」
「ん? 聞こえんな。はっきり喋れ。といっても、喋らせるつもりはないが--」
「てめーは、甘く見た」
「……何の話だ?」
狭井が問いかけた直後、轟音が響いた。
見れば、講堂の最前列付近の壁が破壊され、大きな穴が開いていた。狭井の弟が居る位置とは逆の、向かって左側の壁。人が通るのに十分な大きさの穴が開通し、外の景色を見せている。
穴の手前には、拳を振り抜いた状態で立つ、天童の姿があった。
「てめーが言うほど、無能ばかりでもなかったってことだ」
天童は、狭井の弟が方向転換して自分から遠ざかった隙に薬を飲んでいた。講堂全体の状況を把握しやすい最前列にいたのが、天童にとって有利に働いた。
身体を強化した上で、赤星を救いにいくよりも、狭井の弟を止めるよりも、脱出経路の確保を優先した。それは、狭井の弟の攻撃対象となった者たちを見捨てる選択でもあったが、この場においては正解だった。
「皆、こっちから逃げろ!」
天童が言うまでもなく、大勢の人間が脱出口に殺到した。「助かった!」「急げ!」と悲鳴に似た歓声が次々と上がる。
「ちっ……! おい、あいつら、逃がすな!」
兄の指示を受け、弟は群衆の後を追っていたが、
「行かせない」
その進路を天童が遮る。群衆の頭上を一足で跳び越え、狭井の弟の正面に立ちふさがった。
狭井の弟は、困った様子で指先で自分の頬を掻く。
「そこ、どいてほしいんだけど……」
「無理な相談だ」
「あっそ」
狭井の弟は平手打ちを繰り出し、天童の隙を作ろうとするが、天童は完全に見切っていた。迫りくる手を掴み取り、捻る。痛がった狭井の弟は即座に手を引っ込め、天童を迂回しようと走るが、天童も並走して抜かせない。
そうこうしているうちに、別の場所でも、天童と同じように身体強化する者が現れた。壁を壊し、脱出口を増やす。そちらにも人が流れ、生存者の大半が講堂を出ていった。ただ、散乱した数百の死体だけが残る。
「こうなっては、この場で終わらせることはできんか」
狭井が諦念の溜息をついたのを聞き、赤星は尋ねる。
「終わらせるって、何をだ?」
「あのふざけたクズが言っていた『試験』を、だ」
破芝を含めた運営者たちは全員、試験開始の合図と同時に忽然と姿を消していた。狭井が暴れ出してからも、運営者が狭井を制止するような動きは一切なかった。つまり、殺人は容認されていると見ていい。
「最後まで殺されずに『生き延び』れば合格ということだろう。その最後というのが何日後なのかは、あのクズは教えようとしなかったが……。いずれにせよ、競争相手は減れば減るほど都合がいい」
「お前、弱い者いじめして楽しいのか?」
ありったけの軽蔑の念を込めて、赤星は糾弾する。
「この『試験』が仮にてめーの言うとおりのものだったとして、罪悪感とかねーのか?」
「ない。そして、楽しい」
狭井は平然と応じ、
「おっと」
こちらに向かってきた天童を見て、赤星を離した。ようやく解放され、呼吸を整える。
天童が何か言おうとした機先を、狭井が制した。
「お前の狙いはわかっているぞ。薬の効果で、もうそろそろ俺は麻痺してしまう。そうなったら、俺は隙だらけだ。危険人物である俺を叩く大チャンスが到来だあ。おお、怖い、怖い。とはいえ、麻痺するのは、そっちの低能も同じなわけだが……」
わざとらしい身振りと表情で、狭井は問いかける。
「さて、どうする? 俺を叩くか、低能なお友達を守るか」