3
入院して三週間、私も退院を迎えた。
以前隣人が騒ぎを起こしたのも昔の話しで、あれ以降何事も無かったかの様に病院は穏やかな日々。
そして私は普通に退院する。
まだ右脚は固定されて拙い足取りだが、自分で歩けるまで回復した。
揺れる車内。
小野木が運転する車で私はその隣り。迎えには彼一人だけが来た。
奥様は姿を見せなかった。
彼女は毎日分刻みで日常を追われている為、そこまで私に構う暇などない。
主が私を迎えるのではなく、私が主人を待つ。長年築いた関係。
ただ内心ではホッとしたのも事実。奥様が帰るまでの間は、彼女と対面はしない、当然だが。つまり、私は傷つかない。
きっと入院の途中で面会に見えたのは、気まぐれだったのだろう。その証拠にあの日以来奥様は私の前に現れる事は無かった。私の取り越し苦労で良かった。
屋敷は病院から遠くは無い。距離は15分少々。但し住宅街に入るまで、道はかなり渋滞している。
「外が恋しいかい?今のうち、好きなだけ眺めておきなさい」
「…」
窓を吸い付くように眺めてた私へ、小野木は気休めの言葉を吐く。
外が恋しい?
小野木、あんたには多分…一生分からないのだろうな。だって、私の言葉さえもあんたには理解出来やしないのだから。私とはあんたはそもそもが違うのさ。それが寂しくもあるのだが。
その寂しさが30分。渋滞と重なった。
里崎家、鬼門。
この辺を流すタクシーの運転手にそう伝えれば、迷わず連れて行ってくれる。
渋谷区松濤二丁目一番地。ここにその先の号はない。一番地全てが里崎家の敷地で、号の代わりに門の名前で呼ばれる。
正門、対門、裏小口、鬼門、風切門。五つの門のそのひとつ、北西に位置する鬼門。無数の鬼瓦が睨む屋根の下、木製の分厚い門が自動的に開いて私の乗る車を迎え入れた。
この場所は来るだけで緊張する。空気が澱んでいていつでも誰かに監視されている様だ。
「さぁ、銀花。着いたよ」
私の席の扉が開く。
「…」
帰って来た、この場所に、私の足が降りた。
「仲間も待ってるから行っておいで」
「…」
笑顔の小野木を背に私は歩く。
直後、私の元に仲間が駆け寄って来た。
「銀花!」
「…」
リーダーと最初に目が合った。
「…」
私は頷いた。
「元気そうで良かった、安心したよ」
「…」
「帰って早速といきたいとこだが、まずはゆっくり休んでくれ。お前は待機だ、いいな」
「…」
私がお礼を言う前に、ショナーは切り出した。私は素直にリーダーに従った。
「瑞希、銀花を部屋まで」
「…はい」
ショナーの一言で瑞希が前に出た。私は瑞希の後を歩く。彼女は相変わらず表情を顔に出さない。彼女とは誰よりも長い付き合いだから、そんなものは慣れているが…
「…瑞希」
随分しばらくぶりに、私は声を形にした。
喋れない訳じゃない。言葉は知ってるし理解している。喋りたくても、喋れない時と喋れない相手が在る、そんなとこ。
「奥様は、私に何か言ってた?」
「…別に」
「…」
「…」
久々の会話もすぐ途切れた。
部屋までの距離が長く感じる。
瑞希も歩き辛い私に合わせてくれてるから余計長くゆっくりに感じる。
沈黙が続く中、やっと着いた。
「銀花」
「…」
「あなたはそこで好きなだけ安息を取りなさい。別にあなたが居ても居なくても、屋敷は私達で充分なのですから」
「私は…」
「あなたの最優先はその身体を元に戻し、奥様に仕えることです。余計な手出しで、その治りかけの傷を広げてはかえって私達の迷惑なのです」
「…分かってる」
そんな嫌味に苦く答える。
「では、お大事に」
「…」
番犬するには役不足か…
こんな部屋よりみんなと居る方がマシなんだけどなぁ…
リーダーのショナー、テッド、瑞希…そしてヴァン。
普段はリーダーに従って行動し、それを補佐するテッドと瑞希。
瑞希は特に主への忠誠心が強い。そしてショナーにも忠実だ。しかしその反面、自分より下と見た者には心も開かない。
鉄の女って呼ばれてる。
私は鉄の女に憧れていた。
いつでも鉄の女になるつもりだった。しかし私を鉄にさせない者が居る。
風に流れる黒髪のヴァン。
私の心に土足で踏み歩く者。私はそれを許してしまった。いや、心に壁を作る前に既に侵入されていた。
何が魅力か考えた事があった。ショナーやテッドも居る、この屋敷にはまだまだ男は居る。居るのに彼が特別である理由。
フェロモンだ。
フェロモンが合致するとメスは引き寄せられて抗えない。
フェロモンのせいで私は鉄になれなかった。
「銀花」
“!”
背後からの声。
無防備な私はゾクゾクと鳥肌が立った。
「…」
「どうした。いつから無口なった」
「…ヴァン」
耳に掛かる声。
「やっと声聞けた」
「…」
私の頬に彼の鼻が付く。
「で、どうなんだ。具合」
「まだ…ボルトが埋まってるからもう一度手術で抜いて…」
「そうか」
「…」
どうせ興味ないでしょ?
「なんだ?俺が興味ないと思ったか?」
「!」
「図星か」
「あ、いえ…」
「ふっ。変わったな、お前」
「え」
「雰囲気というか、顔から角が取れたような」
頬に掛かるその一言一言の吐息に、私は敏感に反応してしまう。
久々のフェロモンのせいだ。
「か、顔はまだ見てないでしょ」
顔が火照ったように熱い。
いきなりフェロモンを嗅げばこうなるのは仕方がない。
「見て欲しいのか?」
「あ…!」
ぐいっと半ば強引に顔を向かされる。
「…」
「…」
何かあるなら早く言って欲しい。
さっきからフェロモンばかり嗅がせて…
「…」
その視線に耐え切れず私は目を閉じた。
「やっぱり柔らかくなった。匂うな、発情期か?」
“!”
「セクハラ」
「…」
ヴァンはニヤリと笑みを浮かべた。
「…」
「?」
「以前のお前ならそんな事にいちいち反応しなかったがな、瑞希みたいに」
「ヴァンはお喋りになりました」
「俺ぁこれが素だよ」
「私は…」
「クールなお前もイカしてたけど、俺は女の面したお前も好きだぜ」
「え」
「…じゃ戻るわ。サボタージュは鉄の女にお叱り受けちまうから」
「鉄の女って瑞希?」
「さぁ」
「…」
「…」
ヴァンはそのまま行ってしまう。
「ヴァン!」
でも私にはその別れが切なくなってしまい、たまらず呼び止めてしまった。
「こっちを見て」
「…」
「私…あなたが……なんでもない。ありがと。久々に話せて楽しかった」
「…どうせあの人が来るまで暇なんだ。また来てやるさ」
「…」
「おい、返事しろよ。お前の声が聞きたいんだから」
「うん」
雑に言われても従ってしまう自分がそこにいた。彼の後ろを見つめながら。
ヴァンは私が変わったと言った。柔らかくなったと、女の顔をしたとも言って、それが好きだとも言った。
嬉しかった…
なんでこんなに嬉しいのだろう。
フェロモンだ、久々のフェロモンを嗅いだから。
胸が引き締められるみたいに苦しくて、ドキドキする。
これだってフェロモンのせいだ。
フェロモン…?
そう、フェロモン。この高鳴りはフェロモンを嗅いだからと自分に言い聞かせ、私はこれまでも固く固く諭してきた。
ヴァンは幼い時からの仲、兄のような存在だから私の心にも深く突き刺さる。
それで良いと思っていた。
私は何より、奥様の『物』であり奥様からの愛を頂いている。
その私が、奥様以外に意識するなどある訳がない。
そう、私とヴァンはフェロモンが合致しただけ…
…違う。
私は虫じゃない。
フェロモンなんて最初から知らない。
単純に…ヴァンが好きなんだ。
でも、なんで今日はこんなに心が乱れるんだ。さっきもその想いを口走ってしまいそうだった。
なんで。
いや、理由は分かってる。
入院した時のあの隣人だ。
奴は自由を求めて病院から旅立って行った。自由なんてもんは私には不要だった。不可能だから、求めても意味が無い。
しかし奴は手に入れた、不可能を。
あの出来事は今でも私の心に深く突き刺さっている。
そして心の氷も溶かそうとしている。
自由は手の中。考えもしなかった。
自由、それがヴァンに対する想い。
あの時に気付いてしまったヴァンに愛してもらいたい想い。
私の恐怖する愛でなくて、女が男に求めるもの。
奥様への恩を忘れたのではない。
でも私は私のままに生きてはいけないのだろうか。
奥様の慰みでいつまで私は傷付いていくのだろうか。
私は恋も出来ないのだろうか。
そしてこの屋敷を出る事も、許されないのだろうか。
自由を確かめてみたい。
しかしまだその勇気が足りない。
奥様にそれを知られた時、あの人はどうなるのか。それが怖い。
奥様は月に一度帰ってくる。
私の生まれた日に、きっちりその日に…
誕生日が怖い。
〜ー
今夜は奥様を始め御家族は誰一人として戻らない。
主よりも使用人の方が長くこの屋敷に住んでいる気がする。
それがこんなに立派な家だから哀愁も大きい。
足音を殺して私は階段を降りていく。
カーペットが敷いてあるとはいえ、静まり返った廊下は、私の息でさえも反響がある。
それくらい夜の空気は切れる。
緊張はいつまで経っても途切れない。たとえ主が居ない今夜であっても。
そうしてまでも私が部屋を抜けてここまで来てしまう理由。
「ヴァン…」
響く。
「居たら返事して」
小声だが響く。
「ヴァン…」
「…」
反応はない、か。
外へ出たのかしら。
私は家の扉も抜けようとした。
「イイ女のひとり歩きは危険ですよ」
「!」
昼間に続きまたも後ろからの突然の声。振り返らずとも分かった。
「俺を呼んだよな?夜は気が張ってるから、要件だけ話せ」
「はい」
「…」
「…」
「どうした」
「ヴァンに、話し、聞いてもらいたくて…ごめん、大した用では、ないんです」
「…歩くか」
「はい」
「痛むんなら言えよ」
「はい」
私はヴァンの誘いに乗った。
家を抜けて私はヴァンと二人で庭を歩く。
着いた場所は風切門。里崎家の門で唯一の開かずの門。構えは鬼門と同じ作りだが、ここの扉が開くのは門戸と屋根の間にあるほんの小さな丸窓のみ。ここは鬼門との風道を通す為だけに存在する。
私は静かに話しを切り出した。
「興味ないと思うけど、聞いて欲しくて。入院した時の話し。今回はいつもと違って ー」
私は今度の入院で感じた事、考えた事、隣人の起こした事、奥様の事、その全てを話した。
ヴァンはその間、一切の横槍を入れず全てを聞いてくれた。余りにも静かなので途中寝たのかと思ったが、彼はずっと私を見ていた。
「ー なるほどな。だいたいの筋は理解した」
「で、お前自身はどうなんだ」
「え」
「ここを出て行きたいのか?突き詰めりゃそうなるだろう」
「私は…」
「…」
「私は、出て行きたくない。この屋敷が好きよ。周りのメンバーも好き。ヴァンの事も好き。出来ればあなたと一緒にいたい」
「…」
「私はあなたを兄の様に思っていた。胸が高鳴っても、あなたは兄だとそう決めていたわ。だけど」
「…」
勢いに任せてヴァンへの気持ちがどんどん止めれなくなる。
歯止めが、効かない。
「意識しないようにずっと我慢していた。もう…止められない。私はヴァンが好き。ヴァンと一緒に居たい、ヴァンに愛してもらいたいの。奥様にではなくて、あなたに、あなたの愛で、私を愛してほしいの」
「銀花…」
「…」
「…」
「でも私は、奥様を裏切れない、怖いから。あの人が恐ろしい。ヴァンも知ってるでしょ?奥様が私にしている事を…このままじゃいつか殺される。きっと以前なら死ぬとか怖いって思わなかった。ただ、今度の入院で、色々考えて、あなたが好きだと口に出せた時、死ぬ事が初めて怖く感じたわ。死んだらあなたと一緒にいれなくなる、それが本当に怖くて…」
「…」
「私はどうすればいいの」
「銀花…」
「…」
「俺は何もしてやれない」
「…うん」
「俺も所詮はただの犬だからさ」
「…うん」
「だけど」
「!」
「もしもここを出たいのなら、道は作ってやる」
「…ヴァン?」
「俺も奥様に拾って貰った身だ。彼女に逆らう事は死んでも出来ねぇ。ただ、お前なら別だよ」
「え」
「知ってるさ。奥様がお前にしてる事くらい。お前の傷が増える度、俺達はみんな…」
「…」
「俺はお前がガキの時から知っている。ガキの時から惹かれてたさ、ずっと…」
「…」
「銀花」
「はい」
「いい女になったな」
「うん」
「お前がここに居たら、死ぬだろうな。お前が死ななければ俺に幾らでも会える。簡単な答えだ、奥様が怖いなら彼女の居ない世界に行けばいい」
「ヴァンは」
「ん?」
「もし、私がここを出るなら、あなたも来てくれる?」
「…残念だが」
「…」
ヴァンは来てくれない。
「俺は離れる事は出来ない。でも…お前が望むなら道は作ってやる」
「ヴァン」
「惚れた女の幸せくらい、叶えさせろや」
「ヴァン」
「…」
「…」
「…ありがとう…」
私はその言葉に感極まる。
私の答えが結論を決める。
涙が頬を伝った。
屋敷を出よう。
でもその前に…
一度でいい。女としての幸せが欲しい。幸せを肌で感じたい、味わいたい。この一度で、いいから…
「ヴァン。お願いがあります。私を抱いてください。あなたの愛が欲しい。あなたの女になりたい」
「銀花」
「私、この屋敷を出て行くわ。決心した。多分外へ行けばもうヴァンには会えないと思うから…あなたと一緒に居た、その証が欲しい。私が女である証が欲しい。お願い…私を犯して…」
「…」
「…」
私は目を閉じた。
彼の答えはキスで始まった。
「…」
触れる唇、熱、息…
いつも私をからかうような触れ方ではない。私を女として抱き締めている。
私は腰が砕けそうになるのを耐えていた。
あぁ…
痛い…
彼の温もり、男の重さ、腰が動く度に私は痛みを肌に刻む。脚の痛みではない。奥様からの痛みでもない。
これは女の痛みだ。
愛が痛い…なんて、なんて幸せなの。もっと、もっと、もっと!この痛みをあなたの愛で!
あなたの愛で!
あぁ。
あぁ…あなたの愛を私の中に流し込んで!!
私…女で良かった。
ah
小さな命の物語を
目に焼き写して感じていたよ…
幻に浮かべた蜃気楼の羽根
→ah
掌に残る鱗粉、握り潰してイキソウ…
幻に浮かべた七色の羽根
→ah
ありきたりな言葉の意味に泳いで溺れた
波間へ沈む触覚は、か細さとその虚しさ。
死に場所くらい選ばせて、と。
誘蛾灯へ飛び込んでく。
AH
小さな命の物語を
目に焼き写して感じていたよ
交わえたアナタの味を唇へ移してください
AH
キラキラ輝るお空の屑よ
眩しく見える錯覚
燃えていくアナタの背中
動かない秒
煙の膣で消えた…泉の跡 ー
熱く抱かれるあなたとの抱擁に言葉なんて必要ない!
言葉はこの吐き交わす息とキスだけでいい。
あぁ…
ヴァン…
ヴァン!
もっと!
もっと!私を!私を!
あぁ…あぁ、あぁ!
…
その腕の中で静かに休む私。
今夜は星が綺麗に輝いている。星が綺麗に…
…
…… ⁈
え… ⁉︎
「銀花…?」
ヴァンは私の異常に気が付く。
「…」
その突き刺さる気配と視線に全身の毛が逆立つ。
「…」
私は凍りついた。
「…」
そこには私の主が腕を組んで仁王立ちしていた。
しかもその両脇に別のチームのガードも連れている。
「お、奥様…」
「どうしたの?続けて良いのよ。さぁ、続きをしなさい。あなたの甘ぁい時間の続き」
柔らかい声色が余計私を固まらせた。
「…」
「意外ね。あなた、ヴァンが好きだったとは。へぇ…」
「…」
「で、ヴァンとは何回交尾したのかしら。私の見ていない所で」
フフフと見せる微笑。
「…」
「主人を差し置いて、自分はオトコを欲しがって、嫌ね、私の可愛い可愛いあなたも獣になって…銀花。あなたもやっぱりメスね。ふふ、まったく…いやらしい娘、淫乱な娘…いけないわ。いけないわよね。いけないあなたには…罰を与えないと」
「…」
「だってそうでしょう。あなたはいけない娘なのよ、ね」
「…」
「でもその肉体に躾をしても、銀花は快感に変わってしまうのかも。あなたは淫乱な娘だもの」
「…」
「そうねぇ。精神的な事がいいかしら。そう、例えば…」
「…」
「あなたの見てる前で、そこの犬をなぶり殺しにしたら…銀花ぁ。あはっ、あなた、どんな表情になるのかしら、ねぇ?」
悶えるようなトーンで私に問いかけるも、奥様の瞳は本気だ。
「…」
「見たい、見たいわ。あなたの悲痛な顔、あぁぁぁ見たいわぁ、銀花」
「…」
異常だ。
だめだ、足がすくんで動かない。このままじゃ私どころか、ヴァンまで…
「チッ…ここまでだな」
何かを悟ったヴァン。
「…」
ヴァンは耳打ちする。
「銀花、今から命賭けれるか?」
「ヴァン?」
「答えろ、その足で走れるか?命賭ければちっとは走れるだろ?お前を逃がす」
「え⁈」
私の胸に動揺が走る。
「俺の合図で正門へ走れ。ここは俺が押さえてやる、いいな」
「でも正門に行っても」
門が開いてるとは到底考えられない。
「大丈夫だ、門は開く。信じろ」
「…はい」
この状況で選択は無かった。ただ何よりヴァンの言葉に私は信じた。
こんな…こんな突然の別れってあるのだろうか?
震えてしまう。
そうか…私、運がいいんだ。
「ー さぁこっちへ、いらっしゃい。今なら少しは考えてあげるわよ。少しだけね、フフフ」
「…」
私は運がいいんだ。
今日が離別で良かった。
思い出作れて良かった…
「銀花。来るのよ」
「…」
私は唇を噛み締める。
ありがとう、ヴァン。
「銀花」
「…」
ごめんね、ヴァン。
「銀花!」
「…」
激しい口調にも動じない。
私はヴァンを信じたから。もう決めたから!
「お前達、銀花をここへ連れ戻しなさい!」
奥様の声と同時に両脇のガードが飛び掛かって来る。
ヴァンは私の前に立ちはだかり叫んだ。
「走れぇぇぇ!」
私は一切を躊躇わず全力で振り切った。
東の正門へ一直線。何も考えずにただひたすら正門へ。痛む右脚を庇いながら、懸命に、何も考えず。
そろそろ着く。
その直前だった。
「銀花!あなた、何してるの。止まりなさい!」
私を追い抜く一つの影。
追手?くそ、今は闘うのか?こんな時に…
「瑞希!」
その影は瑞希だった。
「騒がしいから賊が侵入したのかと思えば…渦中の中心があなたとは」
「…」
「銀花、止まりなさい。命令です」
「瑞希、お願い。そこを通して!正門に行きたいの」
「理由を言いなさい!」
「屋敷を出るの。ヴァンが道を作ってくれた」
「ヴァンが⁈ 」
「自由になりたい、もう奥様の手から離れたい!」
「あなたはその願いを一度でも奥様に懇願したのですか」
「言ってないわ。分かるでしょ、言える訳ないじゃない!」
「屋敷を出て何処へ目指すのです。何処に隠れても逃げる道なんて、あなたにはないのですよ」
「それは…」
「銀花。今ならまだ間に合います。甘んじて罰を受けなさい。あなたなら許してもらえる」
「…」
「身寄りのないあなたを拾って育てて下さったのは、誰ですか。あなたは奥様の恩を仇で返すのですね」
「違う!!奥様には感謝している。この手から溢れるほどの恩も頂いた。それだけは嘘じゃない。でも、でもね…私は奥様の物ではない!私は私として生きてるの。私は私のままに生きたいの!」
「…」
「瑞希!」
「…」
「覚悟は出来てる。貴女と一戦交えても…ここは譲れない」
「…自分が何を言ってるのか、身分をわきまえなさい」
「それも承知で…本気よ」
「その体で私と? …死にますよ」
勝てない事は分かってる。その強さは私が充分知ってる。彼女の眼を見るだけで私は斬られてしまいそうだ。
でももう退けない。
「死ぬ?貴女に殺されて死ぬならそれの方がいい」
「…」
「…」
殺し合いをする覚悟だった
「…」
しかし…
「ふっ…まったく困った妹です。私に実の妹を殺せと?昔からあなたはどんな場面でも我を通そうとして…少しは退く事も考えなさい。これじゃ命がいくつあっても足りませんよ」
「瑞希…?」
「負けました」
苦笑いを浮かべる瑞希。
私は実の姉と戦う覚悟もしたが、結果はあっさりと姉が折れた。
「付いて来なさい。今は正門よりも裏小口の方が手薄です。それにそっちにはショナーもいる」
「ショナーが」
「ええ」
私達は再び走り出した。
「あなたの入院中、ヴァンからずっと相談を受けていました。ヴァンはいつも見ていたそうです、あなたが奥様によって壊されていくところを。それが何より耐えられないと。もしもあなたがこの先、奥様から離れたいと強く願うなら、自由にさせてやってくれと、ね」
「ヴァン…」
「実際のところ、私にはなんとも言えません。私にはここが全てですからね」
「…」
「最初に忠告しておきます。外の世界はこの屋敷とは全く別の世界です。人間がひしめき合い、時にあなたは人間に命を狙われる。外の世界に我々の居場所はありません。ここを出てあなたが死ぬ時は、良くも悪くも必ず人間が絡むでしょう。たとえ、奥様から離れても。私達にとって人間は切っても切れないのです」
「…」
「しかし、そうまでしてもあなたが望むのなら、私も手を貸しましょう。それはショナーもテッドも同じです。私はあなたの本音を聞きたかった、追い詰められた時の本音が。中途半端な気持ちなら、この手で奥様に引き渡すつもりでした。しかし揺るがないあなたを見て、考えを変えましたよ。ただ、その答えが今夜になるとは思いもしませんでしたが…」
「瑞希…ありがとうございます、姉さん」
「よしなさい。最後くらい妹のわがままに付き合うのも嫌いではないです」
最後、最後か。つまり瑞希も一緒に来ない。おそらくショナーもテッドも…
私の為に…
「私のわがままは鉄の女の瑞希から受け継いだから」
私は精一杯の冗談を振り絞った。
が、すぐにまた緊張が。
「無駄口叩く暇はありませんよ。見なさい、既に追手が先回りしています」
「!」
私の刺客が、人間も犬も合わせて待ち構えている。
「銀花。あなたはそのまま突き進みなさい。その先にショナーがいます。彼らが必ず道を造りますから、それを信じて。ここは私が請け負いました」
「瑞希、でも…」
この数を相手にはさすがの瑞希でも…だけども、頼るしかない。
「安心なさい。ショナーには先程連絡を取り合いましたから」
「瑞希達はこれからどうなるの?私を逃がせば貴女達が…」
さっきだって奥様はヴァンを殺す様な発言をした。
今更勝手を言える立場じゃないけど…あわよくば、あわよくば無事であってほしい。お願いだから無事であってほしい。
瑞希はそんな私を見透かしていた。
「あなたなんかに心配される覚えはありません。あなたの姉の強さ、忘れましたか?さぁ、お行きなさい!」
「…」
心が痛い!心の底から痛みが治まらない!
「分かった」
「…」
姉の横顔があまりに逞しく、あまりに美しく、そして、悲しかった。
「さよなら。姉さん」
「…アデュー」
瑞希は自ら囮となり、その輪に飛び掛かっていった。
私はそれに乗じてその場をすり抜ける事に成功する。
彼女の雄叫びを背に…
すると建物の陰からショナーとテッドが現れ、私を挟んだ。
「銀花、無事だな!」
「ショナー!私は大丈夫。でも、瑞希やヴァンが」
「そうか…急ぐぞ。裏小口はそこだ」
彼は二人について聞こうしなかった。まるで始めから分かっている様だった。
「はい!」
私もそれを察した。
「銀花、チャンスは一度しかない。良く聞いて理解しろ、いいな」
「はい」
後方から瑞希の追撃をかわした追手が一匹二匹と迫ってくる。
「テッド!頼むぞ」
「了解」
テッドもまた、私の為に囮になる。
頭がおかしくなりそうだった。
歯を食いしばって私はリーダーの言う事に集中する。
「門は既に全て閉鎖されて絶対に開かない。だが裏小口だけは別だ。分かるか?あそこだけは他の門よりも構えが低い。ま、単純に飛び越せる高さじゃないが、考えがある」
「…」
私は耳をより集中させる。
「俺とお前が同時に跳んで、俺を空中で踏み台にしろ。分かるな?二段跳びだ。お前の本来の能力なら行けるはずだ」
「なるほど…確かに行けるわ。私の本来の力なら」
ただ問題はこの脚。
とっくに限界を越えていて、走っているのが不思議なくらいだ。
迷う暇は無い。
やるしかない。
皆が命を賭けてくれたのだから、私も全てを賭けなくては申し訳ない。たとえ脚が消えても、全てを。
「いいな、ためらうな。飛び越える事だけ考えろ。成功したらあとは真っ直ぐだ。振り返らず、真っ直ぐ行け」
「ショナー!前からも来たわ」
畜生!
どいつもこいつもサヨナラを惜しむ事さえさせてくれない。
チキショウ…
「気にするな。俺達の方が数秒早い。それで充分、お前の勝ちだ」
「ショナー!」
サヨナラ…
「行くぞ…飛べ!」
私とショナーは同時に飛び上がった。
「裏切り者を始末しろォ!」
私達から遅れ、追手の群れも襲い掛かる。
だがショナーが言った通り数秒の差、私は痛みも何も全てを忘れて彼を踏み台にする。
命の踏み台は私に命を与えた。
「銀花ァ!達者でな!」
私の成功を見届けたショナー。
しかしその直後ショナーは刺客らによって無抵抗に襲われる。私を活かす為に全てを投げ打った結果だった。
こうなる事は分かっていた。理解していながら私は自分の脱出を優先してしまったのだ。
「…!」
躊躇うな。
真っ直ぐ!分かってる。だからこそあとはこの一歩。これで私は…
その時、私を呼ぶ悲痛な叫び。
「銀花ァ…!」
それは完全に取り乱した奥様がそこにいた。
「…」
「お願い、行かないで、ね、お願い…銀花」
「…」
振り向けない。
「銀花」
「…」
「銀花…」
「…」
「行くのね…そう…銀花…」
諦めたその声、私はほんの少しだけ振り向いた瞬間。
パンッ
パパンッ
と、乾いた音が私を貫いた。
奥様は懐から拳銃を引き抜き私目掛けてその引鉄を弾いた。
完全に裏を突かれた私は腹を抉ったその凶弾に、訳が分からず激痛と共にボトリと落ちた。
…
…
…
…
辺りを見渡す。
そこは里崎家の壁の外だった。
ほんの数秒だが私は気を失っていた。アスファルトに落ちた衝撃で目を覚ます。
私は無意識に走り出していた。
脚が痛い。
腹が燃える。
そんな事なんか知らずに私は走って行く。
真っ直ぐ、真っ直ぐ道路を駆け出していた。
私に取り憑いたしがらみを振り払うように、ただひたすらに真夜中を駆け抜ける。
夜風が睫毛に染みるのか、涙は止まらない。私の足も止まらない。涙も溢れ続ける。
悲しくない。
悲しくなんかないんだ。
喜ぼう。笑え!笑わなきゃ!
ショナー
テッド
瑞希…
ヴァン……
アデューじゃない。違う、違う、これはアデューじゃないから。最期の別れじゃないから。
いつかまた。
今日の事を礼を、詫びを!
アデューじゃない。
いつかまた。いつかまた…
オルロワール…オルロワール…オルロワール…
ブツブツ呟きながら、私の感情は爆発する。
「ありがとう…ありがとう…ありがとう!!!…ああああ!ああああ!ああああ!ああああ!ああああ!ああああ!ああああ!ああああ!ああああ!ああああ!ああああ!ああああ!ああああ!ああああ!ああああ!ああああ!ああああ!ああああ!ああああ!ああああ!ああああ!ああああ!ああああ…ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
仲間を犠牲に私は鬼なる。
それでいい。良かったんだ。
私は腹の底から三日月もボヤけるあの夜空へ叫び続けた。
私の遠吠え里崎家に跳ね返る様に、私を生かしてくれた彼らの耳に届く様に、ずっと叫び続けた。
体中が痛い。
血が噴き出てる…
でも駆け抜ける。明るい都会を駆け抜ける。
痛い。
痛いよ…
いつも思ってた。もし死んだら、人間に生まれ変わりたいって。
だけど今日は不思議。人間じゃなくてもいいって思う。私が私であるなら、犬のままでも心地良い。
私は銀花。
里崎家に拾われた飼い犬。
里崎麗華様に仕える玩具。
役目は終わった。
私は死んで今夜生まれ変わった。
人間の手を離れた、野良犬として…
あの空に駆け抜ける。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
本編はここで終了します。
もう1話投稿しますが、キャラ紹介ですので気になった方はご覧になって下さい。
ありがとうございました。