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私は銀花。
名前は御主人様に付けて頂いた。
奥様にも私は、銀花と呼ばれていた。
ダイヤモンドにサファイアを混ぜ合わせたような、そんな私の髪が美しいと名付けて下さったのだ。
雪の花のようだともおっしゃっていた。
雪の結晶が花咲く、銀世界に蔓延と咲く花。
雪景色をもっと優雅に讃えた名誉ある名前。それが私の名前。
御主人様には私は愛してもらえた。無償の愛を頂いた。私は幸せだった。
奥様にも愛されていた、のだと思う。今から考えればだが。
しかし、当時はその愛を理解するには遠く至らなかっただろう。
あの足音が響く度、私に近づく度に戦慄しかよぎらなかったのだから。
奥様は誕生日に帰ってくる。
屋敷に到着するなり、私を自分の部屋に連れ込み二人きりになれたと知ると、待ちきれない表情で迫ってくる。
「愛してる」
「愛してるわ…銀花」
と、甘い口紅と芳香。興奮に満ちたその吐息は私の耳を通り抜けていく。
その囁き、博愛の微笑みで恐怖に固まる私を見下し、浅く、広く…
「愛してるわ、銀花」
その腕を振り下ろし、何度も、何箇所も私を切り刻んだ。
「あぁ…ああぁ!銀花、銀花ぁ」
私がひとつ傷つくごとに奥様の、快楽に溺れた声。
「あはぁ…綺麗、もっともっと切ない顔、もっとぉもっと!」
私の肌が朱く染まるごとにその声を震わせていた。
傷ついては病院に運ばれて、退院しては新しい勲章が刻まれる。
私の全身に及ぶ無数のミミズが這った跡は、ナイフのカットや鞭で打たれた事実の一部。これが奥様の愛。
奥様の愛を受け容れるのが私の愛、これが掟。
逃げようと考えた事はある。が、私が奥様から離れるには、かなりの時間が必要だった。当時の私はまだ幼く外の世界で生き抜くには至らな過ぎた。
奥様はそれを充分知っている。
宛のない私には今の生活失くしては存在すら成り立たない。彼女の足にすがりつかなければ、私は生きていけない。
この恩が私を縛らせた。
大人になりかけた頃だったか…
奥様に片目を潰された。
聞いた事があるか?
ジュー、ジュワ…
と皮膚を爛れ裂く音。
耳を塞ごうとも骨から伝わる脳にこびれつくあの音。
顔へ塩酸だか硫酸だか熱い液体が上から注がれ、狂気の痛みが否応なく私を覆う。
アゥゥゥゥゥゥグァゥゥゥ!!!!
激痛?そんなものは忘れた。
でも私は確か今みたいな声を上げてた。
そんな私に…
「笑いなさい。笑うのよ、そう、笑うの、あなたは」
と、柔らかな声色で、私を虫と同じに見ていた。
ああ。
忘れたさ、でも忘れる訳がないでしょ。
痛みで逃げ出さない為に首輪でしっかり繋がれて、予め先ずは足を折られる。誠に用意周到。折った足に痛みを集中させて、注意が逸れたところで無防備の顔へ酸が降る。
それがあの音、ジュー、ジュワァ…
だから悲鳴もあげた。でもそこで終わり。それ以上は無駄に叫ぶのを我慢して唸ったんだ。
でもその愛の中で私は笑った。あの人に笑えと言われたから私は笑った。一度だけでも笑えればそれでいい。あの人はそれで満たされるから、あとは震えて蹲れる。
彼女の頬を恍惚に染める。私が悲鳴を上げても最後に笑えれば、あの人は指をしゃぶりながら口元からだらしなく涎を垂らして悦んでくれる。
私が唯一出来る事。
それが愛と教えられた。
「た、大変なの!うう、う、ウチの子が!…えぇ、はい、そうです。すぐ、すぐ来て下さい!」
電話口で慌てふためき、眉間にシワを寄せる剣幕を演じてそれが終われば…全身を痛みと寒さで小刻みに震えてる私に、また近付いてくる。
「銀花。あと少し、もう少しでお医者様が来て下さるわ。絶対に死んじゃだめ、生きるのよ。私を残して死ぬ事は一番の罪、いいわね、私を悲しませないで」
「…」
もう体を動かす力は残っていない。
また入院、今度は長くなりそうだ。
そんなことより、眠い…
私の罪だろうが知らない。死んだらそれでいいのに…
まぁ死なないさ。殺さない、絶対殺してくれないんだ、この人は。
私は気を失う。
夢の中でもシナモンのボディパウダー、奥様の芳香の中で抱かれていた。
〜〜
私は病室の毛布の中で目が覚めた。
すぐに病院だと気付いた。匂いが違う。強い塩素の匂い、屋敷と全く違うこの特異な香りは集中しすぎると鼻が壊れそうだ。
「…」
無言で辺りを見回す。
…生きてる。やっぱり生きていた。
ため息が吹き出た。
そんな心中なんてお構いなしに病室の扉が開くと、入室してきた看護師と目が合った。
「銀花ちゃん?良かった!目、覚ましたのね。気分どう?」
「…」
気分?腹が減った。
でも食欲が湧かない、体のダルさとムカつきがひどい。
腕を通す点滴のチューブに左眼は眼帯で包帯ぐるぐる、右脚のギプス。これで死んでないのだから呆れてしまう。死にたい筈なのに、腹は減る。生きるとはなんとも欲張りだ。
「…」
私がだんまりだからか、看護師は少しはそれを察知し、私の体を無理にいじる事をせず、一旦出て行く。
「先生、里崎さんの銀花ちゃんですけど目が覚ました。食事どうしましょう?」
「点滴まだ残ってるから無理にはいらないよ。食欲あるなら少しづつあげて。食べたら悪いけど少し付いて様子見て、吐いたら教えてね」
私の見えない場所から聞こえる先生との会話。
程なくして看護師は食事と共に現れた。
「…」
食欲が湧かない。ダルさもあるが、この飯が非情に不味そうだ。試しに一口だけ舐めてみたが、やっぱり不味かった。
それ以上は見向きもせず私は眠る事にした。
麻酔は切れたみたいで、体中至る箇所で鈍痛が渦巻いている。痛みのせいでイライラしてるが、目を閉じてると気持ち落ち着いた。
味も素っ気もない部屋。窓のひとつも無い部屋は時間さえ生まれない。
せめて眠る事だけは邪魔されたくないのだが、それさえ私には許されない。
なぜならここは相部屋で、壁一枚仕切られたその先から下品な者達の耳障りな声が絶えず聞こえてくるからだ。
「おい、知ってるか?ここに女が入ってるらしいぞ」
「オンナぁ⁈ マジか!あぁ、言われりゃなんか匂いが違うなぁ」
「確かに!いつもの臭えのと…なんか違うわな」
「お、オンナぁ…へへ」
「女居るかぁ…たまんねぇわ」
「うぅ、ヤリてぇ!犯してぇ、すぐヤリてぇ!」
「おーい!女はどこでぇすかー」
「ヤラセろ」
「ヤラセろ」
「女ぁぁぁ」
「…」
連中の言う女は私か?とにかく黙ったままやり過ごす。
するとまた連中は他の話題でも盛り上がる。
「こっから、いー加減出してくれよ!俺ぁもうどこも悪かねーよ」
「おーい。メシ足りねーわ。おかわりくださーい。おかわりですよー!おかわり!おかわり!おかわり!」
「エヘヘへ…ションベン漏らしちまったぁ。臭えぇ、クッセェよぉ、エヘヘへ…」
「女とヤリてぇ!」
「おかわり!おかわりですよー!」
「ウンチも漏らしちゃったぁ。エヘヘへ」
「オンナぁ!居るんだろ?黙りこくってんじゃねぇよ」
「俺が優しく犯してやるぜぇ。ぶちこんでやるからなぁ」
「…」
「クッセェよ、ウンチウンチ、クッセェ」
「ぁぁぁ!ああぐぁあ」
「てメーラ!ウルセェんだ馬鹿野郎共が」
「ウルセェのはてめえだ」
「あぁ?やんのか」
「あー?」
「あー?」
「…」
この声が絶えず聞こえてくるんだ、劣悪にも程があるだろう。
ここは本当に精神病院そのもの、薄い金属の壁で隣人を遮り、出入り口は外から鍵が掛けられている。正に幽閉だ。
隣りが誰かも分からない、老若男女問わずこの牢屋に送られ、いつ退院するのかさえ不明。
この脆い壁がいつ崩壊してしまうかもしれない、入院慣れしたとは言え毎度の事ながら、ストレスは酷い。
正直なところ、この部屋の者達全員殺してやりたいが、とにかく今は体を休めるのに集中した。
体が休まるのは今しかない。
劣悪な環境だが心の休まらないあの屋敷よりはマシな気もする。
退院すればまた奥様の元に戻る。戻ればまた彼女の愛を受け容れなくてはならない。
次はどうなるか…考えただけで背筋に悪寒が走る。
私は怯えていた。
逃げれるものなら逃がしてもらいたい。逃げたとこで私には生きる術がない。
とにかく今は何も考えない方が良い。どう転んでも運命は変わらない。眠る事だけ、それだけ考えよう。
不安しかないが、私の体はその不安の中で少しづつ回復していく。
〜〜
六日程経ったと思う。
食事が二回、馬鹿共が騒ぎ出すのも二回。それを時計代わりにするとそれくらいということだ。
で、その六日目の朝は前触れも無くやってきた。
治療を受けていた私の前に、看護師の佐田がやってきて淡々と事を伝えている。
当然私の耳にも入る。
「先生、里崎様が今お見えになりまして、銀花ちゃんの様子を知りたいとおっしゃっているのですが…」
⁈
奥様が⁈
一瞬で私の表情は強張る。
奥様が来ただと?そんな訳ないだろう、あの人が私の見舞いなどあるはずも無い。動かない私になど興味も持たないあの人が?何かの間違いじゃないのか?
「うん。だったら…丁度今治療中だから入ってもらって」
!!
ー え⁈ ちょっと待ってくれ、私の話も聞いて…
「はい。分かりました」
私が口を開けようとした滑りに、佐田は私に見向きもせず部屋を出る。
「…」
生唾を呑み込んだ。
心臓が飛び出てしまうのかと思うくらいだ。
嘘であってもらいたい。聞き間違いであってもらいたい。別人であってもらいたい。
思いは裏腹。
奥様は来た。
私の前に駆け込んで来たのは、間違い無く奥様だった。駆け込んで来たのだが、何か様子はおかしい。その足は不安定でおぼつかない、明らかに不自然だ。
「銀花…?」
私はすぐ目の前なのに、探している素振り。
…見えない?
「…」
見えないのを証明する為か、奥様の隣には瑞希も付き添っていた。
私は瑞希とも目が合ったがお互い何も語らず、その目は外す。
「何処?銀花!」
「…」
奥様…なんで盲目のフリを。
演技ですよね?だって、貴女の瞳は既に私を捕らえていますよね。
「里崎さん、こちらです」
その声に反応して、ツカツカとヒールを響かしこっちに来た。
奥様は私の体を摩り、時にぽんぽんと軽く手を動かしながら感触を確かめていく。
触られる度、私の緊張は増していき毛穴という毛穴がしぼんでいくのが分かる。
「ああ!銀花!あなたの綺麗な顔がこんなに腫れ上がるなんて…私が家に居ながらなんで、なんでこんな事に!」
感情が昂ぶった奥様は“うぅぅ”と時に嗚咽しながら両手で顔を覆った。
「…」
「里崎さん、落ち着いて下さい。銀花ちゃんでしたら順調に回復してます」
「…ええ。ありがとうございます」
奥様は私の背中を摩り、目頭に薄く光る涙を人差し指で拭いた。
「確かに火傷の痕などは多少は残ってしまうかと思います。しかしあれだけの重症だった筈が、彼女自身もよく耐えて我々の治療にも文句も言わず受けてくれています。そのおかげか、骨折した足も癖なく綺麗に治るでしょう」
「私の目が見えないばかりに、こんな事に…ごめんなさいね、銀花」
「…」
もしもだが、今私が怪我の真相をここで告発したらこの場はどうなるだろうか?
「里崎さん、大丈夫です。銀花ちゃんは元気になってるんですから。御自身を責めないで下さい。後は我々にお任せ下さい」
「先生、なにとぞ銀花をよろしくお願いします」
「…」
そんな告発など、出来る訳がないか。揉み消された上に私は抹殺かな…
そんな恐怖に逆立つ私の背中を、再度奥様は抱き締めた。
「…」
瑞希は何も答えてくれない。
「じゃ、先生。あとはまたよろしくお願いします」
「お任せ下さい、お預かりします」
奥様は瑞希の体を借りながら拙い足でここを後にした。
「先生…おかしいですよね?私、何かとても引っかかるんです」
「ん?何が?」
奥様が去ってから、佐田は辺りを確認した後先生に妙なことを聞いた。
「銀花ちゃんの怪我です。里崎さんの話では銀花ちゃんが御主人の実験室に入った時に、誤って硫酸の瓶が上の棚から落ちて浴びたって言ってましたが…違和感ありませんか?骨折だってその弾みに転んでなったって割りにはおかしな気がしまして…先生もお気付きですよね」
「佐田さん。僕らは警察じゃない、医者は怪我を治すのが仕事。余計な詮索はしない方がいい。ただ、里崎さんは目は見えるみたいだね」
「…」
「演技、ですか?」
「見えないのに、あなたの顔がこんなになってって言ったろ?ま、探れば事情なんていくらでもあるさ。結局真相はこのコしか知らないんだよ」
「銀花ちゃんが話せれば…何があったか聞けるのに」
「…」
私はわざと先生達から背を向けた。
演技さ。何もかも。奥様の行動も、私だって…
馬鹿野郎。