十五歳
ふう、しゃべりすぎて、少し疲れたな。
じゃあ、次は、あの集団のことを話さないとな。
おれが高校生になった年の、七月のことだ。
夕方、学校から帰る途中に、公園のそばで、おれはまた出会ってしまった。
誰にって?膜に包まれた人間にだよ。
しかも今度は二人だ。
そいつらは、おれが通りかかるのを待っていた様子だった。
三十歳くらいの、やせたスーツを着た男と、黒い服とスカートをはいた、五十歳くらいの化粧の濃い女だった。二人とも、膜に包まれていた。
おれは、ぼうぜんとしながら立ち止まった。あまりにも突然だったからね。思わず、はあ?って声をあげてしまったよ。
膜に包まれたそいつらは、なれなれしい笑みを浮かべながら、おれの前に歩み寄ってきた。なんか、気味が悪かった。
「君も、嫌魔にとりつかれたんだね」
男がやさしく話しかけてきた。
「やま?」
おれが首をかしげると、女が答えた。
「あなたの体を包んでいる、それのことよ。それは嫌魔といってね、妖怪なの。それにとりつかれた人間は、すべてのひとに嫌われる」
はじめて膜の名前を知ったおれは、あらためて自分を包む膜、いや、嫌魔をじっと見た。
「自己紹介が遅れたね。わたしはガジの会の中崎という。彼女は田村だ」
そう言って、男はおれに名刺を手渡した。
「ガジの会って、何すかそれ?」
名刺を見ながら、いぶかしげに聞くと、田村が答えた。
「嫌魔にとりつかれた被害者の会、といったところかしら。とりつかれた者同士で集まって、語り合い、苦労をわかちあうの。嫌魔にとりつかれた人間にとって、もっともつらいのは、孤独。そうでしょう?でも、とりつかれた者同士なら、なぜか嫌悪感を感じることはない。だから、とりつかれた者同士で集まって、嫌魔への対策を話しあったりしているの」
中崎がひきついで言った。
「ぼく達は、嫌魔にとりつかれたひと達を探しては、ガジの会への勧誘をしているんだ。どうだい、君もガジの会に入らないかい?悪い話じゃあないと思うけど」
おれは二人と名刺を見くらべてから、答えた。
「すいません。少しだけ考えさせてもらっていいすか」
中崎は笑みをくずさぬままうなずいた。
「いいとも、何かあったらいつでも、その名刺の住所をたずねてきてくれたまえ」
おれは二人と別れた。
ガジの会の話は、魅力的だなとは思った。しかしいい返事をしなかったのは、二人の挙動に不気味なものを感じたからだ。
あいつら、話している間、一度もまばたきをしなかったんだよ。
ささいなことといえば、ささいなことなんだけど、そのことが妙に気になったんだ。
別れ際に田村がこう言い残した。
「わたしにはわかるわ。あなたはきっとガジの会にくる。嫌魔にとりつかれた人間はけっしてふつうに生きることはできないのだから」
くやしいけど、そいつの言ったとおりになった。
三日後の、夜のことだ。
電気をつけたまま、自分の部屋のベッドでうたた寝をしていると、突然脳天に痛みを感じて目を覚ました。
何かが頭に強く衝突したようだ。
最初は、寝相が悪くて、壁にぶつかったのだろうと考えた。しかし、そっと頭に手をあててみると、ぬるりとした感触があった。
血が出ていたんだ。
おれはおどろいて飛び起きた。すると、ベッドのそばに、人が立っていることに気がついた。
「親父?」顔をあげてつぶやいた。「何してんだ?」
それには答えずに、親父はいきなり腕をふりあげた。その手には、金鎚がにぎられていた。
ものすごく嫌な考えが頭を駆けめぐった。すぐさまその考えを否定したかったが、金鎚の先に血がついているのを見てしまって、できなかった。
おい、冗談だろ?やめてくれよ。そりゃあ、おれは嫌魔のせいで親父を苦しい目にあわせてきたさ。そのことは、本当にすまないと思っているよ。でも、だからといって、親子でそれはないだろう。
必死でそう叫ぼうとしたが、動揺が大きすぎて、声に出すことができなかった。
親父は言った。
「電気のつけっぱなしはよくない」
金鎚がふりおろされた。
おれはそれをよけて立ち上がり、むちゃくちゃに叫びながら親父を突き倒した。
やせこけた親父の体は、あっさりと床に崩れ落ちた。
手に残る感触の軽さにがく然としながら、おれはそのとき初めて死にたいと思った。
そのあとすぐに、おれは家を飛びだした。そして中崎にもらった名刺に印刷されていた、ガジの会本部の住所へ向かった。
おかしくなりたいと思ったんだ。あのとき会った、中崎と田村には、どこか異常な気配を感じた。あいつらの所へ行けば、まともじゃなくなれそうだ。そうすれば、この苦しみから逃れられる。
そんな、自暴自棄なことを考えていたよ。
ガジ会の本部は、町外れの海沿いにあった。
白いコンクリートの、四角くて横長い建物だった。
まわりには、道路以外に何もない、静かな場所だった。闇の中、ゆっくりとした波の音が響いている。
建物の窓から、明かりがもれていた。深夜だというのに、中にひとがいるようだ。
おれは入口の引き戸の前に立った。ためらいをおさえながら、声をあげる。
「すいません」
・・・・・・・・・・・・。
少し待ったが、返事はなかった。
電気がついているだけで、誰もいないのかと思ったら、中の方から物音が聞こえた。
やはりひとがいる。
おれはもう一度、すいませんと声をかけた。しかし、まだ反応はない。
少しいらついたおれは、引き戸を開け、入りますよ、と言って中に足を踏み入れた。冷静でいられなかったもんでね。
玄関には、たくさんの靴がならんでいた。ガジの会のひとのものだろうか?
おれは靴を脱ぎ、廊下にあがった。
すると、奥の方から、ひとりの男があらわれた。
あの日、おれを勧誘した男。
中崎だった。
中崎は、おれを見ると、困ったような顔で、
「ああ、君か」
とつぶやいた。
おれも中崎を見て、困った顔をした。いや、正確には、どんな表情を浮かべればいいのかわからなくなって、ほぼ無表情になっていた。
中崎の全身は血まみれだった。スーツに、ズボンに、乾きかけた赤茶色の血が、こびりついていた。
沈黙があった。
それからしばらくの間、互いに、いや、ええと、とつぶやき、言葉を探しながら見つめあった。
「何、それ?」
やっと、おれの方からそう聞けた。
中崎は眉間にしわをよせながら、頭の中を整理するように天井を見つめた。それから言った。
「すごいタイミングで来たな君は。まあ、いいけどさ。とりあえず、説明をするからついてきなよ」
中崎は背を向けると、奥へむかって歩きだした。おれは迷ったが、すぐに自分には行くところがないことを思い出し、奴についていった。
中崎はおれを、畳の敷きつめられた広間に案内した。
なんとなく予感はあったが、その広間の光景を目の前にして、頭の中が、重くしびれた。
おそらくガジの会の人間であろう、二十人くらいの人間が、畳の上にたおれていた。
誰もが、おれと同じ嫌魔に包まれていた。
老若男女、いろんなひとがいた。
みんな、死んでいた。
畳の上には、便器にこびりついた糞のように、すさまじく汚らしい血溜まりが広がっていた。
死に方は、ひとりひとりちがっているようだった。
全身にあざがある者。
首にしめられたあとがあり、目を剥いている者。
喉に釘が刺さっている者。
肩から胸にかけて、長い切り傷が残っている者。
一目で確認できたのは、それだけだ。あとはよくわからない。急激な吐き気がこみあげて、口をおさえて下を向いていたからな。
さっきおれを殺そうとした親父の表情と、目の前に転がる死体達の表情が、頭の中で複雑にまざりあい、脳が熱くなった。
中崎は苦笑した。
「君も仲間になりにきたんだろ?でも、おそいよ。みんな死んでしまった」
「・・・・・・いったい、何が?」
おれはなんとか口をひらいた。舌の根が緊張で渇いていた。
「何が起きたんだと思う?」
ぼんやりとした口調で聞き返された。
「わかるわけないだろう、こんなの」そこで少しえずいたあと、中崎を見た。「まさかこれ、あんたがやったのか?」
「んん、やったといえば、やったのかな。この中の何人かは、ぼくが殺したからね」
おれは、一歩あとずさった。
「・・・・・・どういうことだ?」
中崎は、死体の方を向いた。
「彼等は神様のもとへ旅立ったんだ」
中崎はポケットから赤い錠剤を取りだし、おれに見せた。
「これ、なんだと思う?」
「知らねえよ。何だよ、いきなり?」
「ガジっていうんだ、これ。この薬を飲むと、とても幸せな気分になれるんだ。時々幻覚を見るけど、甘くて、あたたかくて、やさしい気持ちになれる」
うっとりと語る。
「・・・・・・それって覚醒剤か?」
そう言うと、中崎は傷ついた表情になった。
「その呼び方は好きじゃない。私達は、この薬に救われてきたんだ。このガジを服用することで、至福の時間を過ごし、嫌魔にとりつかれることで味わってきた苦しみや悲しみをを忘れる。それが、このガジの会の主な活動内容だったのさ」
「・・・・・・・・・・・・」
ガジの会に対する、おれの不安は当たっていたようだった。
中崎は語った。
「今日の夜も、私達はガジを服用して、至福の時間を過ごしていた。すると、私達は神様を見た。ああ、いま思いかえせば、あれは集団幻覚だったのだろうが。私達は部屋の中心に、光輝く美しい神様を見たんだ。神様はこう言った。『嫌魔に包まれ、この世の苦しみを他のひとよりも多めに受け止めてきたあなた達は、神に選ばれし存在です。あなた達の魂を、極楽浄土へ連れていってあげましょう。だからいますぐみんなで、互いの命を奪いあいなさい』。ははは、ふりかえったら、すごく馬鹿げたことを言われていたんだな。わたし達はその言葉を素直に信じて、殺し合いを始めた。恐怖はなかった。極楽浄土への期待で胸を踊らせながら、みんなで楽しく殺し合った。ひとり死んで、またひとり死んで、それを繰り返して、最後に山崎さんという五十代のおじさんとわたし二人が残った。わたしは大理石の灰皿で山崎さんを殴り殺した。山崎さんは笑いながら、目から血を流して死んだ。数分後、君がやってきて、いまにいたる。まあ、そういうわけさ」
「そういうわけさ、じゃねえよ」おれは叫んだ。「何なんだよ、おまえら。まともじゃねえよ。そんな怪しい薬にはまって、それで、殺し合いだなんて」
「ああ、まともじゃないよ」中崎はおれをにらみつけた。「嫌魔にとりつかれた人間が、まともなやり方で幸せになれるわけがないだろう」
その時、中崎はふらりとよろめいて、その場に尻餅をついた。
「どうした?」
おれが駆けよると、中崎はため息をついてつぶやいた。
「だいぶ、血が抜けてきたみたいだ」
「血?」
中崎は無言で右腕をさしだした。
それを見て、おれは、ああ、とつぶやいた。
だが、何も感じなかった。驚き疲れて、感情が麻痺してしまっているのか。それとも、なんとなくこういうことを予感していたのか。
中崎の右手首には、ガラスの破片が刺さっていた。傷口から、どぷどぷと血が流れている。中崎の全身が血まみれだったので、めだたなくて気がつかなかった。
「あんた、それ・・・・・・」
「わたしだけが生きているってわけにはいかないだろう?君が来るちょっと前に、自分で刺したんだ。もうけっこう血が流れたんだけど、まだ死なないね。人間って思ったより丈夫なんだね」
そのあと、おれと中崎は何も話さずに過ごした。
中崎は、仲間の死体にむかって、手をあわせてじっとしていた。
いまは何を考えても、絶望的な気持ちになりそうだったので、おれはできるだけ頭の中を真っ白にして、窓から海をながめつづけていた。
「あ、そろそろ死ぬかな」
そうささやいて、中崎は寝転がった。顔が青い。相当血がぬけているようだ。
おれは黙って見つめていた。どんな態度をとればいいのか、わからなかった。
「あのさ」最後の力をふりしぼるようにして、中崎は言った。「さっきはあんなことを言ったけどさ、実は本当に神がやってきたんじゃないかと思っているんだ。きっと、仲間の魂は今頃、極楽浄土にたどりついているんだよ。だから、わたしも死んだら、極楽浄土へ行けるはずなんだ。だってみんな、何も悪いことはしていない。正しく生きてきた者ばかりなんだから」
おれに話すというよりは、自分に言い聞かせているような、そんな口調だった。
おれは、嫌魔が魂を吸うことを思い出して、やりきれない気分になった。
中崎はとつぜんひざに顔をうずめた。
「ああ、やっぱり死ぬのは怖い」
そのままの体勢で怖い怖いとくりかえしながら、中崎は息をひきとった。
おれはあらためて周囲を見わたした。死体だらけだ。こいつらの死に様は、あまりにもむなしすぎる。
そのとき、死体を包んでいた三十以上の嫌魔が、ひとつ、またひとつと小刻みに震えだした。缶藤美代子のときと同じだ。そして嫌魔は、極楽浄土を願った者達の魂をゆっくりとすすっていった。中崎の魂も、当然すすられていた。
「おまえら、何なんだよ?」
おれは嫌魔にむかって怒鳴った。
「なんでおまえらみたいなものが存在してるんだよ?」
返事がないとはわかっていたが、叫ばずにはいられなかった。いろんな負の感情が入り混じって、頭が破裂しそうだった。
すると、またもや、異変が起きた。
いいか?
いまからおれが話すことは、この異変だらけの話の中でも、もっとも馬鹿げた出来事なんだ。
しかも、だいぶ前にテレビで報道された、とある事件とも関係がある。
死体を包んでいた嫌魔のひとつひとつが、死体からはがれたんだ。
その三十以上の数の嫌魔は、宙を少しの間、ただよった。そのあと、一瞬ぴたりと止まると、いっせいにおれの方に向かって飛んできた。
そしてその全てが、おれを包んでいた嫌魔と次々に重なっていって、ひとつになった。
三十以上の嫌魔が、おれの嫌魔と融合しやがったんだ。
嫌魔の膜の層がぶ厚くなり、表面に繊毛がたくさん生えてきた。ぶつぶつした細かいイボが浮きでてきて、前以上に醜悪な形に変わってゆく。
おれはものすごく不安になって、それをはぎとろうとしたが、やはり触ることはできなかった。
異変はまだ終わらなかった。いや、それから始まったというべきか。
外の方から、ざわついた気配を感じていたんだ。何だろうと思って、おれは窓から外を見た。
そして、ぶったまげた。
朝が近づき、空はうっすらと青くなりはじめといた。
その空を、小動物の群れが飛んでていた。
ばかみたいにたくさんの数の鳥や虫が空を埋めつくし、縦横無尽に飛びまわっていた。
けたたましい鳴き声や、羽音が、窓ガラスを割りそうなくらいにやかましい。
数分もしないうちに、その鳥や虫たちは山の方へ飛び去っていった。
何が起きたのかわからずに、ぼうぜんとしていると、今度は町の方角から騒ぎ声がかすかに聞こえてきた。大勢のひとの悲鳴や怒号、泣き声やわけのわからない絶叫、それにまじって車の急ブレーキ音、衝突音。人気のないこの辺りにまで届いてくる。
何か災害でも起きたのかと思って、おれは建物の外に出た。
町の方角にもう一度目をこらしたが、とくに変わった様子はなかった。地震ではないし、火事で燃えている感じでもない。やがて騒ぎ声は、ゆっくりと遠ざかっていった。
朝日がのぼり、空が明るくなった。
このままここにいてもしょうがないと考えて、おれは町へ向かうことにした。とりあえず、さっきの騒ぎの原因を確かめてみようと思ったんだ。ガジの会の建物にむかって手をあわせておがんでから、おれは歩きだした。
さっきまで血生臭い部屋にこもっていたので、朝の空気がいつも以上に清々しく感じられた。
町の中には、誰もいなかった。
どの民家も、玄関のドアや窓が開けっ放しになっている。人の気配は全くない。どこかの信号機から、音の割れた「とうりゃんせ」が聞こえてくる。住民はみんなどこかに避難したのだろうか?しかし何のために?それがわからない。見たところ、どの建物も破損はなく、何か災害が起きたような形跡は見当たらない。
朝だというのに、雀や鴉の鳴き声がまったく聞こえないのも妙だった。あのたくさんの鳥や虫達といっしょに、みんな遠くへ飛んでいったのだろうか。なぜ?
次々とわいてくる疑問にいらつきながら、おれは商店街に足を踏み入れた。
そこにある小さな電気屋の店頭に、電源を入れたテレビが置かれていた。何の気もなしにそれを見ると、画面に見覚えのある町並みが映っていた。
それはおれが今いるこの町を、ヘリコプターで上空から撮影したものだった。
おどろいてテレビの前に駆けよると、画面が変わって、今度は町の外れにある病院が映った。大勢の人間が、その病院の入口に群がっていた。
どうやら、この町の異変について報道されているようだった。マイクを持ったレポーターの言葉を、おれは耳を近づけて聞きとった。
レポーターの話を要約すると、こうだ。
昨晩の深夜四時頃、この町の住人はみんな、突然家を飛び出して、町から避難したという。住人達が言うには、急に気分が悪くなり、なぜか町の中にいるのが、すごく嫌になったのだそうだ。町を出ると、気分の悪さはおさまったが、なぜか町に戻ろうとは思えない。念のために、いま住人のひとりひとりが、病院で検査を受けている最中である。
と、まあ、そういった感じのことを、レポーターは釈然としない顔つきで語っていた。
おれはすぐにわかったよ。
こいつは、嫌魔のせいだってね。
ガジの会の建物で、おれの嫌魔は三十以上の他の嫌魔と融合しやがった。そしたら、嫌悪感が届く範囲も、三十倍以上になったってわけさ。鳥や虫が飛んでいったのも、きっとそのせいだろう。
さっき言ったテレビで報道された事件ってのは、このことさ。あれ、おれが原因だったんだよ。
おれは、テレビの前で力無く笑った。
なんかもう、笑うしかなかった。
その後、おれは無人の町で適当に生活をした。知らない誰かの家に住みつき、一日中そこで過ごした。腹が減ったときには、近くのスーパーマーケットに置いてある食べ物を盗んで食った。退屈なときには、玩具屋からゲームを盗んでやった。
町から出ようとは思わなかった。
おれが動いたら、嫌魔の嫌悪感の範囲も動いて、また大騒ぎにねるんだろうし、何より面倒くさかった。
町に電気は流れつづけていた。テレビのニュースによると、この町にまだ人が残っている可能性があるので、しばらくは電気や水道は止めないようにしよう市政が判断したらしい。ありがたい話だった。
まわりが無人になったから、嫌われてつらい思いをすることがなくなった。ひさしぶりに、心の休まる暮らしができようになった。
テレビのニュースで、政府の調査団が、耐菌スーツを着てこの町へ入ろうとするところが放映された。何か新種の伝染病が発生したのではないかと疑ったそうだ。彼らは一歩も町に入ることができなかった。当たり前だ。耐菌スーツで嫌悪感を防げるわけがない。この町は、立入り禁止区域となった。避難した住人たちは、政府が用意した非常用の簡易住居で暮らすことになった。
さて、この話も、もうすぐ終わりに近づいてきた。
悪かったな。こんな暗い話につきあわせてしまって。
もうすぐ、終わるから。
最後まで聞いてくれよな。
町が無人になってから、一ヶ月くらいが過ぎた頃のことだ。
昼間、おれが食べ物を盗みに商店街へ行くと、一軒の小さな駄菓子屋の中から、物音が聞こえてきた。
おれはおどろいて立ち止まった。
おかしい。この町にはひとはいないはずだ。犬や猫なんかもいなくなっているはずしかし確かに、何かが動いている気配がある。おれは息を呑みながら、駄菓子屋の中をのぞいてみた。
ひとりの少女が、レジの横に置かれてあるスナック菓子の袋をあさっていた。パジャマを着た、十三歳くらいの少女だった。おれが近づくと、少女はふりむき、少しの間、じっとこっちを見つめてから、ゆっくりと頭をさげた。
「こんちは」
はっきりとしない発音で、少女は言った。
「え?ああ、こんにちは」
つられて、おれも頭をさげた。
「お兄ちゃん、逃げ遅れたあですか?」
少女はこちらを直視したまま聞いた。なんだか、しゃべるのがおそい。
「逃げ遅れたって?」
「テレビで言ってたあです。この町、危ないバイキンいっぱいて。だからこの町のひとは、みんな逃げたて」
少女はおれに対して、嫌悪を感じていないようだった。
どうなってるんだと思いながら、おれは聞いた。
「君は逃げないのか?」
「はい」
「どうして?」
「この町にはあ、お母さんのお墓があるです。テレビでは、この町、立入禁止になったって言ってたあです。一度この町から出ると戻れなくなりそう。そしたら、お母さんのお墓参りに行けなくなるので、それはお母さんがかわいそうなので、わたしはこの町にいることにしたあのです」
ぼそぼそとしたしゃべり方で、少女はそう語った。
なんとなく、わかった。この娘、たぶん脳に障害があるのだ。
「そうなんだ。なんか、えらいね」
「おお兄ちゃんこそ、なんでえ、ここいるですか?」
「え、おれ?」あわてて考える。「その、おれ、この町がこうなったとき、家出している途中だったんだ。いま、この町を出たら、きっと救助隊とかに助けられて、検査を受けて、そのあとたぶん家族のもとに連絡されるだろう。それが嫌だったから、この町にとどまることにしたんだ。」
まあ、一部は嘘じゃない。
「お兄ちゃん、逃げていったあひと達みたいに、気分が悪くはないですか?」
「いや、何ともないよ」
「わたしもです。何ともないです。不思議です」
少女はポテトチップスの袋を開けて、中味を少し食べると、もじもじと恥ずかしそうに言った。
「お兄ちゃん、あの、よかったら、わたしといっしょに暮らしてくれないですか?」
いきなりでびびった。
おれは目を丸くして、無言で少女を見下ろした。
少女はつづけた。
「この町こうなってから、わたしずっとひとりでえ、生活してたです。でもわたしまだ小さいから、わからないことがいっぱいです。だからあ、いま、お兄ちゃんに会えて、すごくほっとしているです。お願いです。わたしといっしょに暮らしてくださいです」
手を、握られた。
おれは迷い、考えて、答えた。
「いいけど」念のために、聞いた。「おまえ、その、いま気分悪くないの?」
少女は首をかしげた。
「はい」
「そうか」
いったいどうなっているのだろう。なぜこの娘は、嫌魔の影響を受けないのか。
そのあと、少女は自己紹介をした。
「わたしの名前はあ、倉島利美です」
その日から、利美の家で寝泊まりをすることになった。
利美の家は、新築のマンションだった。部屋が広い。かなりの金持ちだったらしい。
カレーのCMなんかで見るような、システムキッチンのある台所。寝室には、ダブルベッド。でかいテレビのあるリビングルーム。あちこちに、おそらく利美がちらかしたであろう、オモチャやお菓子の食べかすが散乱していた。おれはまず、それを掃除することから始めた。
まあ、そういうわけで、おれは利美と共に生活をすることにした。
利美は、初対面のおれにまっすぐになついてきてくれた。
でも、おれはそれに対して、あえて無愛想にふるまっていた。話しかけられても、必要な会話以外の雑談では無視をした。家の中でも、なるべく顔をあわせないように避けて行動した。
不安だったんだよ。
嫌魔に包まれているおれと話していても、利美はなんともない。この状態は、何らかの奇跡か偶然で、何かの拍子で利美も、おれのことが嫌いになるんじゃないか。そんな不安があった。
もし仲良くしたら、その分だけ、嫌われたときの失望が大きくなっちまう。だから、好きにならないように、気をつけようとした。
でも、無理だった。
いままでずっと、ひとに嫌われてきたから、理由もなく憎まれつづけてきたから、利美になつかれたことが、うれしくてしょうがなかった。表面上は冷たい態度をとっていたけど、胸の中では、あいつに対する好意が勢いよくふくらんでいった。おれが風呂に入っているときに、脱衣場にバスタオルを置いてくれたりとか、それだけで、感動して泣きそうになっちまうんだ。
利美は、おれが無視をするたびに、悲しそうにうつむいていた。
利美と暮らしはじめてから、十日たった頃のことだ。
その日の朝、おれと利美は、食料を調達しにスーパーマーケットへ向かって歩いていた。
すると、途中で利美が、道脇のドブにあやまって落ちてしまった。ドブ水がはねて、利美のスカートが黒く汚れた。
おれは駆けよって手をさしだした。
「怪我はないか?」
「んん、大丈夫です」
利美はおれの手をつかんでドブから出た。ドブ水の、ゴミと苔のまじった、濃い悪臭が、汚れたスカートからただよってくる。
おれは言った。
「いったん帰って、着替えるか」
「なんで?別にいいです。このままスーパーに行くです」
「そんな、汚れっぱなしじゃあ、嫌だろう」
すると利美は、不思議そうな顔になって、妙なことを聞いた。
「スカートが汚れるって、嫌なことなのですか?」
「はあ?何言ってんだ?」
「わたしには、わからないんです」利美は、スカートの汚れた部分をつまんで言った。「嫌なことというのが、わたしには理解できないんです。前に、お医者さんに言われたあです。わたしの脳には、嫌だと感じる部分に、障害があるです。だからわたし、嫌っていうのが、どういうものなのか、知らあないです」
おれは目を丸くして黙りこんだ。
おどろいたよ。そういうことがあるのかって。
でも、謎が解けた。
利美は、嫌悪というものを、感じることができない。だから、嫌魔に包まれたおれの近くにいても平気だったんだ。
嫌魔のせいで、利美に嫌われることはない。
少し考えてから、喜びがゆっくりと激しくわきあがってきた。
思わずおれは、利美の体を強く抱きしめて泣いていた。
やわらかかった。すごくあったかかった。
「どうしたです?お兄ちゃん、どうしたです?」
腕の中で、利美は顔を赤くしながらあわてていた。
それからの日々は幸せだった。
利美といっしょに普通に暮らした。その普通が、おれにとってはたまらなく幸せだった。
もう無愛想な態度をとる必要はない。素直な気持ちのままで、接することができる。利美は、突然やさしくなったおれにとまどいながらも、うれしそうな笑顔を見せてくれた。
利美は、おれのことを泣き虫さんと呼んで何度もからかった。
いや、な。利美がちょっとやさしいことをしてくれただけで、つい涙が出てしまうんだよ。
たとえば、メシを食っているときに、おれが箸を落とすだろ?すると、利美が、それを拾って、渡してくれる。
それだけで、泣いてしまうんだ。
なんか、胸が熱くなって、たまらなくなってしまうんだよ。
笑うなよ。仕方ねえだろ。
嫌魔のせいで、十年以上、優しさとは無縁な生活をしてきたんだからな。
はっきりいって、このまま利美と結婚してもいいと思った。おれは、利美のことが好きになっていた。
しかし嫌魔は、そんなおれの幸せを許してはくれなかった。
夏の終わりが近づいてきた頃の夜。
利美が夕食にグラタンを作ってくれた。
「前に、調理実習で作ったことがあるです」
ここでの食事は、基本的に缶詰めや保存食ばかりだったので、久しぶりに手料理が食べられるのはうれしかった。
利美がお茶をいれている間に、おれは食器の用意をした。湯呑みとスプーンをテーブルの上に置こうとしたときだ。
急に、嫌魔が小刻みに震えだした。
おれは湯呑みとスプーンを床に落としてしまった。やかましい音が響き、利美がおどろいてふりかえる。
「お兄ちゃん、どうしたです?」
おれは返事をしなかった。何か異変が起きることを察して、顔を青くしながら警戒した。
そして、最後の異変が起きた。
嫌魔が、おれの体から、はなれたんだ。
目を見開くおれの前で、嫌魔はゆっくりと移動し、利美の全身を包んだ。
突然凄まじいストレスに襲われて、おれはうずくまった。頭が激しく痛み出し、全身に鳥肌がたつ。ぜんそくになったかのように、呼吸がうまくできなくなる。
「お兄ちゃん?お兄ちゃん?」
心配そうに、利美が駆け寄ってきた。
その瞬間、鼻血がふきだしてきた。嫌魔の発する、町からひとがいなくなるほどの嫌悪感を、至近距離でもろに浴びてしまったんだ。
気がつくと、おれは裸足のまま家から飛びだしていた。理性が働かない。肉体がひとりでに、利美から逃れようとする。
それからのことは、あまりよく覚えていない。
とにかくひたすら走りつづけていた。息が切れ、小石で足の裏を切っても、休まずに走りつづけていた。
やがて町から出たところで、おれはやっと我にかえった。
利美を置いていってしまったことを思い出し、あわててもどろうとしたが、体が動いてくれなかった。
町の方を向いただけで、立っていられなくなるくらいの吐き気がこみあげてくるんだ。初めて味わった嫌魔の力は、想像以上に強烈だった。
きっと嫌魔は、おれが絶望し、自殺しそうにないから、狙いを利美に変えたんだ。そして利美を孤独にして、おれに捨てられたという絶望感をあたえて・・・・・・・・・・・・・・・・・・ちくしょう。