第三節 手に届くための必死
「慎治、俺に理科(生物)と数学を教えてくれ」
俺は単刀直入にそう言って頭を下げた。
「何だいきなり、お前、そんなにヤバいのか?」
勉強のことなんて普段何も口にしない俺の言葉に、慎治は少し驚いたようにそう言った。
「いや、そういうわけじゃないけどさ、今回祐奈と中間で勝負することになったんだよ」
俺は正直にいきさつを説明する。
「高埜と? お前高埜の成績知ってんだろうな?」
「知ってるさ。だから一人じゃ無理だと思って、お前に頼みたいんだよ」
俺が言うと、慎治は腕を組んで考え込む。
おそらく、出来るかどうか考えてるんだろう。
「時間もないし勝てる保証は出来ないが、それでもいいか?」
「ああ、頼む!」
俺が頭を下げる。
「分かった。じゃあ協力しよう。俺、今日はまだ部活あるから、終わってからになるが、いいか?」
「ああ、頼む」
試験期間の始まりは明後日からだ。
そうなると部活は基本的に休止になり、みんなが勉強に入る。
おそらく祐奈もそこから勉強することだろう。
無駄な抵抗かもしれないが、そこまでに引き離された分を取り戻しておきたい。
だから今日から始めたい。
部活で遅くなってもいい。
それまでにすることは別にあるんだからな。
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放課後の教室で美琴を探すと、既にいなかった。
行き先なんて分かっているので俺もゆっくりとそっちへ向かう。
テストが近いからなのか、図書室は昨日より少しだけ混み合っていた。
とはいえ、席が埋まるほどじゃない。
空席の合間にいる美琴を見つけ、俺はそっちへと向かう。
「美琴、ちょっといいか?」
俺はそう言いながら、美琴の隣に座る。
美琴はじっと俺を見つめていたが、こくん、とうなずいた。
「ちょっと頼みがあるんだけどさ、聞いてくれないか?」
美琴は何も言わずこちらを見つめる。
話は聞こうってところか。
「俺に国語と歴史を教えてくれないか?」
俺の頼みに、美琴は眉ひとつ動かさない。
「今度の中間で、俺は上位になりたいんだ! 頼む、空いてる時間でいいから!」
俺は頭を深く下げる。
美琴は相変わらずじっと俺を見つめている。
美琴にとって空いてる時間はずっと本を読んでいたいところだろう。
ダメか? それとも考えてるのか?
わからないまま、俺は下げた顔を上げる。
美琴は表情を全く変えず、俺を見ていた。
しばらく俺を見た後。
「分かった」
一言だった。
重みも何もない。
感情もない軽く言ったかのような一言の了承だった。
「……本当に?」
だから、俺はつい確認してしまった。
美琴は無言でこくん、とうなずいた。
そして、カバンから教科書とノートを出して広げた。
承諾直後にもう勉強開始か。
「ノート、取ってる?」
美琴がノートを広げながら、無表情で聞く。
「あ、うん、まあ、取ってないことはないけど」
俺は自分のノートをカバンから取り出し、美琴の前に広げてみせた。
美琴は俺のノートをじっと見る。
ぱらぱらとページをめくって見る。
そして、ぱたんと閉じる。
「これじゃ、駄目」
俺のノートが否定された。
「私のノートが一番いいかどうかは知らないけど、そっちよりマシ」
そう言って美琴は自分のノートを広げる。
言い方は一見きついように思えるが、美琴ってのはこういう奴なので、そう思って付き合っていれば問題はない。
愛想がないから友達も少ないから、祐奈みたいにその部分すっ飛ばして親しくなるやつじゃないとなかなか付き合えないだろうな。
俺は身を乗り出した美琴のノートを見る。
少しだけ美琴の匂いがするくらいの距離だが、まあ、こいつはそんなこと気にする奴じゃないだろう。
ノートには丁寧な字が羅列されていた。
確かに黒板をただ写してる俺とは違い、要点を分かりやすくメモしてる。
これは分析するまでもなく、テストの点がいい奴、いや、勉強ができる奴のノートだ。
授業を理解してて、理解してるからこそ、要点をまとめられる。
俺は理解していないから、ただ黒板を写すだけだ。
この差が出来るか出来ないかの差だろう。
このノートの取り方を今から始めたとしてもそうそう間に合うもんじゃない。
今回はこれを見せてもらうのが一番手っ取り早い。
「美琴、このノート見せてくれないか?」
「構わない」
美琴の、おそらく快諾。
表情がほとんど変わらないので分からないが、こいつは嫌なときははっきり嫌と言うし、大丈夫だろう。
本当は人のノート見て勉強なんて他力本願な真似したくないけど、今回だけは仕方がない。
俺は本を読む美琴の隣で、それを必死で写すことにした。
コピーするのも金がもったいないし、写す方がその時間も頭に入ってくるから勉強になる。
予想される中間の試験範囲はそう広くなく、部活の終わる四時半には写し終わることができた。
「おっと、時間だ。ありがとう美琴、あと社会もまた頼む。お礼はまたするからさ」
俺は美琴にノートを返しつつ、礼を述べた。
「構わない。またいつでも言ってくれていい」
表情が変わらない奴なので分かりにくいけど、多分歓迎してるみたいだ。
美琴が表情豊かだったらにっこり笑って俺を送っているところだろう。
こいつ、結構可愛いから、ちょっと笑ってちょっと人当たりをよくすれば、少なくとも男はほっとかないんじゃないかな。
そんな余計なお世話を考えてから図書室を出た。
そのままクラブ棟へ向かう。
祐奈に会わないようにこそこそしながら慎治を探していると、既にクラブ棟前で待っていた。
「よお、待たせたな?」
そう言ったのは俺じゃなく慎治の方だった。
「いや、図書室で勉強してた」
「お前、本気だな」
慎治が少し驚いたように言う。
「そうだな、本気でもすぐには敵わない相手だ。こっちも死ぬ気で取りかからないとな」
俺は既に覚悟を決めている。
勝つためなら最大限の努力をする。
「分かった。じゃあ、やるか。お前んちは駄目だったよな?」
「ああ、珠優と同じ部屋だからな」
俺はこいつをあまり家に呼んだことはない。
俺と珠優は同部屋なので、あまり友達を呼ばないようにはしている。
俺だって部屋に知らない女の子がいたら嫌だし、珠優だって知らない男がいたら嫌だろうからな。
「相変わらずいい生活環境してんな。じゃ、俺の部屋だ」
そう言って慎治が歩き出すので、俺はその横に並ぶ。
俺と慎治は適当なことを喋りつつ、慎治の家へ向かう。
慎治の家は、俺の家の倍くらい広く、こいつにも兄弟はいるが、こいつは自分の部屋を持っている。
「さて、理数でいい点を取るには、いかに暗記を少なくするか、いや、いかに効率のいい暗記をするかだ」
自分の部屋の勉強机に座ると、慎治は講義を始めた。
「効率のいい暗記ってなんだよ?」
「例えばだ、三角関数の公式なんて全部覚える必要はない、何個か覚えとけばあとはそこから導き出せる。その最小限と、そこからの導き方さえ覚えとけばいい」
慎治はノートにいくつかの公式を書き始める。
「そっから先はパズルの要領だ。どの公式をどのタイミングで使うかで成績が決まる」
「なるほど……」
まあ、言ってることを理解したとは言い難いが、とりあえず納得したことにする。
「パズルなんて解き方をいくつか覚えれば、あとはその組み合わせに過ぎない。それだけ覚えればいいだけだ」
おお、意味は分からないがとにかく簡単そうだ!
「よし、今回の試験範囲全て覚えるべきことを教えてやろう!」
俺は慎治がこれほど頼もしく見えたことは初めてだった。