第一節 近くても手に届かない
この世に絶対勝てないものがあると気づいたのは中学生のころだったかな。
どれだけ頑張っても、必死にやり抜いても勝てないものがあると気づいた時、俺は諦めることを覚えた。
それを理由に俺を責める奴もいるが知ったこっちゃない。
結果なんてどうでもいい? 頑張ることに意義がある? そんなわけがないだろ?
歴史なんてものは、結果を残した者勝ちだ。
負けたけど頑張ったし、よくやった、なんてただの慰めで、そんな奴は歴史に名前すら残ってない。
名前を残すとしても、それはせいぜい結果を出した人間の敵役としてくらいだろう。
今川義元公がどれだけ優れた武将でも、彼が褒め称えられる理由は。そんな優れた武将を敗走させた織田信長公を褒め称えるためにだ。
頑張っても結果がでなければ仕方がない。
その結果を出すことが、俺には出来ないことに気がついた。
だから、俺は頑張らない。
俺は絶対に勝てないと理解した時には、頑張らなくなった。
もしかして、頑張れば、必死に頑張ればうまくいくかも知れなくても、それが無駄になるかもしれないと思うと、もう頑張れない。
少し頑張れば手に入るものだけを手に入れ、それで満足していた。
別にそれで困るようなことはなかった。
ただ、一つのどうしても手に入らないものを除いては。
▼
「いってきます!」
奥にいるであろう母さんと、俺より少し遅く家を出る妹に声をかけ、俺はいつもの時間に家を出た。
外の空気は少しだけ暖かく、晩春の心地よい風が気持ちよかった。
桜の季節もとっくに終わり、もうすぐ梅雨が来るような季節。
こんな季節を俺は嫌いじゃない。
俺の名前は東雲康太。
この春から高校二年生になった。
成績は中くらい、運動神経も普通。
面構えも多分普通だと思う。
まあ、妹の珠優は格好いいなんて言ってるが、あいつの俺に対する評価は信用出来ない。
あいつはちょっとブラコンの毛があるからな。
ま、珠優以外の奴から格好いいとか、不細工だとか言われたことがないから、おそらく普通の面構えなんだろう。
ま、それでいい。
必死に頑張ったって高が知れているわけで。
頑張って勉強したり、運動したり、おしゃれに気を使えば、頭もよくなるだろうし、体育祭で活躍できるだろうし、格好いいとか言われて少しは女の子に好かれるだろう。
だけど、世の中には生まれながらにしてそれらを持ち合わせている奴がいる。
天才って奴だ。
必死に努力しても、遊びでやってるそいつに敵わないし、何もしてないそいつに敗れる。
その差は歴然としてて、それこそ努力するのが馬鹿らしくなる。
だから俺は何もしない。
あまり多くのものを自分に求めない。
努力したってどうせどこかに勝てない奴がいるんだ。
昔の漫画に「凡人が百万回死にかければ天才に追いつく」って言葉があったけど、その言葉に間違いはないと思う。
死ぬ思いで必死にやり続けるような努力を百万回続けて、やっと天才に並ぶんだ。
俺にそこまでの努力をしようって気はない。
ていうか、それを平然と出来る奴は既に天才だと思う。
割に合わなさすぎるだろ?
向こうが何の努力もなしに、こっちは必死に努力して、死にかける思いをして、やっと並ぶんだぞ?
勝てるわけじゃない、並ぶんだ。
そんな努力をするつもりはないししたくはない。
これは俺の経験則だ。
どれだけ頑張っても報われない。
結局、負けていくのを悔しい思いで見ながら、努力の無意味さを知骨身に感じる。
そんな思いをするのはもう沢山だ。
「ちょっと、康太!」
通学路を歩く俺の後ろから叫ぶような声。
その聞きなれた声は遥かに遠くから聞こえてきた。
「何一人で先に行ってんのよ!」
さっきよりかなり近くからその声は聞こえてきた。
次の声は、もっと近くから聞こえることだろう。
地面を蹴る軽やかな足音が、風のように素早く近づいてくる。
その風は、俺の後頭部に軽い攻撃を加えて追い越し、くるり、と振り返る。
朝日に照らされる茶色がかった髪と少し短めのスカートがふわりと広がる。
そして、肩に腰を当てて俺を睨むその姿は、誠に不本意ではあるが可愛いと思った。
普通の女の子よりも少しだけ細いボディはモデルにも見えなくはないが、身長は普通の女の子並みだ。
俺と並ぶとちょうど俺の目線が頭のてっぺん位にはなる。
顔はどちらかというと幼めで、モデルといってもティーンズ雑誌の読者モデルなら行けそうな感じだと思う。
ロングの髪を左右にリボンを付けているツーサイドアップはこいつの可愛さを引き立ててならない。
これが努力の結果なら賞賛を贈りたいところだが、こいつはそんな計算とか全くしてないから腹立たしい。
こいつの名前は高埜祐奈。俺の幼馴染だ。
そして、こいつが俺から努力を奪った天才万能女だ。
「聞いてんの? あたしを置いてくなって言ってんの!」
祐奈は怒った口調で俺を問いつめる。
「何わけの分からないこと言ってんだよ。一緒に学校行くっていつ約束したんだ? いい歳こいて幼馴染といつも一緒に学校なんか行ってられないんだよ」
俺はこいつが好きだし嫌いだ。
幼馴染ってこともあって話も合うし、こいつほど気が合う奴は男友達にもなかなかいない。
だが、こいつの口調はすぐに俺を馬鹿にするものに変わっていくし、俺はそれに敵わない。
いや、口喧嘩なんてどうでもいいが、俺はこいつに何一つ勝てるものがない。
せいぜいが身長くらいだろうが、それこそ男として、女に勝ったと自慢するもんじゃない。
それにワガママだし、言いたいこと言うし、気分屋でいろいろ面倒も多い。
だけど学校の成績は良く、スポーツも万能で、顔もいいしあっさりとした性格から、男女ともに人気がある。
「ふうん、康太のくせにあたしに反抗するの?」
片手を腰に当てたまま、俺を見下すように笑う。
「何だよ反抗って。俺はお前の所有物じゃない。俺は俺のやりたいように行動する! それだけだろうが」
毎度のことではあるが、イライラしたので俺は言い返す。
「ふーん、じゃ、勝手に行動すれば? ま、あんたが先に行っても追いつく自信はあるし、遅かったらあんたの家まで呼びに行くし」
祐奈は余裕のある笑顔で言う。
「家に来るなよ! 分かった! あの角で待ってりゃいいんだろ?」
俺は慌てて言う。
祐奈に家に来られると面倒だ。
うちの親も妹もこいつの事はよく知ってるし仲もいい。
こいつは俺の学校での大体の行動を知っている。
俺の学校でのことをあれこれ喋られると面倒だ。
いや、別にさ、隠れて何かやってるわけじゃないんだよ、だけどさ、学校と家では違う顔持ってるもんだろ、普通。
学校で家の顔知られたり、家で学校の顔知られたりするのは誰だって嫌だろ?
そういうのをばらされたくないって気持ちをこいつは平然と踏みにじるんだよ!
「うんうん、よろしい」
俺の答えに満足した上から目線がムカつくが、俺はそれ以上何も言わない。
成績も運動も人気も、口喧嘩ですら敵わない。
俺はこいつに見下されて当然の人間なんだ。
もはや、勝つ気すらない。
まったく、いつからこうなったんだろうな。
昔は逆だったはずなんだけどな。
こいつとは子供の頃から一緒に遊んだりしてたんだけど、その頃は俺がこいつを引っ張り回してたんだよな。
俺がどこに行ってもついてきたし、結構泣かせたこともある。
俺とこいつと、あと俺の妹の三人で、俺がその先頭にいた。
犬から守ってやったこともあるし、気に入らなかったのでいじめたこともある。
俺の無茶な命令をやらせた事もあった。
それが、いつの間にか、逆転した。
理由は簡単だ、こいつ方が才能があったからだ。
勉強で抜かれ、運動でも抜かれ、あらゆる分野で抜かれていくうちに、俺は負け犬根性が芽生え、どうせ勝てないと、勝負すらしなくなった。
俺だって最初は負けないように必死に頑張ったけれど、どう頑張ってもこいつには勝てない。
だから俺はどんどん卑屈になって行って、こいつはどんどん増長して行って、今のようになった。
こいつの増長の始まりは、俺の卑屈だったかもしれない、だけど、俺の卑屈はこいつの増長でもあった。
あとは加速度的にこいつは増長し、俺はどんどん卑屈になった。
「じゃ、帰りも待ってなさいよね?」
その結果、こうやって当たり前のように帰りに自分を待ってろ、なんて言うようになった。
「……お前、部活あるんじゃないのか?」
「そうよ?」
何当たり前のこと聞いてるんだ、とばかりに言う。
祐奈はこう見えても何も、見た目通り陸上部に所属してて、中距離のエースらしい。
ま、つまり放課後は学校に残って、数時間部活動を行うわけだ。
「俺、帰宅部なんだが」
「知ってるわよ?」
知ってるのは知ってるさ。
「俺に待ってろって言うのか?」
「そうよ?」
さっきと全く同じ口調で言いやがる祐奈。
「嫌だ。俺はさっさと帰る」
「じゃ、家に押しかける」
「何でだよ!?」
意味が分からない。そこまでして俺に残らせて何になるんだよ。
俺の忠誠心でも試してるのか?
残念ながらそんなもの──。
「……分かったよ」
俺は学校で待っていることにした。
こいつと喧嘩しても勝てるわけがない。
だったらその時間とエネルギーは無駄だ。
さっさと従っておいた方がいい。
「……そう、賢明ね」
祐奈は満足そうな笑み──かと思ったら、何だか微妙な表情だった。
わけわかんねえな、お前の望み通りにしてやったのに。
▼
そんなこいつと登校し、退屈な授業を受け、放課後。
いつもなら飛び上がりたいくらい嬉しいんだが、祐奈との約束が待ってる今日はまだ昼休みが終わったくらいの気持ちだ。
「康太、ピアタ寄ってこうぜ?」
帰り支度をほとんどしていない俺に、慎治が声をかける。
こいつは小久保慎治、俺の友達だ。
長身で細マッチョな身体を持ち、顔も悪くないんだが、ちょっとナルシスト入ってるのが欠点と言えば欠点だ。
成績は俺より少し上。
と言っても、理数だけが異様に得意で、それ以外が全然駄目って感じなので、大抵の科目が平均レベルの俺とはちょっと違う。
あと、ピアタってのはアミューズメント施設なんかじゃなく、ただのスーパーだ。
すみっこにフードコートがあり、そこでよく俺と慎治は駄弁ってたりする。
目的も金もあまりない俺たちには丁度いい場所だ。
「いや、今日は祐奈が待ってろって言ってるからさ、あいつの部活終わるの待ってる」
俺はため息交じりにそう言いながら、ゆっくり帰り支度をする。
「高埜か? お前、本当にあいつの事ならどんなワガママでも聞くよな」
苦笑する慎治。
その口調の中に「お前は本当に高埜(祐奈)が好きなんだな」ってのが見え隠れしてて、ちょっとだけイラッと来た。
「ほっとけよ」
俺が少しだけ不機嫌そうに言うと、慎治は苦笑して教室を出ていく。
余計なことを言ったってことを理解したんだろう。
俺が祐奈の事を好きってのは、デタラメでも何でもないからな。
そりゃそうだ、俺はあの可愛い幼馴染を嫌いじゃない。
嫌いなら相手にしなけりゃいい。
さすがにあいつも無視されてまで見下したり、俺の家に乗り込んで来たりはしないだろう。
そうしないのは何故かと言えば、まあ、あれだ、好きだからだ。
その「好き」ってのが一体何の好きかは俺にもよく分からない。
幼馴染としての好きってのは、つまりは友達の一人としての好きだからな。
あいつはたまたま女だし、可愛いけど、じゃあ、男だったり不細工だったりしたら嫌いなのかって言えばそうじゃない。
それに、慎治だって好きだし、妹(珠優)も好きだ。
それと、祐奈が好きってのと、何が違うんだ? って話だ。
前に慎治に相談したら、「裸を見たいと思ったらそれは女として好きだ!」とか大雑把なことを言われた。
なるほど、俺は確かに珠優の裸を見たいとも思わないが、祐奈の裸が見たい。
裸じゃなくても軽やかに飛び跳ねるあいつのスカートが、いつか大きめに翻らないかと願ってる。
じゃ、俺は祐奈が女として好きなのか?
今度は逆が成り立たなくなる。
俺はクラスメートの大抵の女の子の裸を見たいし、スカートの中を見たいと思う。
いや、いたって健康な青少年なら普通だろ? そんなの。
じゃあ、俺が彼女たち全員を好きかと言えば、そういうわけじゃない。
だから、裸を見たいということを持って俺が祐奈を好きか、などとは言えない。
ま、あいつは俺のこと見下してるし、今の関係が変わることはないだろうけどな。
慎治も去って行った教室で、しばらくぼーっとしていたが、人が減っていく以外に特に変化はない。
そこは授業中並に退屈だった。
あいつの部活が終わるまでにあと二時間ほどある。
しょうがないな、暇を潰せる場所にでも行くか。
俺は一番暇を潰せそうな図書室へと向かった。
放課後の図書室はそれほど人はいない。
しん、としているわけじゃなく、そこかしこで話声は聞こえてくる。
俺は暇潰しでもない限り図書室へ来ることはないから、こういう雰囲気は久々の体験だった。
本でも探して読んでいようかと、まずは空き席を探す。
探すまでもなく、人はまばらだ。
逆に人が座ってる席の方が目立っている。
「ん?」
俺はそこで、見知った顔を見かけた。
「よお、美琴じゃないか」
毛先に少し癖のあるセミロングの小柄な同級生が顔を上げる。
読んでいた本のタイトルは分からないが、縦書きだから、文学系だろう。
こいつは文学少女だからな。
「……こんにちは」
しばらく俺を見て、俺の存在を理解すると、挨拶だけをして、本に視線を戻す。
「隣、座ってもいいか?」
俺が聞くと、表情をほとんど変えず、こっちを見もせずにこくん、と首を下げる。
愛想の悪い奴だが、こいつはこういう奴なんだ。
別に俺が嫌われてるわけでもないし、無視されてるわけでもない。
こいつの名前は水野美琴。
無口でクールな女の子だ。
単独行動を好む、ある意味自分勝手な奴だが、祐奈に無理やり仲間にされて拒否権を与えられずにいろいろなところに付き合わされている、ある意味祐奈の被害者の一人だ。
そういう関係上、俺とこいつは面識があり、話も結構したりする。
悔しいが、祐奈が繋いだ仲だ。
「美琴はいつも放課後はここにいるのか?」
「いつもじゃない。でも、いることは多い」
美琴はこっちも見ずに答える。
「いない時は、祐奈に連れ出されてる時か?」
美琴は何も言わず、頭をこくん、と下げる。
「大変だな、お前も」
祐奈の第一の被害者でもある俺は、こいつには同情出来てしまう。
図書室でずっと本を読んでいたい奴を遊びに連れ回す祐奈を俺が止められればいいんだがな。
あいつはああ見えて結構な人気ものだ。
下手に反対すると、こっちが公衆の敵になりかねない。
俺の同情に気がついたのか、美琴は本から顔を上げ、不思議そうに俺を見る。
「康太は、祐奈の事が嫌いなの?」
この上なくストレートにそう聞かれるととても困る。
ちなみに俺のことを康太と呼ぶのはこいつと祐奈くらいだ。
こいつは多分、祐奈がそう呼ぶから呼んでるんだと思う。
「いや、嫌いってわけじゃないけどさ、あいつの行動には迷惑かけられっぱなしだからさ」
俺は曖昧な答えでその場をしのごうとする。
俺をじっと見る美琴。
普段あまり喋らずミステリアスなところがあるだけに、心の底まで見透かされているような気にもなる。
「私も、嫌いじゃない」
そう、一言だけ言うと、再び本に目を落とす。
あんなに自分勝手に振り回されてても、嫌いじゃないって言うのかよ。
ま、俺と似たようなもんなのかも知れないな。
迷惑だけど憎めないって奴だ。
図書室にまで来て、あいつの人気を思い知らされる羽目になるとは思わなかったな。
美琴は本格的に熟読に入り、俺の存在を忘れたかのように前のめりで本に夢中になった。
邪魔しちゃ悪いな。
俺は本棚から適当な本を持ってきて、美琴の隣でパラパラと流し読みすることにした。