6
ざあと強い風が吹き、立ちすくむガリカを一人残して通り過ぎていく。長くも短くもない中途半端な長さの髪が揺れて、視界を遮りひどく邪魔だった。彼女が屋敷を出て行ってすぐ、ガリカは周囲の反対を押し切って、腰まで伸びた長い髪をその手で切り落とした。もう二度と、彼女の白い手に結ってもらえないのなら、伸ばしておく意味はどこにもなかった。
「………コーネリア」
ぽつりと、囁くように呟く。その名を口にしたのは何年ぶりだろう。声にすれば、心の水底に鍵をかけて沈めておいた彼女への想いが、今にも浮かび上がってきそうな気がして恐ろしかった。
あたたかな陽光が降り注ぐ墓地。その一角に、彼女はひっそりと眠っている。コーネリア、と。彼女の名が刻まれた、冷たい墓石。その下に、物言わぬ存在となって。
◆ ◇ ◆
あれから、随分と長い年月が流れた。誰よりも愛しい人を失った後、抜け殻のようになったガリカを慰めたのはカニーナだった。彼女は悲しみに押し潰されそうになっていたガリカのそばに無言で寄り添い、長い時間をかけて彼の心に開いた大きな穴を、優しさという名の愛で塞いだ。深く傷ついたガリカはカニーナの思いやりに甘えて縋りつき、いつしか彼女を一人の女性として大切に思えるようになっていた。やがて、二人の間には子供も生まれた。
目まぐるしく変化していく時間の中で、ガリカの心に住みついた愛しい存在は痛みと共に薄れはしたが、決して忘れ去る事はできなかった。別離を告げられた夜、何とか引きとめようとするガリカに、父親が病に倒れ、その看病をしなければならないのだと、困ったように微笑んでいた彼女の顔が、今でも鮮やかに思い出せる。
コーネリアが亡くなったという知らせを聞いたのは、つい先日の事。古参のメイドからその事実を知らされた時は呆然として、しばらく言葉を紡ぐ事ができなかった。いても立ってもいられず、すぐさま馬を飛ばして彼女の実家があるという、都から遠く離れた土地までやって来た。そして今、ガリカは彼女の墓の前に為す術もなく立ちつくしていた。
「―――――っ」
がらがらと足下から崩れていくような錯覚がした。ガリカはその場にゆっくりと膝をつき、墓標に刻まれた彼女の名を震える指でなぞった。
「…………嘘、だろう? コーネリア」
信じられなかった。信じたくなどなかった。
例え、コーネリアの隣にいるのが自分以外の誰かだとしても、彼女という人がこの世界のどこかに存在し、彼女が望む幸福の中で笑顔でいられるのなら、この命が尽きるまで、ただそれだけを糧にして生きていくつもりだった。それなのに………。
もう二度と、コーネリアが微笑んでくれる事はない。
もう二度と、優しい声で名を呼んでくれる事はない。
もう二度と、細い指が棘を抜いてくれる事はないのだ。
――――もう、二度と………!
母が亡くなった時、これ以上の悲しみはないと絶望して大声で泣いた。だが、それは間違っていたと今分かった。狂おしい程の悲しみを通り越した先にあるのは、とてつもない空虚だった。ガリカは涙を流す事も忘れて深く項垂れた。震える唇に紡ぐ言葉は思いつかない。現実から逃げるように固く目を閉ざしたまま、いつまでもその場から動く事ができなかった。
「…………あのう」
背後から声をかけられて、ガリカはようやく顔を上げた。かなり長い間そうしていたらしい。青空だったはずの天はいつの間にか夕日で赤く染められていた。ガリカは地面に座り込んだままのろのろと振り返り、そこに立っていた人物の姿に息を飲んだ。
「…………コー、ネリア?」
――――これは、夢だろうか?
ガリカは己の目を疑った。そこに立っていたのは、なんとコーネリアその人だったからだ。いつも触りたくて堪らなかった、艶やかな黒髪。自分だけを見つめて欲しかった、瑞々しく透き通った瞳。何度も口づける事を夢に見た、淡い色をした唇。
彼女は幼いガリカが一目見て恋に落ちた少女の日の姿のまま、墓の前で蹲る彼を不思議そうに見下ろしていた。
「母さんの、お知り合いですか………?」
“母さん”
彼女が口にしたその言葉に、混乱していたガリカは急速に冷静さを取り戻した。
「そうか………君は、彼女の…………」
「娘の、ローザです」
ガリカはふらつきながら立ち上がり、ローザと名乗った少女を改めて見下ろした。彼女の姿はまさにコーネリアの生き写しだった。遠い昔、出会ったばかりの頃のコーネリアが過去からやって来て、今目の前に現れたのだとしても微塵も疑わない程、少女はその面影を色濃く受け継いでいた。
だが、じっくり眺めてみればやはり違いもある。コーネリアの瞳は冬の朝の湖面を映したような優しい色合いをしていたが、今、ガリカの視線を受け止めているのは夏の日差しの下で生き生きと成長する鮮やかな新緑の瞳である。おそらくそれは少女の身体に半分流れている父親の血がそうさせたのだろう。コーネリアの側に存在する男の影を確かに感じ、ガリカは密かに痛む胸を押さえた。
「…………私は、ロサ=ガリカ。もう何年も昔の話になるが、君の母上は私の屋敷で働いていたんだよ」
「―――――っ」
ガリカの名を耳にした瞬間、ローザの表情が凍りついた。その瞳に込められた感情は、怒りと悲しみと迷いがない交ぜになったもの。突然、初対面の少女に敵意を向けられ、ガリカはぎょっとした。ローザはぎゅっと唇を噛みしめ、戸惑うガリカを睨むように真っ直ぐ見上げる。
「…………貴方に、見せたい物があるんです。一緒に来てもらえませんか?」




