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気がつくと、ガリカは闇の中にぼんやり立ちつくしていた。足下には血のように赤い花びらが地面を埋め尽くすように散らばっている。
――――ここは、一体どこだろう?
出口を探して歩き出そうとしたその時、突如胸が掻きむしられるような痛みに襲われた。あまりの激痛に呼吸もままならず、生理的な涙が溢れ出す。あてもなく救いを求めて伸ばした手が、なぜか血まみれだった。よく見ると、手の平に無数の薔薇の棘が突き刺さっているのが分かる。その傷という傷からたらたらと大量の血が流れ出し、ガリカの全身を赤黒く染めていく。
――――痛い痛い痛い!
心が、手が。足の力が抜け、その場にがくりと崩れ落ちた。血だまりのように撒き散らされた花びらの上を、狂ったようにのたうち回る。
――――このまま、死ぬのだろうか………?
意識が遠のく寸前、目の前の闇がゆらりと蠢いたかと思うと、それはあっという間に人の形を形成した。
「ガリカ様」
”彼女”はふわりと微笑み、甘い声でガリカの名を呼んだ。
「コーネリア………?」
灰色のエプロンドレスを身に纏い、際だって美しいというわけではないが、水辺に咲く清楚な小花を思わせる人。その姿を目にした瞬間、今までの苦痛が嘘のように消え去り、ガリカはほうと長い安堵の息をついた。
「ああ、コーネリア………」
ガリカは助けを求めて、コーネリアに向かって血だらけの手を伸ばした。しかし、彼女は優しい笑顔のまま、ガリカから逃れるように後ろへ下がった。
「コーネリア………?」
彼女はくすりと微笑み、縋るように見上げるガリカを無邪気に見下ろした。
「わたくしはもう、ガリカ様をお救いする事はできません」
穏やかな笑顔がぐにゃりと歪む。コーネリアは軽やかに身体の向きを変え、地面に這いつくばるガリカに背を向けた。
「待ってくれ! どこに行くんだ………コーネリア!」
追いかけようとするガリカを、闇の中から伸びてきた無数の手が絡め取る。ガリカは必死にもがきながら、遠ざかっていく華奢な後ろ姿へ何度も呼びかけた。それでも、コーネリアは振り返らない。ガリカは血を吐きながら懇願した。
「頼む………行かないでくれ………コーネリア………」
そばにいてくれるだけでいい。
他には何も望まない。
どうか、私を一人にしないで…………。
そこで、目が覚めた。
「…………ッ!」
勢いよく身体を起こす。窓の向こうに目をやれば、外はまだ薄暗い。明け方のようだ。
――――夢、か………。
両手を見下ろせば、暗闇の中でもそうと分かるほど大きく震えていた。
「…………どうかなされましたか?」
隣で衣擦れの音がして、女の声。妻のカニーナである。繊細な顔立ちを彩る豊かな黒髪が、彼女の白い胸元を滑り落ちているのが視界に入る。その色合いは否が応でもコーネリアを思い出さずにはいられない。
数多くの花嫁候補の中からカニーナを妻に選んだのは、コーネリアに対する密かなあてつけと自分への慰めだったが、今では心から後悔している。彼女と見つめ合うたびにコーネリアの面影がちらついて、何かとてつもない罪を犯しているかのような複雑な気持ちが湧き上がり、何とも言えずぞっとするのだ。おかげで夫婦になってからそろそろ一年がたとうとしているが、それらしく振る舞うことに未だ戸惑いを隠せずにいる。
「…………何でもない」
心配げな眼差しから見ないようにして、ガリカは広い寝台から降りた。手早く身支度を調え、一人逃げるように部屋を出る。向かう先は、薔薇の庭。ガリカにとって全ての始まりと言える場所だ。
早朝の庭に人気はない。ガリカは薄闇の中でも色褪せる事のない真紅の花びらをじっと見つめた。おもむろに手を伸ばし、滑らかな表面をするりと撫でる。母が亡くなったあの日のように、怒りにも似た衝動は訪れなかったが、かわりに切ない痛みが胸を襲った。
「コーネリア」
声には出さず、吐息だけでその名を囁く。無意識に棘に触れていた指先がちくりと痛んだ。構わず力を加えれば、鋭い痛みと共に指の隙間からぽたりぽたりと赤い血が溢れ出した。
――――痛い………。
だが、耐えられぬ程のものではない。先程見た夢や幼い頃のように、もう二度と恥も外聞もなく泣き喚いたりはしない。ただ、今は。彼女に逢いたくて、逢いたくてたまらなかった。
「――――ガリカ様」
澄んだ声音が耳を打つ。なぜだろう。驚きはしなかった。きっと、来てくれる気がしていた。
「コーネリア」
不自然にならないよう静かに名を呼べば、「はい」と小さな答えが返ってきた。早朝にも関わらず、コーネリアはすでにきちんとエプロンドレスに着替えていた。彼女はガリカの血まみれの手を見て息を飲んだようだった。夢と同じ。けれど、現実の彼女はガリカを見捨てたりはしなかった。
「手当を、致しましょう」
柔らかな水色の瞳を痛ましげに細め、コーネリアは静かに言った。ガリカは大人しく頷き、彼女に促されるまま近くの部屋に入った。長椅子に座らされたガリカは押し黙り、足下に跪いて傷だらけの手にてきぱきと手当を施していくコーネリアをじっと見つめる。
「ガリカ様は、薔薇がお嫌いですか?」
「いや………」
傷口にそっと押し当てられた消毒薬がわずかにしみる。コーネリアに全てを任せながら、ガリカはぼんやりと首を振った。嫌いではない。だが、特別好んでいるというわけでもない。ただ、あの花をきっかけにして彼女と出会う事ができたのだと思うと、決して忘れられない存在ではあった。
「ガリカ様はきっと覚えていらっしゃらないと思いますが…………」
「何をだ?」
コーネリアが自ら口を開くのは珍しい。不思議に思い、促すと、コーネリアは手早く包帯を巻き終えた後、少し考えるような仕草を見せた。
「昔、こうして同じように手当をさせて頂いた事があります。あの時も、ガリカ様は薔薇を握りしめてお怪我をなさっていました。ですから、ガリカ様は薔薇がお嫌いなのかと…………」
ガリカはハッと息を飲み、思わず身を乗り出していた。コーネリアは水色の目を細め、苦笑した。
「確か、十年ほど前だったでしょうか。ガリカ様はまだお小さくていらして、薔薇のお庭で泣いておられましたね」
「ああ………あの時の事は、もちろん覚えているとも。はは、何だか恥ずかしいな…………」
まさか、コーネリアが覚えているとは思いもしなかった。十一年前、薔薇の庭で起きた事はガリカにとって重要な意味を持つものであるが、彼女にすれば日常の中のほんの些細なやりとりでしかなかったはずだ。
だが、コーネリアは覚えていてくれた。ガリカの心を長年縛り続けていた想い出が、彼女の中にも確かに息づいている。その事実がたまらなく嬉しくて、不覚にも涙が溢れそうになった。気がつけば、ごく自然な動きでその頬に手を伸ばしていた。
「ガリカ様…………?」
コーネリアは不思議そうに首をもたげ、穏やかな瞳でガリカを見上げた。
「…………お前は、今も昔も、こうして私の棘を抜いてくれた」
思えばこうして何気なく視線を交わし合うのは随分と久しぶりの事だと気づく。結婚してからというもの、カニーナとコーネリアの双方に対する言いようのない罪悪感から、心を開いて接する事を無意識の内に避けていたのだ。
「ありがとう。私は、お前に救われてばかりだ」
本当に伝えたい気持ちは感謝ではなかったが、黙ったままでいると、ともすれば胸の奥に秘めてきた切ない想いのまま、その華奢な体を強く抱き寄せて離せなくなってしまいそうで。
コーネリアはぱちりと目を見開き、小さく首を振った。
「いいえ、ガリカ様。わたくしは当然の事をしただけですわ。お礼を言わなければならないのは、むしろわたくしの方です」
ふと、その言葉に含まれた微妙な違和感に気づく。
「………なぜ、そんな顔をする?」
コーネリアはいつも通りの柔和な笑顔を浮かべていた。しかし、長年彼女だけを見つめ続けてきたガリカは、その微かな表情の変化を見逃さなかった。
「ずっと、お伝えしたいと思っていました。ガリカ様のおそばにお仕えする事ができて、わたくしはとても幸せでしたと」
――――ああ。
最悪の予感がガリカの頭をよぎる。そしてそれは的中した。
「ガリカ様………わたくしはこの度、お屋敷をお暇させて頂く事になりました」
悲しげに響いた声が、耳から離れない。




