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ロサ=ガリカは不機嫌であった。それはもう、最悪なまでに。
執務室で長椅子に座るガリカと向かい合うようにして、顎に白い髭を蓄えた上品な老人がゆったりと腰掛けている。彼の名はグラウカと言い、今は亡きガリカの父の代から長きに渡ってロサ家に仕えてきた忠実な側近であり、幼い頃からガリカを見守り続けてきた祖父のような存在でもあった。
グラウカは柔和な笑顔を浮かべながら、有無を言わさぬ強い態度でガリカに選択を迫った。
「ガリカ様も今年で二十歳になられた。これ以上先延ばしにする理由も必要もございません」
「………しかしだな、グラウカ」
「言い訳はもう聞き飽きました」
「う」
反論はぴしゃりと切り捨てられ、ガリカは額を押さえて項垂れた。父ですら頭が上がらなかった彼を、どうしてこの自分にやりこめる事ができるだろう?
「どのお方も美貌と教養を兼ね揃えた、ロサ家当主の奥方として申し分のない素晴らしいご令嬢ばかり。迷うというのなら分かりますが、何を躊躇う事がありましょう?」
ガリカはうんざりした顔で、目の前に広げられた肖像画の数々を見下ろした。そう、グラウカは未だ独身を貫くガリカへ結婚を決意させるためにやって来たのである。
「三日後、お返事を頂きにもう一度参ります。それまでに必ずご決断くださいませ。必ずですよ」
丁寧な口調で容赦なく釘を刺すと、グラウカは老いを感じさせないしっかりとした足取りで部屋を後にした。
一人残されたガリカは、机に置き去りにされた肖像画の一つを渋々手に取ってみる。そこには流行のドレスに身を包んだ美しい女性が描かれており、閉口するガリカに向かって優しく微笑みかけてくる。確かにグラウカの言う通り、知的で美しい容貌の女性である。
(―――だが、それだけだ)
ガリカの心に住む事を許されている女はただ一人。薔薇の庭で泣きじゃくる、孤独なガリカを見つけてくれた優しい少女だけ。棘を抜き去り、涙を拭ってくれた白い手が、今も昔もガリカを柔らかく捕らえ続けて放さない。
しかし、ガリカはもうあの頃とは違う。ロサ家の当主として負わなければならない責任と果たすべき義務がある。愛のない結婚は嫌だなどと駄々をこねる子供ではいられない。答えなど、最初から分かり切っているのだ。
爵位を継いでからというもの、今までもこうした機会は何度となくあった。それをその場限りの適当な理由で退けて後回しにしてきたが、ついに追いつめられてしまった。いつまでも逃げているわけにはいかない。
「はあ…………」
ガリカは深い溜息を吐き、手にしていた肖像画をテーブルの上に無造作に放った。いっそ、コーネリアを連れて何もかもを投げ出し、どこか遠いところへ逃げてしまえたら。そんな甘美で不埒な妄想をした事もある。だが、それを実行に移すには、ガリカの性格は臆病で真面目すぎた。そもそも、恋心を打ち明ける事さえできないのである。
その時、ノックの音が響いた。午後のこの時間に訪れる者といえば決まっており、ガリカが今最も会いたくない人物だった。けれど、追い返す事など出来はしないし、したくなかった。
「入れ」
「失礼します」
半ばなげやりに返事をすると、ガリカの予想通り、現れたのは見慣れた灰色のエプロンドレスを身にまとったコーネリアで。いつもなら手放しで喜べるのに、今日だけは笑顔を取り繕う余裕もない。
「お茶をお持ちしました」
「…………ありがとう」
ガリカはぐったりと長椅子に沈み込み、疲労を滲ませた声で答えた。その様子があまりにも物憂げに見えたのか、いつもは滅多に自ら口を開かないコーネリアが、心配そうに眉を顰めて言った。
「大丈夫ですか? 顔色があまりよろしくありませんね。少しお休みになった方が…………」
「―――いや、平気だ。グラウカに虐められただけだから」
ガリカは苦笑しながら、先ほどのグラウカとのやり取りを正直に説明した。出来るならコーネリアには知られたくなかったが、いずれは必ず耳に入る事である。それに、ほんの欠片でも良い。ガリカの結婚を嫌がる素振りや、嫉妬の表情を見せてくれたなら―――などという、馬鹿げた淡い期待があった。
けれど、コーネリアは拗ねた子供を宥めるように優しく笑った。
「ふふ、それは大変でしたね。でも、本当にお美しい方ばかり。ガリカ様にとてもよくお似合いですわ」
コーネリアはガリカの前にティーセットを並べながら、テーブルの上に広げられた肖像画を眺めて言った。何の事はない、世間話のような他愛ない一言。深く考える事なく聞き流してしまえば良かったのに。
(どうしてそんなに平然と微笑んでいられる?)
ガリカの心に浮かんだのは、身勝手な疑問。
やはり、コーネリアはガリカの事を何とも思っていないのだ。例え、ガリカが他の女の物になろうとも、少しも取り乱す事はなく穏やかに笑って祝福できるのだ。
(私はお前の事をこんなにも愛しているのに………っ)
ガリカは密かに拳を握りしめる。ガリカの想いなどコーネリアが知る由もないし、最初から伝える気もない。見返りが与えられる事はないと、始めから分かっていたはずの恋なのに。果てしなく遠い心の距離を改めて実感し、ガリカは大いに傷ついていた。悲しいと思う気持ちと同時に、理不尽だと分かってはいるが、怒りさえ感じてしまう。
「ガリカ様?」
急に黙り込んでしまったガリカを、コーネリアが不思議そうに見下ろしている。その無邪気な微笑みを、跡形もなく崩してやりたいと思った。
―――― 衝動は、突然だった。
「私は、お前が良い」
「え?」
ガリカはコーネリアの細い手首を掴み、強引に引き寄せた。小さな顎に手を掛け、きょとんと瞬く水色の瞳を、これ以上ないほど間近な距離で覗き込む。初めて抱き寄せた体は想像以上にほっそりとしていて、ガリカの腕に吸いつくように馴染んだ。
(このまま、離したくない)
二つの唇が優しく触れ合おうとする、まさにその時。
「…………冗談だ」
くすりとわざとらしく笑みを零し、ガリカはあっさりと身を引いた。解放されたコーネリアは目を丸くし、しばらく硬直していたが、
「…………お戯れが過ぎます!」
と、白い頬をほのかに赤く染めてガリカの突飛な行動を非難した。
「はは、すまない」
ガリカはことさら明るく振る舞い、心の動揺を誤魔化していたが、それもコーネリアが部屋を出ていくまでの事だった。いつもより足早に退室した彼女の背中を見送った直後、堪えていた熱が一気に顔中へ広がる。目の前に鏡があれば、恐らくは見るに耐えないほど真っ赤になっているのだろう。
ガリカは震える手で口元を押さえた。蘇るのは、掴んだ手首の柔らかさ。唇に触れた吐息の温もり。揺れる髪から漂うほのかな甘い薔薇の香り。
「コーネリア…………」
ぽつりと呟いた声に、隠しきれない愛おしさが滲んで震えた。
―――― 三ヶ月後。
ガリカは花嫁を迎えた。誰より愛するコーネリアと同じ、美しい黒髪の女を。




