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ロサ子爵家は都で繰り広げられる権力闘争とは全く無縁の、貴族とは名ばかりの小さな家である。二年前、先代の死をきっかけに十八歳の若さで家督を継いで当主となったロサ=ガリカは、その穏やかな性格と安定した統治により、誰からも慕われる存在であった。
「――――ガリカ様?」
名を呼ばれ、ぼんやりと書類に目を落としていたガリカは我に返った。しまった。大事な報告を聞いている最中だったのだ。重厚なデスクを挟んだ向こう側に姿勢良く立つ執事が、真面目そうな顔だちを曇らせて心配そうにこちらを見ている。
「大丈夫ですか?」
「すまない。もう一度、最初から言ってくれないか」
「いえ、随分お疲れのようです。少し休憩されてはいかがですか? 幸い、この件は至急のものではないので、また後ほど参りましょう」
執事は一礼をし、部屋を後にした。一人残されたガリカはデスクに肘をつき、乱雑な仕草でぐしゃりと前髪を掻き上げて長い溜息を吐く。確かに少し疲れているのかもしれない。
「あれから、もう十年か………」
ぽつりと呟いた独り言が部屋に響く。懐かしくも愛おしい、過去の大切な記憶。ガリカはおもむろに指を広げ、手のひらを目の前にかざしてみた。あの時に負った薔薇の棘による傷は、今ではすっかり完治してしまい、傷跡は一つも残っていない。その事を少し残念に思う。
「………我ながら、女々しい事だな」
ガリカは唇を歪め、ふっと自嘲した。今でも鮮やかに思い出せるのは、やるせない衝動。散りばめられた花びらの赤。噎せ返るような甘い香り。手の平の疼痛。少女の柔らかな白い手と、包み込むような優しい笑顔。薔薇の庭で起きた出来事は、未だ棘のようにガリカの胸の中に刺さり続けて抜ける事はない。
(そう、それでいい)
遠ざかっていく思い出を追いかけるように、ガリカは目を閉じる。誰にも理解されなくていい。どうかこのまま、永遠に甘く苦い痛みを感じていたいのに。非情にも、控えめなノックの音が、彼を現実へと引き戻した。
「…………何だ」
幸福な思考を邪魔されて、思った以上に不機嫌な声が出てしまった事を後悔する。間をあけず、扉の向こうから若い女の声が響いた。
「お忙しいところを申し訳ありません。紅茶をお持ちしました」
「――――!」
その声音に、どきりと心臓の音が跳ね上がる。
「入れ」
ガリカは慌てて動揺を押し隠し、書類に目を通すふりをして何気なく声をかけた。「失礼します」の一言の後、静かに扉が開き、銀盆にティーセットを乗せたメイドが姿を現した。瞬間、仄かな花の香りがふわりと室内に広がる。恐らくポットの中身は疲労を癒す効果があるという薔薇茶だ。ガリカはそれを好んでよく口にする。先程出て行った執事が頼んでくれたのだろう。
しかし、ガリカを喜ばせたのは茶の存在ばかりではなかった。メイドの白い手が、デスクの上にティーセットを並べていく。水仕事で荒れてはいるが、ほっそりとした長い指と丸い爪。その手を取り、そっと口づけてみれば、とても温かく柔らかいのだろうと思う。もちろん、実際は眼差しで密かになぞるだけであるが。
す、と流れるように視線を上げれば、特別美しいというわけではないが、冬の湖面のように清らかな透明度を感じさせる青い瞳が目に入る。
(―――ああ)
この瞳だ、と思う。十年前から何一つ変わらない。薔薇の庭で泣いていた少年のガリカを救ってくれた少女が、今目の前にいる。仕事の邪魔にならないよう、首の後ろで簡素にまとめただけの艶やかな黒髪。伏せた長い睫毛に隠された静かな眼差し。幼いガリカに優しい微笑みをくれた形の良い唇。過ぎた年月と共に大人びてはいるが、記憶の中の少女の面影とぴったり重なる。
ガリカは彼女が給仕を終えるまで、その姿をさりげなく存分に眺めた。手を伸ばして触れられない代わりに、少しでもこの目に焼きつけておくために。
やがて、手際よく役目を終えた彼女は一礼をして踵を返した。メイドである彼女がここに長居する理由はない。しかし、ガリカはその華奢な背中を堪えきれずに呼び止めた。
「コーネリア」
十年前のあの時は知らなかった、彼女の名前。
「はい」
コーネリアは足を止めて振り返り、水色の双眸でガリカをじっと見つめた。そんな当たり前のことさえも、嬉しいと感じてしまう自分を、ガリカはどうしようもなく馬鹿な男だと思う。
「…………ありがとう」
あまつさえ、口から出た言葉と言えばありきたりのそれであり、ガリカは己の愚かさに頭を抱えたくなった。だが、コーネリアは花が綻ぶようにふわりと微笑み、もう一度頭を下げて部屋を後にした。
「――――っ」
扉が閉まった瞬間、ガリカは入れてもらったばかりの薔薇茶をこぼさないように気をつけながら、机の上に力なく突っ伏した。その頬がうっすら赤く染まっている。
また一つ、ガリカの心に抜けない棘がちくりと刺さった。




