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薔薇の庭  作者: 咲良
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 ――――そこは、ロサ子爵家が誇る美しき『薔薇の庭』。

 街から少し離れた小高い丘の上。瀟洒な屋敷をぐるりと囲むようにして、その庭はある。広い敷地内に見渡す限り咲き乱れる薔薇の色は、まるでそれ以外は許さぬと言うように、傷口から滴る鮮血のごとき紅一色に染め上げられている。

 そんな、麗しくも異様な空間に埋もれるようにして、一人の美しい少年の姿があった。癖のない鮮やかな金色の髪。あどけない頬は白く青ざめ、繊細な唇は何かを堪えるようにきつく引き結ばれている。その透き通るような翡翠の瞳は、己を取り囲む赤い花の群れへと向けられ、憎悪にも似た強さで一心に睨めつけている。

 その時、彼の小さな胸を騒がせていたのは、どうしようもない程の苛立ちだった。しかし、怒りの正体は彼自身にも理解できずにいた。ただ何故か無性に、誰しもがうっとりと愛でるであろう、艶やかな紅の花びらをその手でずたずたに引き裂いて、見るも無惨な姿に貶めてやりたくなったのだ。

 少年は老いた庭師が丹誠を込めて世話している薔薇を手当たり次第に掴み取り、手の中でぐしゃりと捻り潰しては、地面へと無造作に撒き散らした。彼の足下はあっという間に赤い花びらで埋め尽くされ、大きな血だまりのようになるまで、そう長くはかからなかった。

「――――っ」

 噎せ返るような甘い香り包まれ、少年はくらりと目眩がした。言い知れぬ衝動は唐突に過ぎ去り、残されたのは途方もない虚脱感である。彼の思惑通り、薔薇の美しさは見る影もなく損なわれたが、その哀れな花びらを踏みしだき、為す術もなく立ち竦む己の姿の何と愚かな事か。

 だらりと両脇に伸ばした手を強く握りしめれば、手の平が鋭い痛みに襲われた。細く尖った無数の棘が、少年の柔らかな肌を容赦なく傷つけていた。

「あ………」

 少年は悲鳴にも似た掠れ声を上げた。同時に、深い悲しみと後悔の念が押し寄せてくる。苦しげな嗚咽が喉からあふれ出し、小さな咽びはやがて堪えきれずに「わあん」と辺りに響き始めた。黒い上着の袖でぼろぼろと頬を伝う大粒の涙を拭いながら、彼はこの時ようやく自分は寂しかったのだと気づいた。

 この日、誰よりも優しく美しかった母の葬儀が執り行われた。屋敷の裏の森にある墓地。冷たい棺に横たわる青ざめた顔が別人のように不気味で、少年は恐ろしさのあまりその場から一人逃げ出してしまったのだ。

 良い子ね、と。綺麗な白い手で頭を撫でてくれるあの人はもうどこにもいない。そう思うと、このやりきれない思いをどこにぶつければいいのか分からなかった。誰か助けて、と。ただひたすら言葉にならない声で泣きじゃくる事しかできない己の無力さを、少年は責め続けた。

「――――どうなされました?」

 その時である。背後から少女の声がして、少年は泣き顔のまま振り返った。灰色のエプロンドレスを身にまとった年若い黒髪のメイドが、心配そうにこちらを見つめていた。その顔に見覚えはなく、最近新しく雇われた者だろうと推測する。少年とそういくつも変わらないように見えたが、彼女の方が年上である事は明らかだった。

 葬儀はまだ続いており、家の者はほとんど出払っている。しんと静まりかえった屋敷の中、盛大に響き渡る泣き声を聞きつけてやって来たのだろう。

「………失礼いたします」

 ふと。遠慮がちな声と共に、母によく似た白い指が伸ばされ、少年の血だらけの手を恭しく取り上げた。彼は抵抗しなかった。いや、できなかった。

 少女の空を薄めたような淡い水色の瞳が、痛ましげに細められる。少年は呆然と立ちつくしたまま、手の平からそっと棘を抜き去っていく細い指先を、瞬きもせず食い入るように見つめ続けた。

「痛みますか?」

 少女の問いかけに、少年はゆるゆると首を振る。本当はとても痛かったが、これ以上彼女を悲しませたくなくて嘘をついた。

「出血のわりに傷は浅いようです。お泣きにならなくても、大丈夫ですよ」

 少女はエプロンのポケットから清潔そうな白いハンカチを取り出すと、少年の涙に濡れた頬を優しく拭い去り、安心させるようにふわりと微笑んだ。

 少年はただ、こくりと頷く事しかできなかった。


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