私の宮沢賢治
私の宮沢賢治
彼が最後に救いを求めたのは、異世界だった。でも、彼が求めた異世界は、欲望にまみれたものではなない。
今を生きる人が異世界に求めるものは、この世界で味わえなかった「何か」をなすためである。それは、憧れたゲームの世界、自分が中心となって、まあ中心にならなくても、努力すれば報われるような世界で、苦難が残りながらも、最終的には、物語の中の存在が、本人なりの正解を見出す。そんなことが実現する世界である。
でも、彼が求めたものは、救いが必要のない世界。誰の欲望もなく。誰も奪わないし、侮辱もしない。生きとし生きる生物がありのままにあり続け、共生と、純真という、濁りのない澄み切った世界。それを求めた。
だから、書き続けたんだと思う。自分が理想とする「欲」のない世界があるように。
これを書いたのは、最近のアーティストが、宮沢賢治の作品をモチーフにして、曲を作詞しているからである。
例えば、「よだかの星」をモチーフにしたものがあった。それは、「よだかの星」で登場する「よだか」は、誰かを照らすような、誰かの心に残るような存在になりといと、醜いながらも願う。それを自分のように、何もなく、醜い自分と重ね合わせる。もがきながら生きようと、「よだかの星」を読んで、よだかと自分を重ね合わせる。その結果、曲が生まれる。
本当に、そうなのだろうか。宮沢賢治が、「よだかの星」で書きたかったことは、醜いながらも輝きたいと思えるものではないと、私は思う。私が思う「よだかの星」は、誰もが星になりえる世界である。
星とは、誰かを照らすものだ。人は生きながらも、誰かをけなし、侮辱し、奪い、殺した上で成り立っている。そこに、人の心の欲が現れている。だからこそ、ただ星であれば、何も奪わず、侮辱もせず。奪うこともなく、殺すこともない。そういう精神性の世界が生まれるだろう。
醜いながらも輝きたいという「欲」の話ではなく、何も「欲」さないための星なんだと思う。
そういう世界観の話が彼の作品には、現れている。少なくとも自分はそう思っている。
昨日、記事を読んで、そんなことを思ってしまった。ただ、心の中にとどめておくことができなかった。人の価値観は、それぞれだし、捉え方も自由である。作品を読んで、感じて、それでも明日を生きようと思えば、作家としても、作曲家としても、歌手としても成功であり、自分の中の何かが伝わったと思えるんだと思う。
私が心の中でとどめておくことができなかったように、彼ら彼女らも歌として自分の心を表現している。それなら、自分が今書いている、この文章もまた彼ら彼女らのしていることと同じであり、まあ誰かの心に残ればいいなと思う。
でも、私が少なくと思うのは、自分の中の枠組みだけで捉えることは間違いであるということである。
人は理解できていることでしか、物事を判断することができない。人生の広がりは、その人が経験してきた理解が根底にある。歌をその時々で聞いて、感じ方が変わるのも、人生の広がりが、良くも悪くも広まり、狭まった結果だと思う。
そんなことが起きるから、人が共通して持つ人間関係における悩み、にまつわった歌として、賢治の作品を歌えば、人はモチーフの作品をそのように捉える。それだけではないのに。その人が歌った結果として、それが作詞家、作曲家、歌手によって価値付けられ、部分的に切り取られ、人に伝わる。
そんな人だけじゃないと思っても、少なくとも自分が、そんな人間だから、他の人も同じような考えの人もいるのだろうと思ってしまう。
人が伝える内容は自由で、捉え方も自由だ。でも、伝えるもととなった内容に関しては、その人の内容を捉えるのではなく、もととなったものを自分なりの感性をもとにして知ってほしいと思う。
これは、自分なりに言い聞かせもかねて書いてある。覚えておこうと思う。
最後の方で書いたのは、今ただ思いつきで書いただけで、自分が吐き出したかったことは、最初の前半である。これを見た人には、それを知ってもらえたら満足である。




