第14話 公爵の変貌(そのボタンは凶器につき)
季節は巡り、アイゼンラッド公爵領にも遅い春が訪れようとしていました。
ルシナがこの地に降り立ってから、数ヶ月。
雪解け水が小川を潤すように、公爵邸の主、ジークフリートの肉体にも劇的な変化が訪れていました。
◇
ある晴れた日の朝。
ジークフリートは、自室の姿見の前で、深刻な顔をして立ち尽くしていました。
(……おかしい。縮んだのか?)
彼が手にしているのは、公爵家当主として着用する正装の白いシャツです。
最高級のシルクで織られ、王都の職人が仕立てた逸品。
しかし、袖を通そうとした瞬間、違和感が彼を襲いました。
ギチチチチ……。
布が擦れる音ではありません。
まるで、限界まで張り詰めた船の帆のような、危険な軋み音が聞こえるのです。
「う、ぐ……っ!」
ジークフリートは脂汗を流しながら、右腕を袖に通しました。
かつては余裕があった袖口が、今は彼の二の腕に食い込み、血管を締め付けています。
以前の彼ならば、このシャツは風を孕んで美しくドレープを描いていたでしょう。
ですが今は、内側から膨張する「暴力的な質量」によって、生地の織り目一つ一つが悲鳴を上げているのです。
(ルシナとのトレーニングの成果が出ているとは感じていたが、ここまでとは……)
彼は鏡を見ました。
そこに映っているのは、かつての「死神公爵」と呼ばれた青白い病人の姿ではありません。
首から肩にかけてのラインは、なだらかな丘陵のように盛り上がり。
胸板は、鎧を着ていなくとも矢を弾き返せそうなほどの厚みを持ち。
腹部は、彫刻刀で深く刻まれたかのように六つに割れている。
いわゆる、仕上がっている状態でした。
「……悪くない」
ジークフリートは、自分の身体を愛おしそうに撫でました。
この肉体は、ルシナと共に歩んだ日々の結晶です。
毎朝の地獄のスクワット。
泥だらけになって行った開墾作業。
そして、夜な夜な行われる激痛のマッサージ。
それら全てが、今の彼を作ったのです。
彼はルシナへの感謝を胸に、最後の仕上げとしてシャツのボタンを留めようとしました。
第一ボタン、クリア。
第二ボタン、クリア。
そして、胸板の最も厚い部分にある、運命の第三ボタン。
「ぬ、ん……ッ!」
指先に力を込めます。
左右の生地を無理やり引き寄せ、ボタンホールにねじ込もうとします。
生地がミシミシと音を立て、ボタンを縫い付けている糸がブチブチと切れかけます。
(負けるものか……! これは正装だ。ルシナに見せるための、晴れ姿なのだ!)
彼は気合一閃、腹圧を高めました。
「ふんッ!!」
カチリ。
奇跡的に、ボタンが留まりました。
ジークフリートは深く安堵の息を吐き――。
ヒュンッ!!
空気を切り裂く鋭い音。
次の瞬間、鏡に映った自分の姿を見て、彼は凍りつきました。
バァァァァァァァァンッ!!
爆発音と共に、第三ボタンが弾け飛んだのです。
それはもはや「外れた」という生易しいものではありませんでした。
限界まで圧縮された大胸筋の反発力によって射出されたボタンは、音速を超え(※体感)、部屋の向こう側にあるオーク材のクローゼットにドスッ! とめり込みました。
「な……ッ!?」
さらに連鎖は止まりません。
ビッ! バチュンッ! ズドンッ!!
第四、第五、第六ボタンが、機関銃のように次々と発射されます。
弾け飛んだボタンが壁に当たり、跳弾して花瓶を割り、窓ガラスにヒビを入れます。
部屋の中は、さながら戦場の様相を呈してきました。
「うわああああっ! 私のシャツが! 王室御用達のシャツがぁぁっ!」
ジークフリートが叫びながら胸を押さえますが、一度解放された筋肉の獣は止まりません。
ビリリリリリリッ!!
背中の縫い目までが裂け、シャツは無残にも「ただの白い布切れ」へと還りました。
ガチャリ。
騒ぎを聞きつけた扉が開き、ルシナが飛び込んできました。
「ジーク様!? 敵襲ですか!? 今の破裂音は……!」
ルシナは臨戦態勢で部屋に入り、そして――動きを止めました。
そこには、ボロボロになった布切れを纏い、半裸で立ち尽くすジークフリートの姿。
汗に濡れた肌が、朝日に照らされて黄金色に輝いています。
飛び散ったボタンの残骸が、激闘の凄まじさを物語っていました。
「……あ」
ルシナの瞳が、かつてないほど大きく見開かれました。
彼女はゆっくりと、吸い寄せられるようにジークフリートに近づきます。
「ル、ルシナ……すまない。見苦しいところを……」
「静かに」
ルシナは震える手で、ジークフリートの胸板に触れました。
熱い。
皮膚の下で脈動する、圧倒的な生命力。
かつての「骨と皮」だった感触はどこにもありません。
そこにあるのは、鋼鉄のような硬度と、ゴムのような弾力を併せ持った、至高の筋肉でした。
「……仕上がっています」
ルシナは恍惚とした表情で呟きました。
「なんてことでしょう……。大胸筋上部の盛り上がりが、鎖骨を埋没させるほどに成長しています。肩との境目には、美しい溝が刻まれている……! これぞ、私が求めていた『動ける彫刻』ですわ!」
「ルシナ……」
ジークフリートは顔を赤らめました。
彼女が自分の胸を触りながら、熱い吐息を漏らしている。
これは、つまり……誘っているのか?
「気に入って、くれたか?」
「はい! 最高です!」
ルシナは満面の笑みで、壁にめり込んだボタンを指差しました。
「ご覧ください、あの威力を。あの一撃は、筋肉が服という束縛に勝利した証です! おめでとうございます、ジーク様! 貴方は今日、服を着るには強くなりすぎたのです!」
「……そ、そうなのか? これは喜ぶべきことなのか?」
「当然です! 記念に、これからはワンサイズ上の服を特注しましょう。もちろん、ストレッチ素材で!」
ルシナはジークフリートの手を取り、高らかに宣言しました。
「さあ、皆に見せに行きましょう! この素晴らしい肉体美を! 今日から貴方は『死神公爵』ではありません。『破壊神公爵』です!」
「名前が! 名前が悪化していないか!?」
抵抗も虚しく、ジークフリートは半裸のまま廊下へと連れ出されました。
すれ違うメイドたちが「キャアアアッ!♡(鼻血)」と悲鳴を上げて倒れていく中、彼は覚悟を決めました。
もう、後戻りはできないのだと。
この日、アイゼンラッド公爵家では「ボタン代」という新たな予算項目が計上されることになったのです。
ご愛読ありがとうございます!
ついに公爵様が覚醒(物理)しました。 ボタンが弾け飛ぶのは、マッチョにおける通過儀礼です。 壁にめり込むほどの威力、これぞ大胸筋のロマンですね。
「ボタンが凶器すぎるww」 「メイドさんたちの反応が正直でよろしい」
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次回、夜会へ向けての準備回。 筋肉聖女がドレスを着るとどうなるのか……? 背中のチャックとの壮絶な戦いが始まります。
明日も更新します!




