第22話 『契約』と言う鎧の裏で
王城、離れの一室――石造りの応接間には、陽光が柔らかく差し込み静かな気配が満ちている。
テーブルには香草を浮かべた茶が用意されており、その香りすら──妙に緊張をはらんでいるように感じられる空間だった。
扉がノックされ、ミリアの声が届く。
「あの、セラさまぁ……クラウディア様が……挨拶をしたい、とのことでお見えです」
その言葉を聞いたセラフィーナは立ち上がり、姿勢を正す。
(……ああ、きたな)
「お通ししてください、ミリア」
「は、はい!」
やがて、静かな足音とともに回廊の奥から姿を現したのは──月光を思わせる白銀の髪を揺らし、気品ある歩みで進む一人の女性だった。
揺れるたびに柔らかな光を反射する、美しい毛並みの白狐の耳。
裾を引くような純白のドレスが、彼女の細身の体を一層際立たせる。
長く伸びた尾がゆっくりと揺れるたび、まるで風すらその動きに合わせているかのように感じられる。
その佇まいには、獣人の高貴さと氷のように澄んだ美しさが同居していた。
白狐族の令嬢──クラウディア・レイゼン。
彼女は扉の前で一度立ち止まり、指先でスカートの端を摘んで優雅に一礼。
そして、完璧に計算された微笑みを浮かべて口を開く。
「ご機嫌ようセラフィーナ様、そして初めまして……お会いできて、光栄ですわ」
その声音はまるで薄絹のように柔らかく、けれどどこか──冷たかった。
セラフィーナは、椅子から立ち上がり、静かに応じる。
「ようこそお越しくださいました。クラウディア様……初めまして、セラフィーナと申します」
言葉に滲むのは、誠意と礼節――それは決して表面的なものでなく、心からの応対だった。
けれど──その直後、クラウディアの唇が、ほんのわずかに歪む。
気づかぬふりをしていなければ見落としてしまいそうな、ほんの一瞬の表情の揺らぎ。
「……まぁ、思っていたよりもお若いのね」
まるで心から感心しているかのような声音で、クラウディアは言葉を継いだ。
しかしその瞳の奥に宿る光は、探るような、試すような色を含んでいる。
セラフィーナはその視線を正面から受け止めながら、ゆるやかに微笑んだ。
「――ご期待に添えず、申し訳ありません」
淡々としたその返答に、クラウディアの尾がひらりと揺れた。
──静かに、けれど確かに。
空気の中に、目には見えぬ火花が散る。
「──あら……でも、なんとお呼びすればよいのかしら?」
何気ない仕草でティーカップを傾けながら、クラウディアが問いかける。
「……?」
首をかしげるセラに、白狐の令嬢は微笑を深めて、言葉を続けた。
「あら……『王妃様』とお呼びすべきかしら?それともまだ『仮』のご関係ですの?」
声は柔らかく、言葉遣いも丁寧。
けれどその一言一言で、絹で包んだ刃のように、鋭く研がれていた。
セラフィーナの背筋に、かすかな緊張が走る。
だが──彼女は微笑を崩さず、すぐに穏やかな声で返す。
「お好きなように、お呼びくださいませ。正式な立場については……どちらでも大差ありませんから」
その柔らかく澄んだ言葉に、クラウディアの瞳が一瞬だけ細くなる。
そしてすぐに、涼やかな声で言葉を返した。
「ふふ……寛大なのね。やっぱり人間の方って柔らかいものね」
まるで褒めているかのような口ぶり。
だがその声音には、相手の反応を試す意図が隠れているように見えた。
それでもセラフィーナは、何も動じた様子を見せない。
ただ、静かに──美しく、微笑んでいる。
二人きりの空間での会話は薄く張られた氷の上を歩くように静かで、冷たく、しかし妙に美しかった。
やがて、クラウディアは香茶に口をつけてわざとらしく肩を落とす。
「……私はただ、この国の未来を案じているだけですよ。このフェルグレイという国は、獣人と人間の共存を掲げる、繊細な国政のもとに成り立っている……だからこそ、『王妃』のあり方も慎重に考えるべきだと思っていて……」
そして、微笑みを崩さぬまま、視線をまっすぐに向けた。
「──人間のあなたが『王妃』の座にどれほど相応しいが……正直、少しだけ……心配でして」
その言葉は、明確な『否』を突きつけていた。
だがセラフィーナは、動じなかった。
「ご心配、ありがとうございます。ですが私は──この国で、自分にできることをしているだけです」
柔らかく、しかし芯のある声音だった。
その言葉に対しクラウディアの表情が僅かに揺れる。
「ふうん……立派な自己認識ね。でも契約なら──私の席を、空けておいてくださるわよね? 正妻のために」
言葉の棘は、もはや“配慮”の皮を被る気すらない。
けれど、セラフィーナはたった一瞬だけ目を伏せた後、微笑んで答えた。
「……ええ。私はあなたの邪魔をしないよう、慎ましく過ごします」
「そう、賢いわね」
それだけを残した後、クラウディアは椅子を立った。
まるで勝者の退場のような身のこなしで。
扉が閉まるその瞬間、セラフィーナの目元だけが少しだけ、翳った。
彼女は──決して傷ついていないふりをしていた。
けれど、『契約』という鎧の内側で、静かに息を吐く。
(私は……一体、どこまでこのままでいられるのだろう)
香茶の湯気だけが、静かに立ち昇っていた。