運動能力抜群だが、人付き合いが苦手な剣道男子安田武志。超美人だが人と交際せず妖怪と渾名される同級生の小泉華。この二人が剣道の交剣知愛の精神を理解し、剣道だけでなく人間的にも成長してゆく物語である。
紺地に白の格子縞の派手なブレザーに、痩せた猫背の上半身を包んだ英語教師。不健康に青白く尖った顎は獲物を狙うカマキリのそれそっくりにカクカク動く。彼は講義中、吐く言葉のふとした合間、合間に、呼吸を整え、金縁眼鏡を外しその蔓に舌を這わせる。目的の獲物を見つけたカマキリが嬉し気に、その鎌をなめるように、…。そして再び、口を開くや…、口角泡を立て、唾を吐き飛ばし、巻き舌早口で英文の説明解釈の言葉の連発を獲物になった生徒に投げつけ、獲物とその周囲の生徒たちの様子を窺う。誰が理解しているか、誰が自分の言葉を理解できずに途方に暮れているかを見極めるように。次の瞬間、唐突に、且つ、矢継ぎ早に、これ見よがしに、戸惑いで教科書の上の視線の定まらぬ生徒を指名し質問を浴びかける。授業中、ズーッとこれが繰り返される。教師の高飛車な圧力に抗う事を放擲した生徒たちはカマキリの繰り出す難題のカニばさみで引き倒されるのを恐れ、怯え、身を縮め、神経をすり減らし、防御不能にかかわらず制服の肩に力を入れてクラス全員マスマス縮こまる。
俺はそんな哀れな連中の背中を教室の最後列からボンヤリ眺め、只一人、まどろみの中にトロトロとしみ込んで行く。睡魔に屈して弛緩した俺の指先から、鉛筆がポトリと離れ落ち、足元の床をコトリと鳴らす。その音にフッと覚醒し、落ちた鉛筆に手を伸ばし拾いあげるついでに、目を上げイタイケナな背中達を一瞥する。そして、変わらぬ風景に奇妙な安堵を感じながら、再び睡魔の世界に潜り込む。
モーム、ラッセル?何だ!それ。朦朧とした意識の中で縮こまり揺れる背中の群に問いかける。
「君達は英語を学んでいるのだろ?それなのに、パワハラ教師にビクついて俯いて、意味をなさない防御姿勢を取っているなんて、おかしいでしょ。」
今の俺にとって英語教師の声音は最早、ワンワン吠える犬の吠え声以下である。そんなものに弛緩痙攣する群れを、俺は意地悪くせせら笑いそうになる。でも、この前まで、俺も群の一人だった。それも最後尾に必死にしがみついていた。そして力尽き、落ちこぼれた…今、ここにいる。
二週間前のことだ。英語リーダーの音読をカマキリ教師から指示された。俺は上手くやろうと力み返り、机と椅子を刎ね飛ばす勢いで立ち上がると直立不動の姿勢を取った。カマキリ教師の圧力で呼吸が苦しく心は舞い上がっていた。それでも、俺の眼は懸命にリーダーの表面を這い、俺の喉は震えながら目の前のアルファベットの意味する音を絞り出した。頭が真っ白だが、単語の真っ黒な文字は見え、喉から音を絞り出していた。そんな状態で三行ほど読み進んだ時、「ヤメ!」という忌々しさをかみ殺した声が、俺を襲った。
どうした!と反射的に紙面から俺は顔を上げ、声が聞こえた右肩近くに首を回した。見ると、下三角の顔に上三角になった目に怒りの炎をメラメラ灯し、カマキリ教師が俺の手にするリーダーを覗き込むように、不細工顔を押し出して来た。
堪忍にも限界があるとばかりに彼はパンと声を荒げ、軽蔑を通り越し、侮蔑が嵩じて青色に染まった呆れ顔で
「安田君。文章は意味を考え、文節で区切って読んでください。いいですか!…ところで君、今読んでいる文章はどこで切れているのですか?」
文章が切れている?何をいっている?俺は突然の制止命令に混乱し、質問されている意味が分からなかった。作動停止した脳みそは「先生は何を聞いているの?」 との疑問に呪縛されているのだが…、でもすぐに答えなきゃと思い、急いで固まった口角をギクシャク動かせ、そして大真面目に
「ハイ、単語で切れています」、失礼の無いように、教師の喉元、ネクタイをしっかり見ながら教科書を胸の前に開いた二宮尊徳の姿勢で返事した。
刹那、俺に向けられた教師の目から怒りが消え、憐みの光が迸った。教師は、物思いをするように視線を遠くに遊ばせると、右口元を徐にあげ、青白い頬を少し赤らめ、俺に対し、労わるように顎を上下に揺さぶり、軽蔑の笑顔を浮かべ、それからしっかりと俺を見つめ、それから見放すように、ため息をハァ~とついた。
「君を指名すると授業が遅れます。申し訳ないが、授業の列から離れてください」と言うと、最後列の教壇に向かって左から二番目の空席を指差した。
以来、ここが俺の定席となり、指名、質問の類は一切されなくなった。
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そんな俺の左隣、つまり教室最後列の一番左端の席に前髪を重く垂らした女子生徒がいた。
朝、廊下から教室に左足から一歩入り、そのまま右足を右横に一歩開いて腰を下ろすと席に着ける。夕方の終業チャイムとともに起立し、少し大きく左足を一歩左横に出しその足に右足を引き付けて直立する。その状態から続いて右足を後方に一歩引くと廊下に姿が消える。そんな席だ。
四月、新入生になって一週間も経たないうちに、その女子生徒はクラスの皆から名前でなく、渾名で話されるようになった。妖怪と。
身長は170㎝くらいの長身。美しくすらりと長い腕、真っ直ぐで長い脚、制服からこぼれだした手足は透き通る様に白い。ただ異様なのは、俯くと顎まで掛かる真っ黒な前髪をしている事。そして彼女はいつも俯いているため、それが常に顔を隠すように覆っていることだ。モデルもどきのスタイルだが、それが隠れている顔と相まって言葉にできない不気味さを醸し出していた。
英語の授業は彼女も全く指名されなかった。いや、妖怪は英語だけでなく他の授業も聞いている様子がない。授業を全て放棄しているのだろうか?クラスメートも眼中にないみたいで誰とも話さないし、目も合わせない。そもそも四六時中彫像の様にズーッと俯いていて顔を上げないのだから…、自分の存在を打ち消すように気配を消している…。彼女は全てと没交渉だ。
クラス分け以来、恐らく、彼女の声を聞いた者、ましてや、垂れ下がった前髪に隠されたその顔を直に見た者は一人もいないに違いない。そもそも、俺には彼女が自己紹介したという…記憶がない。どうしてだろう?
何の為に学校に毎日来ている?そんな疑問が平気で出てくるような女生徒だった。
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入学から二カ月、落ちこぼれという周囲の蔑視に俺が慣れたころ、一年生恒例の地学の野外実習日が来た。この実習は集合場所が校外なので私服が許される。
指定された集合場所は、地元にある日本の低山百選に選ばれた金時山の麓の土くれだった駐車場だ。そこのフェンスの赤錆の浮いた金網に今日一日、クラス表示のA4用紙が貼られたプラカードがビニールテープで括りつけられている。
駐車場は、生徒たちが三々五々集まり、たむろし、いつもとは違うカラフルな私服姿の互いの姿に静かに興奮し、妙に沸き立つ雰囲気に覆われていた。
午前九時。何時もの白衣と茶色スリッパを脱ぎ捨て、トレッキングシューズに赤いバンダナと山歩きの服装に身を固めた地学の教師が黄色いビール運搬箱をひっくり返して作った台上に、すっくと立った。徐に喧騒を見渡し、首からぶら下げた笛を右手に持ち、それを銀色に口元で光らせると、甲高くピィーと鳴らし、生徒たちの耳目を集中させると、「注目」と声をあげた。いつもは、部屋の隅の陰にチョコンといるような地味な先生だが、その日は一年に一度の晴れ舞台とばかりに、とっても張り切っている。彼は声だけでなく、若葉燃える山を背景に、抜けるような青空に掌の指を揃え生徒の方に向けると、すらりと腕を伸ばし、指だけでオイデオイデをした。
「注目!只今から、地学実習を始めます。貴重な梅雨の晴れ間。書くクラス、皆、担任の先生の指示に従い、実習を行ってください。ルールを守り、くれぐれも無理はせず、安全の確保をお願いします。では、今日一日、宜しくお願いします」 慣れない大声でした開会宣言は、所々、声が裏返っていた。
地学教師の精一杯の挨拶が終わると、それに呼応し、クラスの最前列にいた各クラス担任が地学の先生に負けんとばかりに、右手の握り拳を天に突き立て、地学の先生とは違って慣れた様子でクラスの皆に聞こえる声で指示をした。
「男女三名ずつ六人の班を作れ。班で協力して課題を実施する」
「班を作れ」の言葉が終わらぬうちに、クラスの塊に緊張感が走り、次の瞬間、揺れ動いた。
班になれと言われ、近くにいる男女三名ずつが一つの班になるような高校生なんていない。人数指示が出た刹那に頭の中では友人の順位付けと選別をし、できるだけ気の置けない同性の友人と、そしてできる事なら一緒にいたい異性を班の仲間に引き入れようと躍起になる。 いや、その作業は何週間も前から隠密裏に、そして時にはあからさまに行われていた。一年生の地学実習は恒例の行事。ほとんどのクラス員は班分け情報を入手し事前に対策していた。
最悪でも、絶対に、余り者にだけにはならないように。そんな思い思いの戦術戦略の結果、いわば仲間の密約が今はっきりとした姿を現そうとしていた。期待と万が一の裏切り…の恐れが、生徒の群にパカンと小さな混乱とじわっとした整理を順に引き起こし、そして、それがやんわりと収束する。そんな波動が展開された。相互の視線が絡み合い、申し合わせ通りの合意決定が確認できると、ここぞとばかりに手を取り、そしてグループが形成された。
俺はどんなグループができるか大体分かっていた。教室の後ろから四六時中、彼等を眺めている。意図せずとも、そこには人間関係が見えた。俺の中にはクラス内での人脈相関図が描かれている。
逆にいえば、誰からも見られない最後尾にいる俺はクラスの枠外、仲間はずれは決定していた。
もし、俺が仲間外れにならないとすれば、同じ中学出身で同じ剣道部に所属する秀才の相良が俺に仲間になろうと声を掛けてくれる事だ。俺は、相良に、そんな気配りは不要であるという態度をとっているのだが…。
仲間集め合戦が一段落するのを待っていた担任がおもむろに
「班が決まらず余っている者、手をあげろ」と、両手をクラスの注意を引くように頭の上で交差に振りながら自分の前にたむろするクラス員を見渡し、声を掛けた。余り者を正に今できたグループに追加配分するためだ。
俺は相良の方にチラリと視線を投げるが、残念ながら奴は俺の方を見向きもせず、担任の近くに陣取って彼の仲間と一緒に談笑していた。駄目だ。独りぼっち決定…、かっこ悪い、でも従わないと…、なんて思いながら俺はオゾオゾと指先が耳元に掛かるくらいに小さく手をあげた。
その時だ。隣でピンと真直ぐに天突く勢いで挙手する女子がいた。
妖怪だった。メキシコオリンピックで人種差別に反対し俯きながら右手をあげた金メダリストの様に、何時ものように俯いていて顔にかかった長い前髪はその表情を隠しているが、姿勢正しく手をさっと伸ばし、堂々としている。
その妖怪の態度の立派さに、俺は自分の卑屈さを嘲笑われているような気がした。残りものは教室の隅にいる俺達二人だったが、「最低なのはお前だ」と俺は妖怪から引導を渡された気分になった。
担任は予想していたのだろう。目尻にしわを寄せ笑っていた。俺達二人を手招きし、そして呼び寄せた俺と妖怪に、
「君たちは残り福を引いた。相良の班に入れてもらえ」と相良のグループを指さした。
そして相良には
「一人多くて七人になるけど、宜しく」と、俺たちを呼び寄せた右手の掌を返すと相良に向かって正対すると敬礼をした。それで俺と妖怪は相良のいるグループに組み込まれた。
担任の要請に応える相良の目も笑っていた。彼のグループは一名不足の五人だった。彼は分かっていたに違いない。俺があぶれる事を…。だから、五人のグループを作り俺には知らぬふりしながら、担任の隣に立ち指示が掛るのを待っていたのだ。
相良にすれば、妖怪の参加が予定外だっただろう。いや、グループの女子が二名だった事を考えると、妖怪は織り込み積みで予定外が俺だったのかもしれない。
この班は、クラスの秀才が集まっていた。だから、俺と妖怪の役割分担は補助役、彼等から指示を受けて動くお手伝い役だ。つまり頼まれなければ何もしなくて良い。兎に角、秀才の集団だ。俺達抜きでもグループとして立派な実習レポートが完成するのは明らかだった。確かに担任の言うとおり楽ができる点では「残り福」だ。
実習が始まった。秀才グループの面々は俺と妖怪には全く無関心。残り物配属の俺達二人には目もくれず、山野を駆けまわり地層観察、写真撮影、鉱物採取を五人の仲間内で和やかに、それでいて、しっかりと要点を押え、それを的確精緻に整理し、他のグループに先駆け、発表用のA0用紙に成果をまとめ上げた。
俺と妖怪に与えられたのは、実習最後の成果発表をする時に資料を掲げる役だ。俺は資料の右上隅、妖怪は左上隅を持ち、クラスの皆に向かって掲示する。
模造紙とはいえ、発表の十分間、A0用紙が地面に触れないように、肩の高さに掲げ続けるのは腕がしびれ、男の俺でもつらかった。俺より小柄な妖怪は頭の横あたりまで腕をあげているので尚更だっただろう。
でも、発表の間中、妖怪は、その姿勢を保ち続けた。妖怪と俺は、資料を挟んで皆の方に向かって立っていた。だから、俺からは彼女の様子ははっきりとはわからなかったが掲げた用紙はぴたりと動かず…。その事から、人並外れた根性も体力もある女だと思った。
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体力があり堂々としている妖怪に興味を覚えた俺は、翌日から、彼女の様子をチラチラ…、机上に組んだ両腕に顔を横向きに置き、彼女に顔を向け居眠りをしながら薄目を開けて窺い、盗み見するようになった。そして、色んな発見をした。
妖怪は人目につかない机の陰になっている膝の上に雑誌を置き、眺めている事が多い。そうでない時は俯いた姿勢で机に手を置き印を結び黙想している。そして時々、突然、思いついたかのように机の上に開いたノートに何やら猛烈に書きつけをしている。
ノートの内容は深く俯き姿勢を取る妖怪の垂れ下がった前髪が簾のように紙面に掛かり読み取ることはできない。でも、膝にある雑誌は俺がヒョイと首を伸ばせば、何とか覗き見できる気がした。雑誌は机の下の物入れに数冊積まれている。
何の雑誌だろう?今、観ているのは光沢のある紙質の大判のものだ。もう少しで見えそうで…、ウゥー覗きたい! その願望が日増しに膨れ上がり誘惑に変化していった。
誘惑に囚われて三日後の英語の授業中、クラスメートの極度の緊張とは関係なく、能天気にも俺はパンパンに膨れ上がった誘惑いや、覗きたいという熱情に屈服した。俺は気付かれぬようにスーッと腰を左に滑らせ体をずらせ、雑誌を夢中に読みふける妖怪に上体を近づけると、ヌッと首を伸ばして妖怪の右隣後方から膝の雑誌をソッと覗き込んだ。
見て驚いた。真っ黒に日焼けして小さなパンツを穿いた筋肉モリモリ男女がこれでもか!とポーズを決めている。何と、ムキムキ、ボディービル雑誌だ。
「見せる筋肉の作り方」の見出しが机の下、薄暗がりの妖怪の膝の上でギラギラと躍っていた。
アブノーマルでストイック、ナルシストが愛読する雑誌だ。
もし、他人がこれを知れば、どれだけ気味悪がられるか。授業中、教室の片隅で…。妖怪はブッ飛んで別世界にいる。
妖怪に比べたら、涎をたらし居眠りしている俺なんかは極めてノーマルで無難な教室空間充填役そのものだ。
そう感じ、覗き見成功の満足間に満足した俺に、魔が差した。俺は覗き見している事を忘れ、
「面白い?そんなの」と、妖怪に声を掛けてしまった。
その声にキッと妖怪は顔を上げた。彼女は、俺に向かって首を捻り、顎まで覆い隠す長く黒く真っ直ぐに伸びた揺れる前髪越し、俺にぎょっとする視線を浴びせかけた。そして、その前髪一揺れの瞬時に俺を金縛りにした。
俺は瞬殺ロックされる刹那、揺れる前髪の黒い隙間に、白く尖った顎、口角が上がり形の良い赤い唇、ピンクの耳朶をした彼女の小顔を見た気がした。それも束の間だった。次の瞬間前髪の奥から発せられる猛描を思わせる覇気に威圧され、竦んだ俺はその視線を逃れ俯いた。
そんな俺を見下すように、妖怪は一呼吸し、気を収めてから、威圧姿勢を崩さぬまま
「あなた、剣道していると聞いているのですが…」と小さく静かに透明感のある押しの強い声で囁いた。それから、机の中の雑誌から一冊を選び出して膝に置き、俺に差し出し、白くて長くて綺麗な指で付箋を付けたページを押し開いた。それは剣道雑誌の一ページだった。
紙面には、子供のころ良く俺の世話をしてくれた青山太郎先輩が微笑んでいた。その写真を見て、ホッとした俺は、
「この人、俺に剣道を教えてくれた」と、懐かしさに思わず言葉を吐いた。
その雑誌の特集ページの中で紺の道着を端正に着こなし、青眼の構えを取っている剣士は、隣の県にある剣道で有名な中高一貫校に進学後、名門W大学に進んだ道場の先輩だ。先輩が剣道の有名中学からスカウトされ引っ越すと聞いた時には子供心に「凄いな!」と感心すると同時に、弟分の俺は置いてきぼり。捨てられたと、悲しく寂しい気持ちになったものだ。
でも、先輩が学生剣道界で活躍し、剣道雑誌に常連の様に取り上げられるようになった今、そんなことは忘れ、俺は青山先輩が載っている雑誌は必ず買い求め、本棚に並べて眺めている。
今回も、端正な構えをしている先輩の写真を指差し、自慢げに、
「兄貴みたいな人だ」と、
瞬間、妖怪の前髪の奥から発される視線が、俺の顔を薙ぎ払い、俺は思わず仰け反った。
「本当に?そう?」ページを開く指が力んで震えた。
「大好きな先輩さ。右足の親指が少し上を向いた構えは子供のころと同じ」、その迫力に、俺は条件反射的に言葉を発した。
小学校六年生の時に継足という剣道の打突時における悪癖を矯正するため、師範が先輩に右足親指を上げ気味に構えさせた。この構えが定着して生来の体全体をバネのように撓らせて相手を上から圧倒する今の大きな構えを作りあげた。
磨かれた勇壮豪快さが写真から溢れるように伝わってきた。
「正新館道場に通っていた。館長先生が亡くなられ、今は閉館している。先輩が町を離れる時は送別会をあそこでやったよ」
俺の言葉に、妖怪の俺を見る視線はさらに強まるのを感じた。妖怪はページから手を離し、徐に両手で顎を包んだと思うとそのまま耳の上まで顔を覆っていた前髪をたくし上げる。そして、フゥーと深くため息をつくと、そのまま手を抜いた。前髪が再びサラサラと顔を覆った。
大げさな女だ。何を考えているのやら…、さっぱりわからない。
でも、一つはっきり分かった。束の間だったが髪をあげた時に見えた妖怪の素顔は小顔でさっき垣間見た通りの透き通るような色白、驚くことに唇は赤く健康的に輝いていた。
見間違いではない…、俺には確かに妖怪の素顔を見た。
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「安田、小泉、うるさい!」俺達の会話を授業妨害と考えたのだろう、カマキリ教師が容赦のないオーバースローでチョークを俺達二人に向かってビュンと投げてきた。
瞬間、俺は反射的に仰け反り避けた。妖怪はと言うと、何事もなかったかのように、それをひらりと躱し、着座姿勢に戻ると、目にも留まらぬ速さで膝にあった剣道雑誌を机の下に突っ込み、そして、徐に立ち上り、席を離れ、教室の後ろの壁にぶつかって転がっているチョークを拾い、教室正面に対して起立姿勢を取った。そして、素早く右手を振り上げるとそれをビュンと振おろし、カマキリ教師のいる黒板向かってチョークを投げ返した。チョークはは黒板でピシャと音を発てて飛散した。彼女は、カマキリ教師に向かって、顔をつんと振り上げていた。
野球監督が審判に抗議するように両腕を後方に引き胸を張っている。前髪かに隠れていない左右の耳朶が赤らみ、全身が小さくカクカク震え始めた。横に立つ俺には見えないが、きっと戦闘的な目で教師を睨みつけているに違いない。爆発寸前の時限爆弾だ。妖怪は全身で教師に売られた喧嘩を買っている。鼻梁以外は前髪に隠されてはいるが、彼女の目はカマキリを射ぬかんとばかりに見開かれている様子は隣にいてヒシヒシと伝わってくる。
教室の皆は理解した。彼女は、俺とのコソコソ私語を注意された事に対して怒りを発しているのではない。今まで蓄積されたカマキリ教師の図に乗った傲慢さクラスでの横暴な行動に反撃ののろしを上げているのだ。更に付け加えるなら、数人の生徒はこうも思ったであろう。そんな教師に好きなように翻弄されているクラス員つまり自分たちの卑小さに対して妖怪は怒っているのだと…。
カマキリは妖怪の予想外の反応、反発と、その気迫に驚き、固まり、迷い、茫然として…、視線を泳がせ、遂には妖怪から目を逸らし、床を見て、徐に眼鏡を外しその蔓を一なめすると、何事もなかったかを取り繕い授業を再開した。気付くと、妖怪は、知らぬ間に着席していた。
教室中、圧倒され別世界と化した。妖怪、なんて奴だ。カマキリの野郎を退散させるなんて…、
なんて危ない奴だ。逃げろ!俺は妖怪の凄さに恐れ戦いた俺は、すぐさま自席に着席すると、机の中に突っ込むように顔を伏せ、目を瞑り、耳をふさいで、すぐさまいつものまどろみの世界に逃げ込んだ。
終業のチャイムで我に戻る。頬が濡れている。涎だろう。制服の肩口でそれを拭きながらのろのろと顔を持ちあげ薄目を開くと…、強烈に真っ黒な眼が…、
妖怪が俺の額に延ばした前髪が掛からぬように髪を両手で眉毛の上まで持ち上げ、食い入るように俺の寝顔を覗き込んでいた。
・・・・・・・
「あれには、ビビった。吸い込まれそうな暗黒の瞳ってあんなのかもしれないな。それが目の前にあって、驚いて危うくギャーと声を出しそうになったけど…、西遊記で猪八戒が銀角の持つ紅瓢箪に吸い込まれた状況を思い出してね、声を出しては吸い込まれると息を止めた。瓢箪と瞳は違うけどね」
「武志、ここにいて俺としゃべっている奴がなにを戯けたことを…」相良はあきれ返って薄ら笑いを浮かべている。
秀才だが相良はレトリックが分らなさ過ぎる。
温かい目、冷たい目なんて言うが、俺を覗きこんでいた彼女の目は真っ黒な底なし沼だった。目玉から光が出ていない。彼女が大地ならそこに落ち込んだ俺は一瞬にして地球の裏側ブラジルに現れると思えるほど空虚だった。それを分かって欲しいのに…、いや、相良に話すのなら紅瓢箪ではなく別の言葉が必要だ…なんて反省しながら俺は続けた。
「じゃ、言い直す。万物を吸い込むと言うブラックホールの目だ。紅瓢箪じゃなくブラックホール。それと…これは現実の話だが、妖怪が唐突に、今日、俺の家に押し掛けてくると言っていた」
「いつ」
「今日だよ。今日。剣道部の稽古が終わるまで待っているから、俺の家に連れて行けって」
「何で?」
「分らん。兎に角。ブラックホールの目の後は、真っ黒闇の瞳孔から突然に十字に光るレーザービームを発し俺を威圧し焼け焦がして言い放ったんだ、「今日、あなたの家に行きます」って。さっぱりわからないが、あの迫力には敵わなく、固まった俺には断りの言葉を出すことさえできなかったよ。」
「武志の部屋を訪れる初の女性が小泉か…、運命を感じるな。でも、淫らは駄目だぞ!」相良は茶化して笑った。いつもと同じく他人事の様に扱う。
「クラスで妖怪と呼ばれる少女と、竹馬の友にも見捨てられる少年。この二人が傷口をなめ合うなんてミジメの極みだな…」
俺が嫌味たっぷりに呟くと、
「いじけるなよ。いつも拾ってあげているだろう、地学実習みたいにさ…」
相良は目玉をぐるりと動かしニヤニヤしている。此奴は、何時も俺の保護者気分でいるのだろう。
「自分で考え、自ら行動する。熱中し、やり始めれば一番になる。剣道もそうだろう…。安田、そんなことを何も考えずに自然にできる。お前は才能の塊だ。お前自身もお前のクラスメートも全くそれに気付いていない。でも小泉だけはそれを見抜いていると思うよ」
「さっきも小泉って言ったけど、それって妖怪の名前なのか?」
「そうさ、同級生の名前くらい覚えておけ。英語のカマキリが、「安田、小泉」って名前を呼んで、チョークを投げつけたじゃないか。お前はそれさえ覚えていないのか…」
「そうか、でも何で妖怪が俺の事なんか…、そもそも妖怪にそんな人を見抜く才能があるの?」
「何を、安田。入試でトップは誰だと思う?」
「お前だろ、相良」
「じゃー、女子は?」
「知らない。誰が一番かなんて俺には関係ないもの」
「小泉だよ。お前の言う妖怪だ。入学式で俺と一緒に新入生代表を務めただろ。どうせ、他人に関心のないお前は、式の最中に居眠りしていて覚えていないと思うけど…。彼女の家は全員東大出身らしいよ」
そんな話をしていると
「相良君、次は数学の授業よ、皆が来る前に良い席を取りに行きましょう」
教室の出口から“秀才グループ”の女子の一人が相良に呼びかける。
黒髪がまぶしく背が高く赤いコーティングをした金属フレームの眼鏡をきちんとかけた背筋の伸びた女子、彼女は弓道部らしい。確かに彼女の矢はまっすぐ飛びそうに思える。
彼女の横にいるのはスカートを短くし、校則違反ギリギリと思われる茶髪を地毛の色と主張する女子、アイドルのみちょぱを真似ているのだろうか。短足胴長のみちょぱなんて誰も相手にしないと思うが…、
そして、その群の後ろには、背後霊のごとくつかず離れず、真っ黒で坊主頭の野球部員と青白いガリ勉男の二人が薄ぼんやり立っている。彼らの共通点は予習を良くする秀才と呼ばれる連中であることだ。でも、俺の見方は違う。この世の高校生を秀才と言うフィルターをかけてタイプ別に五人集めるとこんな感じになるだろうと思われる単なる寄せ集めだ。
それ以上でもそれ以下でもない。学年ナンバー1の相良と一緒に行動することで、本人達はお高くとどまっている気分だろうが、俺に言わせるとその群れの中身は仲間を求める心貧しい勉強オタクのみじめな相互扶助集団だ。
声掛けされた相良はにこやかに彼らに右手の平を向け了解のしぐさを取りながら、良く通るバリトンで
「分かった。今行くよ、先に行っておいて…」と返事し、俺に振り向いた。
「仲間は大事だ。一緒に行動したらどうだい。紹介するよ」と、数学の授業に向かう寄せ集めの一群を一瞥し、俺を誘った。
その言葉に、
「奴らと一緒?」と思わず呟いた、
俺の顔に困惑と嫌悪が入り混じった表情が浮かんでいたのだろう、
相良はそれを見咎めた。
「人を毛嫌いして、すぐに馬鹿にする。そこがお前の欠点だ」
「そんなことはしていない、受け入れられないだけだ」
そう答える俺を圧して独裁者の様に胸を反らせて相良は言った。
「気楽だよ。勉強さえしていれば、付き合える。共通の話題がある。大事だよ。」
「話題が数学の解法や英文法なんて、薄っぺらくって耐えられない。嫌だね」
「一人ではグループを作れないだろ。地学実習が良い例だ。それに、勉強は学生の本分だ。変な意地を通すなよ」
相良の感覚では、寄せ集めの四人もグループ作りに必須の必要な構成員なのだ。
「相良」
「何?」
「独り言が増えると精神病になっている可能性が高いと聞く。でも、人形代わりの仲間と称するものに話しかけるのは健全なのか?」
「分るよ、それは。でも、本当に仲間と認められる相手はそんな行動をしながらじっくりと探せばいい。とりあえず、俺たちと一緒にいるのも悪くない。隗より始めよという言葉もある。より良い友達に出会えば、そいつと付き合えばいい」
そう言い切ると相良はくるり振り返り、次の教室に向かった。
その背に向かって、
「俺は“とりあえず”の行動はしない。遠慮する」
ガラクタに合流しようと歩いてゆく相良に言葉を投げた。
相良は振り向かず、ぶらりと下げた後ろ手の掌をヒラヒラさせた。
・・・・・・・・
俺は落ちこぼれでツマラナイ人間だと思う。そして、見方によってはクラスのいじめられっ子だ。教師からも生徒からも明らかに孤立している。
でも、孤立を避けて、いや、独りぼっちの恐怖を忘れるために他人とつるんでいる奴らは見苦しいと思う。奴らは、手近な自分と釣り合いが取れそうな人物を、見つけ、近寄り何らかの一緒の時空を共有する。そしてそれが無事に完了した時点で相互に、友人と言う言葉で一括りに表される認識を暗黙の裡に共有する。そしてその関係を別の個人へも横展開する。そんな友人関係のクラスタができると仲間と呼ばれる集団となる。集団には自然に暗黙の規律がでる。それは、お互いの傷口に触れないよう、欠点を見ないようにする事。それが嵩じると、長所を誇張、過大評価する作業を始める。気配りばかりで成長しない中身のない時間を自己と自己を含む集団を守るためだけに無駄に積み重ね始める。そんなの、切磋琢磨の対極にある不毛の人間関係だと思う。奴らは決して本音の議論をしない。お互いが恐ろしくって切磋琢磨ができないのだ。
俺は小学校の高学年から中学にかけて、表立って問題になるような事はない子供だった。が、ある意味でズーッといじめられっ子だった。ボス的存在の生徒に邪険に疎んじられることがしばしばあった。独りぼっちが多かった。そして俺は一人ぼっちが寂しくそして恐ろしくなった。だから、そこから抜け出そうと、友達付き合いというものを考え、友達づきあいは長所の誇張と短所の無視だと思って、本音を殺して無理をした。会話も無理をして上滑りさせ本音を隠した。今考えるとピンボケの誤った気づかいだと反省する。
俺は、仲間だ、友人だと、お互いに認識、いや約束のようなものを交わした思う人物と話している時、話が尽きるのが怖かった。沈黙に怯えた。だから、共通のテレビ番組を見るように心がけ、話のネタを確保した。そんなにしても話が途切れることがある。そんな時、俺は以前から用意していた話題を「話が変わっていいかな」なんて言いながら提供し、それを膨らませ、時間を埋めた。
それに疲れると、話題の豊富な別の人を呼び込み、彼に話させ、それに相槌を打って、時間を過ごすことを覚えた。そうする事が仲間でいる為のノルマだと思っていた。
でも、そこまでしても、時には俺はそんな仲間に裏切られ、切り捨てられ、生贄にされる事がしばしばあった。それは、他人よりかなり高い頻度で、あったと思う。
今考えると、俺は生来、嫌われ者なのだろう…。話題の本質、議論、判断の甘さや、程度の低さにフト気付いて、つまらないと思うと、それが表情に浮かんで本心を悟られてしまうようだ。俺は普通に思っていることを当たり前のことの様に言うと「偉そうに」と毛嫌いされた。例えば五〇m走、7秒8で走ったと自慢している奴がいた。俺のタイムは7秒2。普通だと思っていたので「みんなそれくらいでしょ」と言ったら、それまで仲間と思って一緒に居た連中から、徒党を組んで非難された。そんな話は幾らでもある。
正直に思ったことを話す。つまり本音を吐くと仲間と思っていた誰か、もしくは幾人かにコテンパンに突き離される。それを避けるため、卑怯にも、納得できない虐め行為の尻馬に乗ったこともあった。今思い出すととても恥ずかしい。思い出すだけでも気が狂いそうになる。
英語の授業で必死になっている奴ら、俺を落ちこぼれと見下す奴ら、そんな奴ら以下の人間の役回りを俺はしていた。だから良く分かる。仲間内で傷口を舐めあい、お互いに愛想笑いしながら仲間でいる奴らの心持が…。
可哀相だと思う。卑怯だと思う。そしてあの状況に、二度と戻りたくないと思う。
義務教育を終え、高校生になっても成長せずに相変わらず小中学生と同じ事をやっている。いや、英語の授業を見ると、程度はさらに悪くなり、病膏肓に入っている気がした。
こいつらは、いつもびくびくしていて自分自身をどこかに置き忘れ、自分がないから他人の人生までも無意識に捩じ曲げている。俺は違う。いや違わなければいけないのだ。
・・・・・・
部活が終わった。西に傾いた太陽が赤煉瓦造りの校門を更に赤く染め上げていた。その校門のまっ黒な影の中で妖怪は俺を待ち伏せていた。暗い影から飛び出した彼女は「約束よ」と俺に呼びかけ俺の前に体を押し出し、足の甲を踏みつける勢いで、俺の前に通せん坊をするように立ちはだかった。
その勢いに、俺は一瞬、立ち止まった…が、エエイ!面倒とばかりにサイドステップを切り、横に体を振り、妖怪の脇を抜けると、妖怪の制止を躱して、彼女の存在を無視するように前を向いて歩き続けた。でも、妖怪はそんなことは織り込み積みと…、黙って、背後霊のごとく、俺の後につき静かに歩き始めた。何が約束だ。自分が一方的に決めただけじゃないか!勝手者が…、俺は心で叫び、知らぬふりを押し通して家路を辿った。
でも、落ち着かない。最初から完全に妖怪に主導権を取られている。このままで行くと彼女の思い通りに事が運ぶ…なんて色んな考えが頭をよぎる。だからこそ何とか俺は妖怪の存在を一時でも忘れ、普段通りに歩こうと思うのだが…そう思えばそう思うほど…、西日が長く妖怪の影を俺の行く道の先々に映し出す。その影が俺の影と交差するたびに俺は妖怪に羽交い絞めされたような気分になり身動きができなくなる。そんな状態の家路が玄関まで続いた。
俺の家は農地を転用した新興住宅地にある。総二階の建売住宅の母屋の横に、これまた総二階の母用のピアノレッスン室一棟を建て増しし、その二棟の一階部分を渡り廊下でつないでいる。その為、同じ踊り場を共有して、母屋の玄関は東向きに、レッスン室への入り口は南向きにと各々設けられている。だからレッスン室の二階にある俺の部屋にはその気になれば、誰にも知られず南の入口から入り込める。
妖怪だって女だ。いや、それどころか物凄い美少女だ。そんな美少女と一緒に俺が帰ったのを母親に知れるとどんな面倒なことが起こるか…恐ろしくって想像できない…、どうしようか…、と安田の表札の掛かった庭に入る一段上がったタイル張りの階段に足を掛けながら、俺は一瞬立ち止まり、迷った。
母屋の台所に目を向けると灯がついている。母は夕食の支度をしているのだ。専業主婦で元気が好い分、口煩い人だから、母を妖怪に会わせると何を言い始めるかわからない。そう思った俺は、母に知られぬように、そっとレッスン室の玄関から入ることに決めた。
見つからぬように庭の飛び石を辿り、南玄関のドアノブに手をかけた、その時だ。俺の背後に静かに付き従っていた妖怪が、ドスンと俺の背中を西側に衝いて、俺を脇に押しのけ、自分が東側玄関の正面に立った。
サッと、前髪を両手でたくし上げ背筋を伸ばしたかと思うと、料理する母のいる母屋につながる玄関ドアを勢いよく開け、
「こんにちは、お邪魔します」奥の台所に向かって爽やかな挨拶の声を発した。
常でない、若い女性の明るい挨拶声に、母が何事かと驚いて小首を傾けエプロンで手を拭きながら玄関に小走りで急ぎ出てきた。その母に、サラサラの前髪を頭の中央で両分けにした爽やか美少女と化した妖怪は、涼やかな笑顔を作り、にこやかに母とキラキラ輝く目を合わせ、姿勢正しく腰から四十五度の丁寧なお辞儀した。
「初めまして、武志さんの同級生の小泉華です。武志さんに剣道の事を教えて頂きたく、お邪魔し致しました」と、要領よく、流れるように自己紹介と訪問目的を口にした。
「まあ、珍しい、武志にお客様、でも、武志に分かる事があるかしら?」キツネにつままれたように驚いて揉み手しながら目を丸くする母に、
「あります、あります、沢山あります。武志さんの剣道は奥が深いですから…」とにこやかに、快活に、相手を安心させる柔らかくにこやかなほほ笑みを浮かべ、再び会釈する。その余裕に、
「まあ、そう、ごゆっくり」と言葉を残すと、何か思いついたかのように、母は少し仰け反り、踵を返すと再び台所に戻った。
ビックリした、あの話好きで押しの強い母を圧倒して退散させてしまったようだ。もしかしたら、母は手の離せない料理の最中だったのかもしれないが…。
妖怪は恐るべき早業で、口煩い母を瞬時に煙に巻き、俺の部屋への通行証を確保した。
今の目の前で起きた出来事は、俺にとっては大変な騒ぎで、驚きだ…が、妖怪は何事もなかったかのような顔で俺に振り向くと、部屋に案内するように白い指をかぎ型に折り曲げ、俺の胸を正面からツンツン小突いた。この女、俺に発する言葉がないのか!生意気で腹が立った。
レッスン室の玄関で靴を脱ぎ、二階に上がる。
俺の部屋だ。東向きの掃き出しは晴れた日に布団が干されるベランダに続いている。ベランダからは庭を挟んで道が見える。
建てたのは五年前だから、そんなに古くはない。が、親父が予算をけちったので材料品質が悪く床板なんかは日焼けして木目の色が泥色に変色している。
北側は母屋の二階に対面しており、一階を連結する渡り廊下の屋根が北窓の下に母屋まで伸びている。この屋根が俺の秘密の隠れベランダになっている。
一人になりたい時は二階の東の窓から這い出して、ここにいることが多い。
西側にも窓はあるが、隣家の風呂場が生垣越えに見える為、隣家に配慮し年中ブラインドを下ろしている。
部屋に入ると、俺は気になっていることを早速質問した。
「何で、俺の部屋に来た?」
「青山太郎の調査」木でくくったような返事をする。
「何だ、それ?」
「あなた、太郎さんの事を兄みたいな存在だって言ったじゃない。親しいのでしょ」
「まあ、そうだけど…」
なんて答えるべきか整理できず、どこから、何を話すべきか…、を考え込んだ。
そうしている時、母のトントン階段を元気よく上がってくる足音が聞こえ、階段下から母の笑顔が現れた。
「電気くらいつけなさい。部屋はきれいにしている…」いつもの大声、いや、今日はご機嫌の様で声がいつもより1オクターブ高い声が俺達二人の会話に傍若無人に割り込んできた。
母は開け放したドアからズカズカ入ってくると、オレンジジュースのお盆を床に置き、騎座し、妖怪と目を合わせ、割烹着の裾を手で押さえ、好奇心一杯に、でも少し恥ずかし気に話しかける。母が照れている!何と!
「小泉さんのお父さんはひょっとしたら航太郎さんってお名前じゃ…?」
「そうです。父は慶康大学の小泉航太郎です。お母様の事は時々、父から伺っております。才色兼備、あこがれのマドンナだと…」
歯の浮くような驚きのセリフが妖怪の口から溢れると。
「そんなの昔話よ。青春の思い出。今はこんなおばちゃんになって…あら、恥かしい…」
母は頬を赤らめ両手で恥ずかし気にそれを覆う。俺には皆目見当がつかないが、これは恥じらう少女のしぐさだ。多分、母の気持ちは青春時代に戻っているのだろう。母は妖怪の妖術に完全に支配され、心を舞いあげられているに違いない。
危険だ。二十余年前の美少女に戻った母にこれ以上長居をされると、何をばらされるか、分らない。
飛びつかんばかりに妖怪と話したそうにしている幸太郎青年との青春時代に戻った母に向かって、
「母さん、料理中でしょ。大丈夫?おこげだらけは厭だよ」
と、現実の警報を投げつけた。
その言葉にフッと覚醒した母は
「あら嫌だ。煮物をしていたの…、」と、少女から現実のおばさんに戻った母は、妖怪の父の名前を確認できた成果を携え、元マドンナの蓄えた脂肪の質量たるやいかばかりかを実証するようにドタンバタンと、階段を鳴らせて台所に戻っていった。やはり、母は火を使う料理をしており、長居できないのだ。そして、妖怪の父親と青春の思い出を共有している…。
「ところで、青山先輩の調査って何をやるの?」
「何って、そうね、良き先輩の稽古法や調整法を学び、私なりに改良し実行する。そこに全国制覇の道が開けるの。目標は全日本選手権制覇よ」
「剣道やるのか?」
「いえ、私は駄目、奇跡を待つ方なの」
「じゃー誰がやるの?日本一になる稽古を…」
「それは…、今は言えない、時期が来たら話します。とにかく、あなたの持っている情報を頂くわ…」
仕方がないから、思いつくままに、子供のころの青山先輩と一緒に写っている写真があるアルバムや試合のビデオを提供した。妖怪は学校では見せない快活さと素早さで、それを調べ始めた。そして、それで満足して終わりと思っていた。
が、甘かった。
妖怪は、続いて、本棚、机の引き出しの中、部屋のあらゆるところを手当たり次第に開け放し、中身をひっくり返して何やら探している。俺の迷惑は全く考えていないみたいに…。いや、本当に彼女は、迷惑なんてことを、まったく考えていなかった。夢中になっている彼女には、俺の存在すら念頭になかったであろう…。
探索が進み、妖怪は遂に俺のパンツが入った箪笥まで開け始めた。それは困ると俺は妖怪の手を取り押さえ制止した。瞬間、妖怪は合気道の技みたいなのを繰り出し、俺の手を返し、腕を捻り固めると、壁に押し付け動けなくした俺を睨み、「隠し事はしない」と猛描の一喝。そして、手を放つと何事もなかったかのように、調査を再開しようとした。
そんな事をされては…、たまらないと、俺は思わず、箪笥の前に体を入れ、両手で引き出しを覆い隠した。実力行使だ。すると、妖怪はドンと俺を一突きし、ニヤリと笑い、
「大きな声を出すわよ。いいの!男と女が居るの。そしてここは密室。状況は理解できているわね!」と恫喝した。
致し方なかった。妖怪の好きなようにさせるしかなかった。役者が違った。
でも、俺は目の前で同級生の女子に自分のパンツをみられる屈辱に耐えられない。逃げ出した。
俺は、窓から渡り廊下のベークライト屋根の上に抜け出し、そこに体育座りして、茗荷畑になっている父が手入れする裏庭を眺めた。緑に茂った葉の根元の暗がりに薄桃色の小さな茗荷のつぼみが風の動きに見え隠れしている。この茗荷、学校にいる時の妖怪みたいだなと思った。同時に、困ったことに変な奴に取りつかれたものだとも…。
そんなことを考えていると心が落ち着いてきた。屋根の上を通る風が心地よい。
何でこんなことになったのか、これからどうなるのだろうなんて…、思いが巡り始めた。考えが纏まりそうな気がしてきた。俺の世界、別乾坤に入れた。
そんなことをしていると、突然、目から火が出た。痛さに頭を抱え、振り向くと窓から半身を突きだした妖怪が右手に持った竹刀を頭上に振りかざし、外人がやる様に左手を下から上に巻き上げながら、こちらに来いと手招きしていた。なんてことはない、自分の世界に入って、妖怪の呼びかけに答えない俺を振り向かせようと、部屋に置いていた素振り用の竹刀で俺の後頭部をしこたま打ちすえたのだ。乱暴な奴だ。
「基本調査は終わったわ。見込み通りの成果が得られたわ。これ借りて帰るね」
見ると俺のアルバムから青山先輩と俺の子供のころの写真を剥がしてヒラヒラさせた。
「無茶苦茶だな」
「小さな事は言わない」
妖怪は俺の部屋探索の戦利品を平然と鞄にしまいこむや、散らかした部屋をそのままに、さっさと階下に姿を消した。そして、非の打ちどころのない快活さで、
「お母様、有難うございました。失礼します」と挨拶し、つむじ風のごとく帰って行った。
・・・・・・・・・
それから二週間は静かな日々が過ぎた。英語の授業は相変わらず無視され続け、学校へはクラブ活動をする為に行っている。ブラウニングの「全てこの世は事も無し…」、なんて状態で、俺は妖怪の青山太郎研究も忘れさっていた。
そんな夕暮れ、またもや妖怪は部活を終えて家路をたどる俺を校門で待ち伏せしていた。
この前は背後霊の様に俺の後ろについてきたが、今日は正面からすっくと背筋を伸ばした姿勢で両手を広げ完全に通せんぼうをし、俺を立ち止まらせると重く垂らした前髪越しにピシリと言い放った。
「あなたはいつも一人だから誘いやすいわ。今日は私の家に招待いたします」
有無を言わさぬ命令口調で俺に宣言するとクルリと俺に背を向けた。付いてこいとの意思表示だ。俺は逆らいたいのだが…、敵う相手ではないことは思い知らされてはいるが…、一応抵抗してみようと、
「遠慮する。遅くなると母がうるさいので遠慮する」と逃げを打って見せた。
しかし、
「お母様には電話いたしました。許可を頂いております。貴方に少しお話を伺いたいのです。私には貴方が、後の予定がないことも調査済みで、分かっています。宜しいですね」、
ピシリと言い切られた。
丁寧だが押しつけがましい語勢と前髪越しの猛描視線に瞬殺された俺は気付いたらやはり、妖怪の要求通り、彼女の後をついてトボトボ歩いていた。
彼女の家への道は、俺の家とは反対方向であり、通った事のない道だった。お日様が作る妖怪の影はこの前とは逆に俺の前に伸び、俺を連行する拘束紐のようにアスファルトの路面をゆらゆら揺れた。俺はその黒影から逃れようと思うのだが…それは狙ったみたいに俺の足元に纏わりついた。
影に拘束されたように、三十分も歩いただろうか…、周囲は旧市街の古風な街並みかわり、そして大きな楠のあるお屋敷に突き当たった。それが妖怪の家だった。由緒ありそうな屋根瓦を持つ門の両脇には綺麗に整備された土塀が何と百mも続いている。
小さなくぐり門から入ると綺麗に刈り込まれた躑躅の生垣で囲まれた石畳が広がり、その向こうは日本庭園になっていた。池が見えた。近くに行って覗くと大きな錦鯉が入るに違いない。妖怪の住む伏魔殿にふさわしい様相だ。その庭で作業をしていた六十がらみの植木屋さんが妖怪を認めて嬉し気に声を掛けた。
「お嬢さん、お帰りなさい」
「玄さん、ただいま」右手を振りながら明るく淑やかに笑顔で応える。学校にいる妖怪とは全くの別人だ。
「愛想のいい植木屋さんだね」思わず、俺が言うと
「私が生まれる前から家で働いている玄おじさん」とこともなげに言う。
玄関に着く。開け放されており広い。上がり口からして高級料亭みたいだ。立派な一枚板の床が敷き詰められ赤光りしている。多分、ケヤキとか何とかという立派な木なのだろう。
靴を脱ごうとして、妖怪が俺の家に来た時を思い出し、失礼があってはいけないと、彼女を真似て
「お邪魔します」と大きな声で誰に対してと言う当てもなく挨拶した。
でも、その声は豪華な衝立の奥に吸い込まれただけで、どこからも返事がなかった。誰か出てきたらどう挨拶しようと心配していたが、空振りで気が抜けた。
そんな俺の様子を見て、妖怪は
「両親は今日、何かの授賞式に出席すると言っていたわ。誰もいないから気にしないで。」
言うとさっさと靴を脱ぎっぱなしにして、静かな家の奥にずんずん入って行った。俺は、独りぼっちにされては…困ると、急いで靴を脱ぎ、揃えて置くと、妖怪を見失わないようにと、玄関を駆け上がった。衝立の奥は広い廊下が奥まで続いており、その両側には立派な部屋がいくつも並んでいた。旧家らしく部屋の天井は高く欄間には花鳥風月だろうかよくわからないが兎に角、豪華な彫り物が、そしてその前には槍の類が掛けられている。畳の縁も金のラメみたいなのがキラリと光っていて立派だ。
日本建築の博物館なんてものがあれば、それはこんな雰囲気だろうと少ない知識で勝手に思った。
長い廊下を真っ直ぐ進むと、その突き当たりには中庭があり、縁側、いや回廊が庭を囲んでいた。妖怪はその縁側のガラス戸をスルリと開けると、その足元に揃えて置かれたスリッパの一つを履いて離れに続く渡り廊下に出た。
荘厳な母屋の床の冷たさを感じていた俺の足の裏は昼間の日射で熱くなった渡り廊下に出て驚いている。季節は既に初夏から盛夏に変わっているのを直に感じた。俺も、三つ並べられた右端のスリッパを履いて妖怪に続いた。妖怪は渡り廊下を突き進み、先にある離れの戸を開け、俺を導いた。
鹿脅しの音が聞こえるこの離れには、小さいながらも玄関があり、それに続くドアが…、それを開くと、その奥にはフローリングの十畳ほどの居間があった。
渡り廊下から見た外観の様子ではこの建屋には茶室がくっついているように見えたのだが、中に入ってみるとその様子はない。
部屋には中央に大きな机、壁際にインターネット等の情報機器、本棚、冷蔵庫など、簡単な生活なら十分にできると思われる備品が揃っている。シンプルで小綺麗でテレビに出てくる少しリッチなOLの部屋の雰囲気だ。
しかし、何だか冷たい、他人を排除する、そんな違和感を持った。見回す部屋の中は整理整頓し尽くされ、これでもかと目を凝らしても塵一つ見つけられない。そうだ、この前、社会科見学で行った、電子部品の原料である半導体の開発現場のクリーンルーム、あそこの雰囲気だ。
その視点で、部屋を見直すと、年頃の女の子の部屋にあるといわれているアイドルの写真やポスターの類はない。ぬいぐるみもない。見えるのは超合理的な空間とパソコン、プリンターの機器類。殺風景なはずだ。
でも、そうはっきり言うのも何だから、俺は「凄くきれいだね」って言って沈黙を逃れた。
「そう、普通よ」と事もなげに返事されたので、今度は質問調に
「お茶室だと思ったけど、違うね」と最初に思った疑問を口にした。
「元はね。これはお茶室だったの。それを、おばあちゃんと私のお城にしたの」と、珍しく、しんみりした声で応えた。
「おばあちゃんは?」
「小学五年生の時に亡くなったの。それから五年、一人でここにいる。貴方、お茶室に興味があるの?」そう言うと、俺をチラと見て、部屋の隅に目を移した。
その一角には板障子があった。妖怪は何も言わずにそこに行き、蹲ると障子戸引手に手をかけ、やっと人一人通れるくらいの入り口を開け、中に入って行った。調子に乗って変な質問をしてしまったかな?と俺は反省をしたが、どうすることもできず、部屋の入口にボサッと突っ立って、何事が起こるのかと恐る恐る眺めていた。と、板障子の向こうからヌッと出た白い妖怪の手が波打ってこっちへ来いと合図した。従うしかない。俺も腹ばいになってその小さな入り口に向かって、隙間に忍び込む猫の様に、背を屈め背を伸ばし大きな体をにじりこませた。
中に入ると頬っぺたが空気のヒンヤリを、畳の冷たさを掌と膝小僧が感じ取った。顔を上げ見回すと、そこは間違いなく茶室だった。
「この入口は、おばあちゃんが私のために作ってくれたの。本当の入り口は向こうよ」
指さす方を見るとにじり口が見える。茶室の中央には炉が切ってあり、縁側からの採光を土塀で遮り、突き上げ窓が設えられている。立派な構えだ。
でも、ここは妖怪の部屋とは逆に、妙に雑然としており、茶室本来の閑静さを感じない。
薄暗がりに目を凝らし透かしみると、何だか書籍の類が並べられているようだ。
「ここは、今、物置なの?」四つん這いのまま、問うと、
「そう、おばあちゃんが亡くなってから私が資料倉庫に使っているの」そう答えて、妖怪が正規のにじり口のそばにある電灯のスイッチに体を伸ばし明かりを点ける。光の下で異様な雰囲気を醸し出している物の正体が現れた。
本箱と積み上げられた雑誌が山をなしていた。見えている背表紙から推しはかると全て剣道雑誌である。
俺は物心ついてから、女の子の部屋に入るのは初めてだった。彼女の部屋は、冷たいくらいに整理整頓された居住空間であり、その無駄のなさに少し驚いた。
そして、それには隣接する茶室があり、そこは書庫として剣道雑誌が保管されている。空間の歪み、いや妖怪の変な熱量の発散に圧倒され俺は眩暈を覚えた。
机の下のボディービル雑誌といい、妖怪の二面性、いや多面性を、俺は到底理解できないと思った。
「お茶室としては使わないの、立派なのに…。」と質問をすると、
「お茶が飲みたいの?好きなら一服、立てましょうか?おばあちゃんのお茶が残っていたと思うから…ここにあったはず…、おばあちゃんのお茶…」、と俺の意図とは違う、頓珍漢な事を言いながら、妖怪は埃が積もった茶器に手を伸ばした。
「いや、結構、いいよ、いい。結構です」と急いで、言葉を重ねて丁寧にお断りした。
「ここは開けて空気の入れ替えをしないの?重いんだけど、空気が…」
「開けない」
「ここによくいるの?」
「うん、落ち着くから…、おばあちゃんの匂いがするの」
狭く澱んだ空気の茶室に佇み、前髪越しに俯いて雑誌をむさぼり読んでいる妖怪の姿がまざまざと眼に浮かんだ。その顔は何故かこの世のものと思えぬほど異常に白かったので想像とはいえギョッとした。そんな妄想からふと我に戻ると、茶を点てるのを止した妖怪がリビングに続く入り口の前に胡坐している俺の方にゆっくりと首を伸ばし四つん這いで迫ってきた。ビクッとして思わず身を引いて後ろ手をついた。男の俺がこの密室で仰向けに押し倒されるのか?!と半分驚き、半分期待して斜め座りに身を構えると
「そこどいてくれる。私、着替えてくるから。覗いちゃだめよ」と人を刎ね飛ばす猛描の視線で俺を横に除け、脇をするりとすり抜けてリビングに身を入れ、足を抜くと俺を残して後ろ手で拒絶するようにぴしゃりと戸を閉めた。
間もなく隣室での着替えの衣擦れの音がし、それが止んだ。
「戻ってきて」といつもの冷めた命令口調の声が隣室から響いてきた。
入ってきた小さい板障子から明るい居間に顔を出す。そこから見ると部屋は広く、そして眩しい明るさで包まれていた。いやそれよりも、その中に俺の目を射て輝く者を見た。両手を腰にとり、板障子の入口を見下すように立っている妖怪は濃紺のTシャツとRowingという文字が太ももから膝にあたる部分にプリントされた超ダボダボのスウェットパンツに着替えていた。長い前髪はカチューシャで後方に流し、耳をくっきり出して、その先で髪を二つに分け、緑のゴム輪で止めていた。初めて正面から見る前髪をあげた彼女の顔は白く透き通り頬は薄桃色に輝き、腕はすらりと長かった。足の長さは高いウエスト位置から容易に推定できた。ファッション雑誌のモデルも逃げ出す美しい容姿だった。
「そこに座って」
命令され指さされた椅子に座ると、妖怪は作りつけの食器棚からコップを、冷蔵庫から飲み物数種を手早く取り出して、テーブルに並べた。
「飲み物、何がいい?」
「コーラ」ほかの単語が出てこない。言えるのはコーラだけだった。
妖怪の美しさに呆気にとられ、唖然とし、上手く言葉を発せない俺。妖怪は、この時点で、俺を完全に支配していた。
「招待に応じて下さって、有難う。家に来て頂いたのは、特別なお願いをしたくって…」
と言いながら、手にしたコーラを入れたコップを俺の前のテーブルにそっと置くと、視線を俺の胸元に移し、真っ直ぐに一歩近寄った。そして、俺の右肩に右手を乗せ、それを支点として静かに半周するようにして俺の背後に回り込んだ。
「姿勢正しく、真っ直ぐに座ってね。でね…、」
右耳の後ろから声と一緒に温かい呼気が俺の耳朶を撫ぜた。俺は思わずビクンと背筋を伸ばし、目を瞑った。妖怪は俺の両肩に手を置くと親指と人差し指で俺の両肩をつまみ、それから掌底でゆっくりと撫で始めた。
妖怪の指先が、手のひらが、俺の体をぬるぬると移動した。その刺激で肌に今まで感じたことのない感覚が…、身震いするような気持の良さが…、腰砕けになりそうになった。すでに、股間ははちきれんばかりに屹立し、痛いほどだ。恥ずかしい。じっと座っていると俺の体の高ぶり異変をズボンの変形で妖怪に気付かれそうで、思わず腰を少し上げうねらせ体の異変を隠す姿勢を工夫した。そして俺は覚悟した。喜んで妖怪の餌食になることを。
と思ったら、突然、冷たい金尺を頬にあてられた。
「思った通りの筋肉のつき方ね。いいわ。私に身長を合わす必要は無いの。次は、しっかり背筋を伸ばしてここに立ってくれる」と、壁を背にした場所に踵を付け足は四五度に開いた姿勢で立つように指示された。マズイ。今、椅子から立ち上がると俺の興奮が…気付かれてしまう。何とか、時間稼ぎを…、と破れかぶれで質問してみた。
「真直ぐに背筋を伸ばして?」
「そう、体のサイズを計測するの」
「僕の?何で?」
「日本一の稽古をするためよ」
「誰がするの?」
「あなたよ」
「俺が?俺が?日本一の…?」
トンデモナイ話である。
でも、そんなこんなで、頭と感情が落ち着た。同時に、俺のいきり立っていた息子も時間経過とともに大人しくなり、テントも目立たなくなったので、そっと立ち上がり、胸を張って直立した。
妖怪は、俺のそんな苦労も知らず、俺の両肩に腕を伸ばすと、ぶら下がるように体を寄せ、夢中になって俺の体の採寸を続ける。
「あなたの部屋に、お邪魔した時に話したでしょ。青山太郎を倒せる人物を探しているって」
「そうとは言ってなかったよ。でも、青山先輩を研究しているとは聞いた覚えがある」
「それよ、あなたに借りた写真から、太郎さんとあなたの体の成長を比較したの。筋肉の質、骨格の形、剣道をする体に関すること全てにおいて…太郎さんのデータも素晴らしい。だけど、あなたはそれをはるかに凌駕しているの」
ご機嫌に綺麗に澄んだ目が俺の視線を跳ね飛ばし突き刺さってきた。
「だから、今、素材を確認し、次の実施事項の立案をするデータを収集しているの。これで戦略は立った…」と勝手なことを、当たり前のようにサラリと言った。
「大学剣道界の星と言われ、今をときめく青山先輩を凌駕する?そんな奴がそうそう居るわけない」
「それが居るのよ。あなたの親友、秀才の相良君も言っているじゃない。自分の価値を知らない逸材が…、ここに…」
そう言いながら妖怪は再び、俺の正面に背伸びして立ちメジャーを俺の耳に押し当て腰骨までの寸法を測ろうとし、バランスを崩し、少しよろけた。計測に失敗した妖怪は、今度は、俺の目をまっすぐに見つめて俺の左肩に手をかけると自分の体を引き上げるため、体重をそこに預け、自分の上半身をそのまま俺に押し当ててきた。
「何だ、まさか…、俺?俺は駄目だよ」
妖怪の迫力、いや妖力に圧倒され、腰抜になった俺は後ずさりした。でも、すぐ後ろは壁、女版壁ドン状態に俺は追い詰められた。
そんな俺に構わず、妖怪は更に背伸びをすると右手のメジャーを俺の胸に押し当てて俺の体の計測を続けた。
完全なる勘違い。犯されるんじゃなかった。体の寸法計測だ。多分、ボディービル雑誌もこの計測に関係しているのだろう。
でも、その計測行動は乱暴で、妖怪の無遠慮な手や肘、そしてスウェットで包まれた太腿が俺の下腹部に、更には可愛く膨らんだ柔らかい胸が俺の体の下から上にのし上がって来て…、
ピッタリ体を寄せてくる美しい妖怪からはとっても良い匂いが…。
そう思った時だ。妖怪が、突然、パッと後ろに飛び退くと
「いやらしい、私はそんな女じゃありません」と耳朶をピンクに染め、目を三角に釣りあげて頭突きをせんばかりに上目遣いで怒り始めた。
俺の息子が五感を揺すぶる気持ち良さに思わず立ち上がり、妖怪の体のどこかに接触したのだ。息子も妖怪も勝手者だ。その勝手者同士がぶつかったから俺が悪者になる…。俺は悪くない。
「男って、イヤラシイ」
汚いものを見るように妖怪は言い放った。
俺は、妖怪の突然の豹変に言葉は出なかったが、何か言わねばと無理やりに声を出した。
「これは…、俺の本心じゃない」
「じゃ、何なの?」
ポツンと言葉が出た。
「本能」本音だ。
妖怪はその言葉を聞くと足元を見て黙り込んだ。そして徐に顔を上げキッと俺を見据え、
「それの真偽は課題として今後の確認事項とします。プログラムしておきますからそのつもりで行動して」
そう言うと、俺に背を向けてパソコンに今計測した数値をデータとして猛烈な指遣いで入力し始めた。
拉致に近い形で、俺を連れ込んで、圧し掛かるような体勢で体のサイズを測り、変態扱いした後、挙句の果てに一方的な物言いをしてパソコンに向かう。勝手な奴。腹が立つ。
でも、超美人だ。どこかで、少し嬉しく、喜んでいる俺がいる。俺だけが知っている妖怪の素顔。じっと見つめていたい気もする。が、それをすると何を言われるか…。でも、思わずパソコンに向かっている妖怪のほつれ毛のある白い項を見つめてしまう…。マズイ。自制できない。ヤバい。理性崩壊する前にどこかに逃げよう。緊急避難だ。
茶室に忍んで剣道雑誌を見ることにした。
・・・・・・・
よく見ると雑誌は整理整頓されていた。出版社別にそして年代順に並べられていた。驚くことに各誌、ほぼ初刊からある。雑誌だけでない。どこから手に入れたものか、剣豪、剣聖と称される中山博道、持田盛次らの著作も多くある。さながら剣道図書館だ。
資料の雑誌にはポストイットが貼り付けられ、データNO.記録日時等が記されている。青山太郎関連の記事には共通して青色の太幅ポストイットが付けられ、そこを開くと太郎先輩が笑ったり、青眼に構えたり、面を打ったりしている。
写真にはL1,L2…と記号が付けられ、それに相当すると思われる線分が定規で引かれている。体格を計測しているに違いない。
ポストイットは人物別だけでなく技術別にも貼付されており、細幅のポストイットが面技は赤、小手技は白、胴技はグレー、そして、小手面の連続技は赤白と一目でわかるように整理されている。
凄い。大学のスポーツ科学科等ではスポーツの力学的解析をしているらしいが…、同様の解析をしているのだろうか?この資料の様子を見ると多分そうなのだろう。
夢中になって、本棚探検をしていたら、耳の後ろにフッと生暖かい息を吹きかけられ、背筋がビクッと緊張した。
「変態さん。データの収集と入力は完成しました。今日の目的は達成です。熱心に私の資料を見ていたようだけど、何か質問がありますか?」
「凄いデータだね。君がまとめているの?どうして?」
「どうしてって?理由を聞いているの?さっき言ったでしょ。それは日本一の剣士を育て、その方と結婚するためです」
何だって!凄さを通り越して猟奇的だ!凄く美人の高校一年生の女子が、結婚するために剣士を育てる。その為に専門家顔負けの研究をしている。不気味さが俺を襲った。
「いや、その、何で、話が唐突にそこまで飛ぶの?」
「おばあちゃんの意思、いや、遺言、違いますそんなものじゃなく小泉家の執念と解釈してもらった方が分かりやすいでしょう」
「遺言?執念?」
間抜けにも、俺は思わず反芻した。何ともおどろおどろしい言葉を吐く女だ…、妖怪という渾名にはピッタリだが、全く理解できない。
戸惑う俺を小心者とあざける様なシラッとした目で眺めながら、妖怪は続けた
「歴代、小泉家は学者の家系で知性では京都の小川家と日本の双璧と言われているの。日本初のノーベル賞受賞者の湯川秀樹博士は小川家の出身です。知っていると思いますが…」
「うん、医者で金持ちの湯川家に養子に行って研究費を確保したとか聞いたように思うけど…」
「知っているのね。少し情報が不正確でお金の方に歪んでいるきらいはあるけれど…」
「ところで、武道でも小泉家は小泉流宗家として、これまた京都の武徳会と双璧をなしていたの。でも、明治以降、武徳会の流れからは何人もの全日本選手権者が出ました。一方、小泉流からは一人も出ていない。それどころか、衰退の一方。これが、おばあちゃんの無念なところ。その思いを私は引き継いでいるの」
「エーッ。何で、そんな事に意固地になるの?」
「意固地じゃないわ。文武両道、文武不岐よ。」俺が理解できないことに、憤慨して妖怪は声を荒げる。
でも、こんな事、頭ごなしに決めつけられ、こんな話、一方的に押しつけられても、納得できる人はそんなにいないだろう。俺にはさっぱりだ。奇妙な理屈や怨念で俺を部屋に引き込むのは狂気としか思えない。危ない奴に引っかかったと、何だかわからない恐怖が沸き上がり、そして、本音が出た。
「俺には分からない。君の言っていること…。帰る。俺が変な事をしたって騒がないでくれ」と入口のドアに向かった。
この伏魔殿から一刻も早く退散しよう。頭の中はそれで一杯。俺は妖怪の美しさにフラフラしたが、と言っても、魂を抜かれては堪らない。
「いいわ、今日は帰っていい…。でも、必要な時には来てね。」妖怪の言葉が背後から俺を追ってきた。
最後の「ね。」が極端に色っぽく、それが逃げようとする俺の足を拘束した。思わず腰砕けになった。同時に不覚にも俺の股間はテントを広げてしまった。
拙い、股間が張って恥かしい。立っていられない。でも、逃げださねば。股間の張りを隠すために四つん這いになりドアに向かって進もうする俺に次の言葉が襲いかかった。
「あ、一つだけ教えて。これはデータにするの、客観的に答えてよ。青山太郎選手って、試合前の様子はどうだった?あなたと比べて」
本能の緊張が収める時間稼ぎをしながら四つん這いから騎座の姿勢になり、背中越しに答えた。
「太郎先輩は試合前、何時もお腹をこわし、トイレに行っていた。集中力が凄くって内臓に血液が行かなくなるからだって、先生が言っていたよ」
「分かったわ。全てわかった。帰っていいわ。あなたって簡単ね」
ペットを扱うように妖怪から放たれた言葉が俺の心を小突いて、突き飛ばした。
俺は妖怪に完全にコントロールされている。本能まで弄ばれている。
このまま支配されてしまうのかという恐ろしい気持ちと、もの凄い美人に支配され昇天する快感がゴチャゴチャニ絡み合っているのが判る。どうすればいいんだ。とにかく、今は一旦、ここを逃げ出そう。俺はつま先立ちの中腰になり、白い金色のノブが付いたドアに向かって突き進んだ。
後ろから面(2)
小学校三年の夏休み、俺は電車で二駅の距離にある隣町の少年サッカークラブの練習に毎日通っていた。この地域では“能力優先、勝利にこだわる県下でも有名な強豪クラブだった。
母がこのクラブに俺を入団させたのは、俺の引っ込み思案で自己主張の弱さだ。
俺は学校生活において、リーダーシップを取りたがる乱暴者の簡単な暴力に屈し、それをそのまま受けいれ、仲間外れにされるところがある。つまりいじめられやすい性格だ。担任教師はそれに気づいており、父兄面談の際に「彼は知力、運動能力は抜群で、優しい気性の良いお子さんです。しかし能力の割に自己主張が少なく、友達作りも積極的ではありません。彼より能力の劣る自己主張の強い子にとって彼は、目の上の瘤です。私の心配するのはそんな子による武志君へのイジメです。彼は標的にされかねません。私も気を付けて指導いたしておりますが、ご家庭でも武志君に友達作り、社会性を向上させる地域クラブ参加等のご配慮いただけるとありがたいのですが…」この指摘に対し母は、俺を鍛えようと小学校二年生の時からガツガツした競争雰囲気のあるこのクラブに入部させたのだ。サッカークラブなら監督、コーチがいて全体を統制する。社会性を必要とするチームプレーであるから指導者は、メンバー個々の主義主張を聞き、それを調整しチームとして最大成果である勝利を得るための個人と全体のトレーニング指導をしてくれるであろう。そうすれば、俺の主張の不足や社会性に関する問題点が解決されると、考えたのだ。
評判通り、クラブ内の競争は厳しかった。実力主義であった。学年を抜きにしてレギュラー、二軍、そして“その他”に分けられた。
その中で、同年代の少年に比べ体が大きく、足も速かった俺はコーチの目に留まり、入部当初の三か月こそ低学年の“その他”に配されたが、次の三か月で二軍、それから半年後には一軍二五名の枠に入り、レギュラーポジションを争う位置まで昇格していった。
練習は苦しくきつかった。でも、俺はコーチに教えられたキック、トラップ、パスの基本は勿論、戦力と役立つ相手守備陣の裏を取る全体プレー等の指導を忠実に学び、懸命に頑張った。いかなる状況においても、一切の手抜きなぞしなかった。いや、単純な俺はそんな事を思いつくことさえなかった。無我夢中でプレーした。その姿がコーチを喜ばせた。そして一年たった三年生の春、俺は特待生として高学年部に編入された。異例の昇格であり、特別扱いだ。
そこにはチームの絶対的エース、六年生の青山太郎先輩がいた。体格はさほど大きくはないが、その卓越したスピードと豹を想わせるしなやかさ、バランスの良さ、それに加えて優れたキャプテンシーで信頼されるチーム不動の司令塔だった。
青山先輩も俺を可愛がってくれた。俺の足元の柔らかさと直線的な突破力を理解し、機を見て俺が全力でゴールに駆け込むその先、丁度上手く追いつける相手ディフェンスの裏に絶妙のパスを出してくれた。お陰で俺は三年生ながらコンスタントに得点できる一軍チームのフォワードに急成長していった。
そんなある日、ジュニアカップ県大会を目指した特別練習でくたくたになっての帰り道の事だ。いつものように電車を降りた俺は、駅前通りにある肉屋が揚げる名物トンカツの香ばしいにおいを嗅ぎながら疲れ切った体を引きずり、家路である公園通りに入った。大通りから一歩入ったこの通りは駅前の雑踏から離れ静かだ。夕飯の準備を急ぐまな板の音が聞こえる。その薄暗がりの中から俺を呼びとめる声がした。
「安田、こっちへ来い。話がある」
えっと思い、振り返り、立ち止まると、サッカークラブの六年生三人が木陰から現れると俺を取り囲んで体を寄せてきた。
リーダー格の少年が
「通行の邪魔になるから、こっちで話そう」
とサッと右手を伸ばすと親指と人差し指で俺の左耳朶をつまみ、俺を公園のプラタナスの木陰に引き込んだ。運動靴の底が昼間の日差しで乾燥しざらついた砂を踏みしめた。夕暮れ時で人通りがない。白い光を静かに放つ水銀灯がぼんやりと灯り始め、その光が照らすブランコとジャングルジムの黒い影が俺達を囲み始めていた。
拙い。耳を掴まれた時、奴のその手を振り払っても俺は逃げるべきだった。悔やんだ。ノコノコとついてきた自分の馬鹿さを思わず呪った。が、手遅れだ。
今日の練習試合でボールを持っていない俺の背後から体当たりしたり、足にキックを加えたりの反則プレーを仕掛けてきた二軍の三人だ。目的は俺を怪我させることだと感じていたが…、
正面の一人は控えのフォワードで名前は土屋、俺が入るまでレギュラーだった少年だ。親がチームの保護者会代表をしている。後の二人は土屋の取り巻きだ。俺は逃げる隙を見つけようと周囲に気を払いながら
「何ですか?早く帰らないと母が心配します」と上目遣いで恐る恐る問うと、土屋は
「話は簡単だよ。少し怪我をして休んでいてもらいたい。コーチのお気に入りさん」
「何の事ですか?」
「お前がいると、チームが弱くなる。だから休んでくれと言っているの」と俺を肩で押し肘で小突きながら言う。
「先輩、チームの事は監督、コーチに言って下さい」
「馬鹿な監督、腑抜けのコーチじゃダメだ。彼等はサッカーが分かっていない、役立たず。チームを強くするための俺たちが親切に忠告してあげている。この馬鹿野郎!」
と、唐突に、左手を振り上げ俺の脳天を拳骨で派手にポカンと殴った。
「僕は監督コーチの指示に従って頑張っているだけです。今のポジションも監督コーチに指示されたもので僕が口を出せる事ではありません」
腹を決めて土屋に向かって正面を向いて言葉を吐くと
「御託はいいよ。今日も俺たちが自然な形で休ませてあげようと試合中に色んな事をしてあげたのに、お前は小賢しくすり抜けたよな。だから、電車賃まで遣って、わざわざ出張してきてあげた。確実に休ませてあげるよ」
周りの家に明りが灯り始め、俺を取り囲む彼らの背後の水銀灯も明さを増した。影が深くなった。光を背後にした彼らの表情はよく見えないが、薄ら笑いしているのが感じ取れた。
正面の土屋が顎をしゃくった。それを合図に俺の右側に立っていた取り巻きが俺の腹を力一杯殴って来た。
俺はとっさに体を左にかわし、俯きながら肘でそのこぶしを体左下に叩き落とした。でも、次の瞬間、俺の屈んだ体勢を待っていたかのように土屋の膝が俺の水月に食い込んだ。目の前が真っ暗になり息が詰まってそのまま膝からうつ伏せで地面に崩れ落ちた。
このままやられてしまうのか…、俺は頭を抱え地面にうずくまり、肘で顔をガードしながら体に力を込めて防御の姿勢を取った。昼の日差しのぬくもりが残る乾いた土のにおいが頬を覆う。直ぐに蹴りが来るだろう。そう思ってさらに腹筋を固くし、脇をしめた。が、この予測行動は杞憂に終わった。
伏せの姿勢を取る俺の耳元で、靴がグラウンドを蹴り、砂が擦れる音に混じって、ドカ、ボコという争う音、ウッと言う呻き声、ドカリと人の倒れる振動が連続して起こり、地面に伏せた俺の両耳、頬を揺らせ、やがて静かになった。
何が起こったのか…と、恐々、亀が引っ込めていた首を出すようにソオーッと顔を上げ、周囲を見回すと、目に入ってきたのは土下座している土屋達三人だ。その正面には青山先輩が両手を腰に三人を見下ろしていた。
顔を上げた俺に気付いた青山先輩は
「安田、大丈夫か?」と、声を掛けてくれた。
「ハイ」と先輩を見上げた。同時にホッとして、涙があふれてきた。
「悪かったな。手を出す前に止めに入ると、言い逃れする。こいつらは陰湿だから…。暴力を振るうのを確認してからと思って…、痛かったろう。申し訳ない」
そして、吐き捨てるように土屋達に言った。
「サッカーの勝負はグラウンドでしろ。一人の三年生を六年生三人で襲うなんて、恥を知れ。この事は監督、コーチには言わない。でも、二度とこんな事はするな!分かったら、帰れ!」
奴らは恨みがましい目をしながら、立ち上がると、いそいそと逃げて行った。
「先輩、有難うございます。助けて下さって…」
「いや、今日も君に対して奴らは危険なラフプレーを仕掛けていた。それを注意しようと練習後に彼らを訪ねて行くと、君を襲う計画を立てているところに出くわした。そこで、そっと、奴らの後をつけていたら、このザマだ」
「そうですか」
「でも、無事で良かった。武志君、君は凄いフォワードになれる。これからも頑張ろう。奴らの事は気にするな」
「ハイ」
俺は襲撃された恐怖より、青山先輩のかっこよさに感動して家に帰った。
しかし、事はこれで終わらなかった。
翌日、俺を襲撃し取り囲んで左側にいた六年生の親が土屋の親と結託して監督に暴力事件があったとねじ込んだ。彼は、自分の息子は理由もなく青山先輩に殴られ怪我をした。土屋がそれを目撃していたと監督とコーチに強く訴えた。親たちは子供のウソをまるっきり信じて、それを教育的観点から、社会通念から、地域クラブの在り方からと多方面の観点からクラブに対して正義を強く主張した。親馬鹿だ。子供に騙された愚かな親たちの言い掛かりだ。
そのねじ込みに監督コーチは青山先輩と俺を監督室に呼び、事実確認をした。呼ばれた青山先輩と俺は、ありのままを正直に説明した。その説明は聞き取ってもらえた。監督コーチの同意も得られたと思う。監督、コーチも薄々には土屋達の俺に対するラフプレー等に気付いていたそうだ。そして、何らかの事故発生の恐れも感じていたようだが、明確に土屋たちに注意する証拠がなく手を出せずにいたそうだ。これが真実だ。でも、実際に起こった事実は、こうだ。
今回も土屋たちの悪事を証明する証拠がなかった。それどころか、真実の説明を受けた相手方はクラブ側の調査結果の反証として、証拠を提出してきた。証拠として提出された書類は俺を襲った六年生の医者をしている父親が書いた“息子の口の中が切れているという診断書”だった。傷の原因になったとされる青山先輩が殴った事は先輩が正直に認めている。でも、俺は頭を殴られ、腹を蹴られたが証拠になるものは無い。傷がない。医者に掛かっていないのだから、当然、診断書もない。
殴りかかってきた右側の六年生は拳を挙げたが、俺に防御され、その拳は俺に傷を残していないのだから俺を殴った証拠はなく、当然の様に彼は、攻撃した事を否定し、傍観者の立場を取っている。土屋に至っては俺に加えた膝蹴りを、俺が土屋に体当たりを仕掛け、それを土屋が躱した際、勢い余った俺が倒れ込み、土屋の膝に当たったのだと主張する。
茶番だが、こんなすったもんだの揚句、襲われた俺と、それを助けた青山先輩が暴力事件の加害者、つまり悪者に仕立て上げられた。
纏めると、話はこんな風に作られた。
練習試合の最中に土屋のプレーに逆上した俺が、試合後、監督、コーチの目の届かない隙を狙って怒りに任せて、無分別にも仲間二人と談笑している土屋の背後から襲いかかった。その時、土屋が防御のために体を開き、とっさの判断で上げた膝が俺の水月に食い込んで俺が倒れた。
その様子を遠目から見ていた青山先輩が、土屋たち三人が俺に集団暴行を加えているものと見間違えた。勘違いした青山先輩は、土屋に交わされ倒れた俺を介護しようと駆け寄った善意の六年生の先輩を、集団暴行の襲撃者の一員と、殴ってしまった。
無茶苦茶な話だ。納得のできるものではない。でも、監督、コーチは「この事実を認めなければマスコミに発表する」との脅しをかける保護者には逆らえず、それを事実として認めてしまった。事件を明らかにしては大会出場を辞退しなければいけない。裁判をしても証拠能力で俺たちの正義が保証されるものではないという馬鹿げた理由で…。
俺はレギュラーを外され、監督から「形式的だよ」との言葉はあったが、罰として下級生クラスに戻すといわれた。この判断に耐えきれない俺は、クラブをやめる事にした。それを聞いた青山先輩もクラブをやめた。強い慰留を断って、「正義のないクラブにはいられません。」と…。
それからだ、俺と青山先輩が剣道を始めたのは…
青山先輩の父親である新之助先生が自宅近くにある聖心館道場の石垣自斉先生を師と仰ぎ剣道をしていた。
その新之助先生が、サッカー事件の事情を知り、今回のことで憤慨し腐っている太郎先輩と俺を道場に誘った。
古びた瓦葺の道場は入口が幅十mくらいの土間に、黒光りする板床が一段上がって続いていた。
正面の奥まった所には、神棚が設けられており、榊が飾られている。その手前が師範席で畳が敷かれ隅に大きな和太鼓がおかれている。道場の広さは八十畳くらいとかなり大きく、壁には門下生の名前が段位別に掛けられており、その数は百名余り。
新之助先生の名札は道場主で師範でもある自斉先生の隣、七段のところの筆頭に指導教頭と記され掛っていた。
俺が物珍しげに道場の様子を見まわしている間にも、門下生が続々と入ってくる。皆、判で押したようにキビキビとし、同じ行動をする。
先ず、入り口で「お願いします」と踵をそろえ直立し、大きな声を出し道場に向かって一礼する。
礼の角度は上半身前傾三十度。上がり口で脱いだ履物は騎座の姿勢を取り右手でつま先を前に綺麗に列に揃え並べる。
それが終わると道場に入り左足から膝を居り座し(左座)、作法に則り正座すると防具の着装、それを終えると、右足から立ち上がり(右起)、アキレス腱伸ばし等の準備運動を個々にお喋りせずに黙々と始める。
全く無駄がない。俺と同い年くらいの少年も当たり前のように稽古前の準備をしている。やはり、武道は違う、と感心した。
その時、俺は、フッと視線を感じ、その方に目を移した。
道場の右手隅の入り口から背筋のシュッと伸びたおじいさんと、冬の陽だまり思い浮かぶ暖かいふんわりとしたおばあさんが仲良く二人並んでのんびりと入ってきていた。そして、二人は、こちらに向けてにこやかに笑いかけた。近くに来るとおじいさんは俺から新之助先生に視線を移し、嬉しそうに声を掛けた。
「新さん、勘のいい子を連れて来たね」
白い道着の胸元にはあばら骨が浮き出して見えるおじいさんは右手に子供用三尺六寸の竹刀を持っていた。俺は何だかワクワクした。楽しい事が起こりそうな、春風みたいな雰囲気をしたおじいさんだった。
勘のいい子って誰の事?俺、それとも太郎さん?何の勘?おじいさんの視線に気づいたから…?
「剣道をやるかい?」俺達に向けられた言葉の後ろで人懐っこく目の奥が笑っていた。
「剣道はいいよ」老人は、シュッとした背筋を更にピンと伸ばし、
「待っていたよ。」と、先ず太郎さんに声を掛け、
「凄い後輩も一緒だね」と言いながら、俺に向きなおると竹刀を持っていない左手で俺の肩を抱いた。そして、俺を自分の正面に向きなおらせると、正面から俺の目をしっかり見つめ、
「竹刀をあげよう。もってこなかったでしょ。今日稽古するのには必要だから」
おじいさんは右手の竹刀を俺の目の高さまでさし上げると水平にして俺の胸元に突き出した。
訳の分からぬまま、俺は思わず両手を胸元に揃え、少し頭を下げ、その竹刀を押し頂いた。
その様子を見ていた、新之助先生が笑顔で
「先生、有難うございます」と挨拶したので俺も、何が何だか分からないまま、つられて
「有難うございます」とお礼を言った。
筆頭教師新之助先生が先生と言っているからには、このおじいさんが師範で道場主に石垣自斉先生なのだろう。どうも、俺は入門したようだ。そう思った。
師範は
「頑張りなさい」と微笑むと俺から数歩下がって距離を取り、俺の姿を眺めなおす。そして、再びサッと寄ってきて、俺の肩、腕、腰、足と上から下までマッサージするように両手でチェックすると嬉しそうにつぶやいた。
「剣道をする為に生れて来たような体だ。勘も良い。君には天恵がある」
こう言われても俺には言葉が無い。
何か言うべきなのか、黙っていていいのか…、さっぱりわからないので俺は仕方なく両手で持った竹刀を見つめた。手元の銘が春陽になっていた。
こんなに褒められるなんて…、天恵ってよく分からないが、最高のほめ言葉である事は感じ取れた。
「サッカーを止めたのは天恵だな」また、天恵という言葉を使った。ラッキーとでも言っているのだろうか?
そして、唐突に
「では、少し振ってみよう」
言うと俺の左手小指を柄革の柄尻に半分だけ押し当て(半掛けし)左手薬指で竹刀を抑えさせ、右手を鍔元の位置で、自分の両手で、俺の両手を包み込むようにして握らせた。
「これが、竹刀の握り方だよ。卵を持つように柔らかく」と、握らせて、手の形を整えると、おじいさんは竹刀の中締めの当たりを持ち、俺の肩を中心に竹刀を最初に構えたままの腕の形をそのままに、俺の左手をおでこの前上に来るまで振り上げさせ、胸を張らせ、
「竹刀を前方に投げ出すつもりで自分の顔の高さにある相手の面を想像し、そこに打ち込みなさい」と指示した。
俺は、言われた通りに、放り出すような感じって、サッカーのスローインと同じかな?と迷いながら、俺の頭の高さにあると想像した相手の頭に向かって竹刀を振り降ろした。
「よし!良いよ。では、次は、打ち降ろす時に面と気合を入れなさい」続いて注文が出た。
俺は「面」と声を出して同じ動作を行った。その様子を見た途端に、
「よし!打て」、おじいさんからは想像もつかない、裂ぱくの気合が俺を襲い動かした。
気合に応えようと俺は夢中になった。振る度に、竹刀の勢いで俺の体は前に出る。
「打て」の号令が続く。「面」と発声し俺もそれに従う。
十数回続いた。気付くと道場の上座から下座まで俺は移動していた。後で聞いたのだが、俺のやったのは前進面打ちと言う稽古だった。
「よし」
その声を聴いて、ホッと息をつく。ふと見ると、おばあさんが頭の上で万歳するようにぱちぱち両手を打ち鳴らし、笑顔満面で拍手した。それをきっかけに俺を取り囲み、面打ちを見ていた道場生から拍手が沸き起こった。
気付くと道場中の人が俺と師範を取り囲んでいた。皆、笑顔で、凄い、凄い、と拍手していた。おばあさんは万歳を止めて一歩離れて、小春日和のお日様の様に優しい顔でその様子を見ていた。
何だかよく分からないが俺は凄いらしい。
その後、何の騒ぎもなかったように稽古が始まり、太郎先輩と俺は初心者クラスで稽古した。太郎先輩は小さい頃、新之助先生に連れられ道場に来ていたので、礼儀、作法等、基本のほとんどは知っており、途中で入った俺がどうしてよいかうろうろしているとすぐ隣にいて親切に教えてくれた。
本当に、有難かった。
・・・・・・
太郎先輩の剣道を始めてからの活躍は俺が話す必要はない。剣道雑誌が全て記録している。
半年後の小学生大会で県三位に入ると、中学では二年、三年と全国中学校剣道大会個人優勝。高校では全国選抜、インタハイとも個人戦を各々二回制覇する活躍で、名門W大学に特待生で進学。今年のインカレでは決勝で敗れたものの、一年生ながら準優勝に輝いている。
俺はと言うと、地区予選は勝ち抜けるが、県大会は決勝リーグに行くのが精一杯の普通の選手だ。太郎先輩に比べられるだけ恥かしい。
今のところ、自斉先生の眼鏡違いは明らかだ。
後ろから面(3)
クラブ活動の稽古の始めに行われる面の基本打ちは、稽古を見ている人がホ~ッと息を飲み感心するほど俺が一番だ。でも俺は、基本技のスピード、力強さ、打突の正確さを含む切れ味は凄いが、大会の実績はそうでもなく今一だ。中学時代は地区大会でさえ準優勝止まりで、トップ選手の陰、二番手グループに甘んじていた。そんな見掛け倒しの俺を剣道部員は、デクと呼ぶ。木偶の坊のデクだ。揶揄い、馬鹿にしている。
この稽古始めの基本打ち、二列になり、相対して相互の面を四本ずつ打つ。
打ち終わると一人ずれて、相手を変え、また同様に打つ。これを十回繰り返す。
最初の二回くらいはゆっくりと大きく動き、体をストレッチしながら打つ。回を重ねるごとに体がほぐれてくるので小さく強く速く打ち、後半の数回は試合をイメージし全力で打ち込む。
体のアップとともに自然に鋭くなって行く打突に俺は思わず自己陶酔する。
竹刀の先が触れ合いだす間合いの触刃から、右足で素早く踏み込み面を強烈に打突し、相手の背後に抜ける。そのスピードとパワーは打突される相手を圧倒する。今日も絶好調。スーパーマンと綽名される顧問の杉山先生も、躍動する俺を満足気に見て、腕組みしながら楽し気に頷いている。
この顧問、この学校に来る前は剣鬼と呼ばれたそうだ。全日本剣道選手権にも出場した剣豪であったと聞いている。現役を引退した後は九州にある私立高校を全国大会まで何度も連れて行き、全国制覇も手が届く位置にいたそうだ。しかし、数年前の稽古中に何かの重大事故を起こしたとかで、厄介払いでうちの学校に流れ着いた…となんでも知ったかぶりのマネージャが小声で言いふらしていた。
時々、稽古をつけて下さるが確かに強い。とても敵わない。いや、近隣で対等にスーパーマンと立会できるのは県警の師範ぐらいだろうとも聞いた。剣士としては尊敬すべき人みたいだ。でも、指導者としては疑問だ。クラブを強くしようとか、部員を鍛えようと言う情熱を全く感じられない。いつもナアナアでいい加減なのだ。当然のことながら…、剣道部は弱い。
俺はスーパーマンに本気になってもらいたいと心から願い、基本打ちを見せびらかしているところがある。授業で無視されている分、たとえ基本の面打ちだろうが、自分が認められる事があるのは嬉しい。スーパーマンの視線をガンガン意識しつつ、俺の四肢は、面を力一杯打ちこまれる相手の脳天の痛みなぞ全く無視してこの日も躍動した。
でも、何事においても調子に乗り過ぎるのはよくない。基本打ちの稽古も佳境に達した八人目、絶好調と勢い込んで面に飛び込んだ時、俺の足は床をバシリと踏み割ってしまった。
幸いにも踏み抜くまでは行かなかったので、足首等の骨折は免れたが、運悪く割れた床のささくれが足裏に突き刺さり、立ったまま覗き込むと、白く割けた筋肉が見え、血がにじみ、見る間にポタポタと流れ落ちだした。血に弱い俺は赤いそれを見た瞬間に痛みが倍加し、足首を抱え、足裏を天井に向け、その場に座り込んだ。
「デク、大丈夫か?」
うずくまって、止血しようと足首を両手で絞り込んでいる俺に、相手をしてくれていた部員が心配そうに覗きこんだ。
他の部員も集まって来て俺を中心に人の輪ができた。
そんな輪の外から、部員を分けて近寄って来た顧問が、膝をおり、俺に向かって顔を近づけると、おっとりした調子で俺の肩を抱き、
「デクのパワーに床も悲鳴か…、床もデク相手だと大変だな。修理代がいくらになるか…、今度は俺が金の工面で大変だ」と、呟き、渋い顔をして割れた床の破損状態を目視し、俺の足裏を覗き込み、怪我の程度を確認する。こんな時に、怪我ではなく床の損傷と金銭の話をする。落ち着いたふりをしているのか?洒落ているつもりなのか分からない。そしてボソッと、
「デク…、お前、保健室に行って来い」と俺に、声をかけ、副キャプテンに肩を貸して俺と同伴するように依頼した。
そして、立ち上がると、腰に手を当てて、集まっている部員をしっかりと見回し、
「他のものは稽古を続けろ…」と指示を出し、元居た立位置に戻ろうと背を向けた。
でも、その一言を待っていたかのように稽古嫌いのキャプテンが
「先生、床に穴が開いています。割れ口には鋭利に尖ったささくれもあります。気をつけていても、勢い余って穴に踏み込み踏み抜いたら大怪我にもなるでしょう。兎に角、注意が必要です。危険です」と、異を唱える声を発した。
その声に、振り向いた先生の目は退屈そうに、そして口元は苦笑いを浮かべ、
「それもそうだな。修理ができるまで稽古は中止にするか…」
今度は、物思いに耽る様子で呟いた。
それを聞いたマネージャが「明日も?ですか?」と、明日も休みにしようという提案に近い確認の言葉を呟きスーパーマンの判断を促した。
「修理できるまで無理だろう。お前たちが危険というのだから。お前ら、どう思う?」
吹っ切れたように、口元に頬笑みをたたえたスーパーマンは、今度は親し気で慈愛に満ちた碧眼で部員達を見渡した。
俺は悲しかった。先生が部員達に示しているのは、生徒主体を尊重する優しさなのか?あきれ返って物が言えないという冷たさなのか?それらが混じり合った態度なのか?いずれにせよ、毎度繰り返されるこれに似た光景には反吐が出る。
「安全第一です。クラブ活動は心身鍛える為のものです。怪我をしてはいけません。残念ですが…」
もっともらしく、キャプテンがまとめを言い、他の部員達もわが意を射たりと、視線を絡ませ、お互いの気持ちを確認する。
お決まりの展開。こんな事をしていて、何が地区大会突破、県大会出場だ!強くなれるわけがない。
部員たちは口では稽古できない不幸を嘆き、先生は先生で生徒の発言を尊重する寛容な態度をとる。最低だ。
スーパーマンは本音では部員たちが真剣に稽古しないことに対して極めて不満なのだ。が、言葉に表さず、反対の事を主張する生徒たちの歓心を買うような言葉を舌先で転がして我慢している…。俺はそう思っている。
今回も部員たちは、先生の寛容さに溢れた演技にしっかりと応え、剣道の実力は飛びぬけているが過去のトラウマに囚われて本心を吐けずにいるこの筋肉ゴリラの小心教師を“生徒の発言に理解ある寛容な剣豪”と言う額縁の中に飾り付ける事に成功し、抑え込んでいる。これがココの流れ、剣道部の実態だ。
スーパーマン、お願いだから覚醒してください。流れに逆らわずに、実に物わかりが良く、適切な判断ができる管理者顔をして生徒に歩み寄り居座りを決めている。そんな卑屈で卑怯なことは止めてください。貴方は、こんな慣れ合いをしている限り、真の発展は無いと知っているのでしょう。スーパーマン、貴方はずっとこのままの態度でいるのですか?俺は心の中で叫んでいた。
何時も思う、今のスーパーマンは、少年サッカーの監督、コーチと一緒じゃないか。強いものに流されて体面主体で真の目的を忘れ、居心地の良い場所に執着した行動を取る。
先生は、本当にやるべき事は分かっている。それを自分が真剣に求めようとしている事も十分に認識している。実行すべきことの青写真も描けているに違いない。でも、実際は、それをなさず、社会の圧力につぶされてゴミになっている。そんな先生の顔はこすっからく見え、物悲しくなる。スーパーマンの本当の顔、本来の顔を見たい。
俺はこう思うが、床の修理ができるまで部活は休み、余る時間を部員達はカラオケ、ボーリングで、互いの親交を深める放課後として充てるのだろう。
もういい。俺は皆と離れ、副キャプテンの肩を借りて怪我の治療に保健室に向かった。床のささくれが入ったくらいの怪我は放っておいても治る。だが、もしもの事があると顧問の責任になる。スーパーマンの指示は守らないと、床に穴を開けた程度では収まらない、更なる迷惑を掛ける事になる。そうなると彼のトラウマの淵からの脱出は更に難しくなるだろう。
・・・・・・・・・・・・・・・
保健室の白いドアを開けた。きれいに整頓された部屋に消毒用アルコールの臭いが漂っていた。部屋に一歩入る。白いカーテンで目隠しされた診察コーナーに向かって副キャプテンは「失礼します」と声を掛ける。と、内側から「ハイ。どうぞ」と明るい声がして、さっとカーテンが開かれ、白衣を着た看護士先生が現れた。彼女は素早く、副キャプテンが俺を支える反対側から俺に体を寄せ、背を丸め、脇の下に素早く体を入れ、支えてくれた。
保健室の広瀬アリスと呼ばれる先生の黒髪が俺の脇の下を通り、鼻腔の前を行き来する。アルコール臭の中で立ち動く先生からは何とも言えない、清潔なそして心なしかピンクの香りがした。
「宜しくお願いします。」と、副キャプテンは俺の脇から体を抜き、先生にお辞儀をして、保健室を後にした。
先生は俺を抱えながら、
「安田君、大丈夫?怪我、どんな様子なの?」
と、思いやり深い優しい言葉を俺の脇から顔を見上げ、キラキラ光る黒目勝ちの目で優しく見つめ、
「少し傷口を見せてもらうわね。」と俺を診療台の前に誘導し、体勢を入れ替え、俺を診察台に腰掛けさせようとする。多分、これから俺は、仰向けになり、踵を浮かせて床を踏み抜いた右足裏を先生に見せる事になる。そう思った。
でも、その時、俺は怪我以上に困ったことになっているのに気付いた。こんなときにも、俺の下半身は本能に従い自由奔放に行動し、自己主張する。股間は出っ張っている。俺は腰を伸ばせない。伸ばせば富士山のシルエットをした袴の突起で俺の興奮がばれてしまう。恥かしい、俺のこんな状態を先生に知られたら…、俺は変態扱いされてしまう…、足の怪我どころではなく別のことが心配になってしまった俺は羞恥の大汗をかいた。
それでも、何とか、先生の視線が股間に行かない工夫をすることで、自分の恥ずかしい姿を見られまいと、
「先生、俺が怪我した事、なぜ知っているの?」
と時間稼ぎの質問した。
「杉山先生から連絡があったの」
先生が俺の質問に答える為、俺と視線を合わした瞬間、
「そうですか」
と答えて、恥ずかしい突起をグンと左手首で押し下げて下向きに方向転換し、目立たなくした。
でも、そんな俺の心と体の葛藤をまるで気付かぬように、先生は慣れた様子で俺の脇からサッと体を抜き、俺を診察台に座らせると、怪我した足をむんずと両手で持ち上げ、傷口に顔を近づけ凝視した。腰を下ろしたこの姿勢だと本能の反応は気付かれずに済む。ホッと息をした。すると、その呼気を、俺が、怪我程度を心配していると勘違いしたのだろう。先生は、
「安心して。切り口は少し深いけど、大丈夫。洗浄するね。」
と言うと、手早く瓢箪形をした冷たく光るステンレス製の洗浄器を俺の足の下にガツンと押し込み、オキシドールをたっぷりと脱脂綿に含ませて傷口をジュワジュワ洗った。オキシドールは白い泡を立てながら右足裏を指の方から踵に向かって流れ落ち、傷口の血液でピンクに染まりながら銀白色に輝く洗浄器の中で出血の赤い渦を作った。
「きれいになったわ。傷口を見る?」こう言うと、俺の返事も待たないで、俺の膝を両手で内側に折り曲げ、さらに足首から先を捻り、足裏を俺に向けた。傷口の白い肉の奥に鮮やかな赤色の血の湧きだしが認められた。
「少し、抗生剤を塗っておくわ。化膿するといけないから。それと、これから少し通ってね」
「少しって」
「二,三日。君は回復力が強そうだから」
「ハイ。有難うございます」
俺は変態だと思われずに済んだ事を心から喜んだ。いや、それどころか、怪我を心配するいたいけで純真な少年と思われた可能性も感じた。憧れの保健の先生に親切にされる幸運に思わず、心の中でほくそ笑んでガッツポーズを…。
その時だ。救急ベッド側のカーテンがバサリと開いてそこに横たわっていた生徒がムクッと起き上がり、俺のベッドの横に立った。妖怪だ。いつものように前髪で表情が見えない。
「安田君、帰るの?」
先生の動きを気にする様子もなく、俺に話しかける。
「うん、いま、治療してもらったから」
「私も帰る」
「ずっとここにいたの?」
「居た」
「どうして?よく居るの?」
「今日だけ。あなたは変態ですから、間違いを起こしてはいけないと思いまして、休息ベッドの中からあなたを監視していました」
ボソッと言う。
妖怪の奴は俺の恥かしい興奮と苦闘の様子を隣のベッドの中から見ていたに違いない。
おもわず、俺の顔は熱くなり、痛めた足を見るように下を向いて立ちつくした。
そんな俺達を不思議そうに見つめる保健の先生に俺は、御礼の挨拶をし、そのまま妖怪に引きずられるように保健室を出た。
前髪の隙間から、俺が後をついてきているかをスリッパ履にしている俺のズックの足元を見ることで確認しながら妖怪は校門に続く廊下に歩みを進め、
「あのさ、安田君のデータを整理したのだけど、やっぱり、あなたが並みの選手でいるなんて、わけが分からないの。フィジカルな物理データとあなたの内面を一つ一つ照合したいから、今日も私の家に来てください」
「部活があるから無理」
妖怪の手の内で振り回されるのはこりごりだから反射的に思いついた答えをした。
「ん、部活?ここ一週間は無いでしょう。道場の床が壊れているのに。そもそも、そのビッコの足では…、ホントに、貴方って馬鹿ね」
「床の事、何で知っている?」
「道場の床の状態とあなたの踏み込み力を考えると、今日ぐらいに踏み抜くことは容易に推測できました。床の修理注文は通常なら榎本工務店になされます。あそこに注文すると料金は二万円、期間は一週間くらいかかるはずです。」
ゾッとした。俺の怪我も保健室に行く事も、部活が休みになる事も、修理業者さえも、皆お見通しなのだ…、この女は…。
抵抗する事を諦めた俺は、足を引きずり、そのまま彼女の清潔極まる殺風景な部屋に連行され、無機物的に開かれたパソコンの前に座らされた。
保健室にいた間に二人の服に浸み込んだピンクを感じた消毒液のにおいもすでに消し飛んで、調査者と被験者の関係になっていた。
「先ずは、太郎さんとあなたの面打ちを比較します」
俺の背後に立った妖怪はパソコンの画面に俺の視線を誘導すると、太郎比較と名付けられたアイコンをマウスでクリックする。左半分の画面に俺が、右半分に青山先輩が構えている画面が映し出された。
「よく見て」と言いながら、妖怪がエンターキーを押と、画面の二人は同時に面の打突を開始した。俺は、妖怪の「あなたが並の選手でいることが分からないの」の言葉を半分くらい信用し、俺が青山先輩に打ち勝つことを期待しながら画面の左右の打突の動きを比較しながら覗き込んだ。が、やはり打突の完了は青山先輩の方が早かった。右の先輩の竹刀が相手の面を打突した時、左の俺の竹刀は相手の面の上、十五cmのところにあった。完全に負けていた。コマ送り再生でストップキーを押し停止させて確認したのだから間違いない。残念だが、思っていた通りだ。
「負けている。先輩は速い」俺が呟くと
「見えないのね。馬鹿には!」と俺の肩越しに画面を見ていた妖怪は俺の肩に手を置いて俺の顔を覗き込み、あきれ返って手が付けられないとばかりにキッと睨んだ。そして、
「よく見なさい」と俺の顔の横に自分の顔を並べながら目の前の画面を指さし俺に再びリプレイを見せた。
それでも、やっぱり俺は負けている。当たり前だ、同じ画像なのだ。変わるわけがない。そもそも、インカレ準優勝の先輩と中学の地区大会さえ優勝できない俺の面打ちを比べるなんてナンセンスだ。
「何回見ても同じさ。負けている。俺の駄目さを思い知らせたいのか?」と投げやりに不貞腐れた言葉を吐いた。
「物の見方に進歩がない。自分なりの理論がないから何度経験しても積み重ねができない。才能の無駄遣い。馬鹿は死ななきゃ治らないって言うけれど、生きているうちに才能はつかわなくちゃ…。貴方は何時になってもデクのままで終わるわよ。惨めな人生ね。そうなりたくなかったら、これから私の言うことを真剣に聞いて。これは英語の授業じゃないわよ」チッと舌打ちした後、妖怪は、汚い言葉の長台詞で俺を罵倒し、唐突に右手で俺の左耳たぶをつまむと、画面の前、三十cmの近い位置に俺の顔を押しこんだ。
「よく見て、ここ、相手との距離よ。画面の下に線があるでしょ。これを見るとあなたの場合、相手の左足爪先とあなたの左足爪先の間隔は330cm、あなたはこの距離から面を打っている。一方、太郎ちゃんは300cmなの。太郎ちゃんを基準にして、あなたの場合腕の長さを考慮すると、あなたは太郎ちゃんより20cmだけ多く踏み込んで打っていることになるわね。つまり、その20cm分、竹刀の動く時間に換算して67msだけ面を打ち始めてから余計にかかるはずなの。
これに対して、竹刀の早さは秒速30m。今見た比較ビデオでは確かに太郎ちゃんはあなたより距離にして15cm分、速く面を打ったわ。これを時間に換算すると5msなの。だからあなたの方が速いのよ。62msも!」
「さっぱりわからない、ゴチャゴチャ言っても、見た取りだ。俺は遅いんじゃないか?」
「馬鹿に説明するってホントに疲れる。どう言えばいいの?」妖怪は悪態をついて床をドスンと地団太を踏んだ。
「とにかく、こう理解して。あなたは330cm先の面を、太郎ちゃんは300cm先の面を用意ドンで打った。その差は竹刀の位置で言うと15cm、時間に換算すると1000分の5秒の差。あなたの打ち込み距離が30cmも遠いのに竹刀の差は15cmしかないの」
さっきよりは少しわかった気がする。
「要するに、ヨーイドンで同時に面を打ち始めると、青山先輩が3m先を打っている時に、俺は3m15cm先を打っている。だから俺の方が凄い。この理解でいいのかな?」
俺が自分流の理解で説明すると、妖怪は驚いた様子で
「その通り、よく理解できている。説明も明快。私は時間と空間つまり時空で説明したのですが、貴方は空間だけで整理したのね。あなた、頭も好いのかもしれないわね。厳密に言うと体を運ぶ運身速度と竹刀が振られる剣先速度は違っているので修正が必要なのだけど、今はその理解で十分よ。進歩は認められます」と、冷ややかに褒めているのか馬鹿にしているのか分からない事を言った。そして、畳みかけるように、
「もっと分かりやすい例を見せるわね」と、
妖怪は先輩が高校生、俺が中学生の時の画像を比較して映し出した。
俺と先輩の背丈はほぼ同じ172cmであり、相手との距離も280cmとほぼ同一であった。
「これは、あなた達二人のデータを基に、合成した画像です。この前あなたのアルバムから拝借した写真データも活用したわ…、しっかり見てね」
キーを押すと二人は同時に面を打ち始めた。二人とも同じ師から指導を受けただけあってフォームは非常によく似ている。でも、驚く事に中学生の俺が高校生の先輩より速く相手を打突できている。
「分かった。あなたは速い。すでに、肉体的にはインターハイ優勝者に勝っているの」
黒くて澄みきった目が俺とパソコン画面のあいだに満足感一杯にニュッと入って来たかと思うと、じっと俺の目を覗きこんだ。
苦しい、保健の先生に見つめられた時よりも圧迫される。どうすれば…、とにかく体を引いて距離を取った。
「剣道は面だけじゃない。小手もあるし、胴、突きもある」
「あなたは突きをほとんど出さない、だから突きに関してのデータは無いけれど、小手も胴も調べたわ。全てにおいて凄いの、あなたは!」
「じゃー、何で、青山先輩が勝てて、俺は負けるの?」
「それが分からなかったの。でも、今、わかったわ。あなたは馬鹿だから勝てないのよ」
妖怪は外国のホームドラマに出てくる主婦があきれ返った時にするように瞳と肩を持ち上げ、掌を上に向けながら言った。
本当に勝手な奴だ。人を拉致しておき、バカ呼ばわりする。腹立たしいから、返す言葉を探したが見つからなかった。やはり、俺は、間抜けなのだと納得した。
「このグラフを見て。全日本選手権と全日本学生選手権に出場した歴代選手の動画データをあるだけ集めて小手、面、胴の技別に分類したものなの。横軸は技の速さ。縦軸は優勝が5、準優勝が4、3位が3、ベスト8が2、ベスト16が1と点数化されている。プロットされている点の横にあるアルファベットは選手のイニシャルよ。やはり、技の速い選手が上位を占めると言う強い相関関係が現れているわね。例えばこのMは全日本選手権を連覇した宮崎選手。速いわね。○は太郎ちゃん。これからの伸びは期待できますが、今のところはこの一流選手の中に入ると中位ね。このTは高鍋選手だけれど、太郎ちゃんと同じくらいだわ。そしてこの☆印があなた。宮崎選手と同じで他の二人に勝っているわ、凄いでしょ。あなたのデータは高校一年、今の値を用いたのよ。」
妖怪の目が夜光虫からさくら貝の輝きになってきらきらと俺を真正面から見つめている。アッ、この目どこかで見た事があると思った。そして思い浮かんだのは石垣自斉先生の奥様の目だ。小春日和の目だと…。
懐かしい気持ちが俺の中に湧き上がって来て、いつもなら腰が引ける状況だが、無意識に、俺は妖怪の瞳をジッと覗きこんだ。
すると、妖怪は俺の視線にはじかれたように上体を引くと俺の視線避けるように顔をそらせ、
「なに、何を考えたのよ!今、」戸惑ったように距離を取った視線を投げかけながら言った。
「小泉の目が石垣自斉先生の奥さんの目に見えたよ。温かい目に」
それを聞いた妖怪の頬がフッと明るんだ。パソコン画面の反射光の加減かもしれないが…。
「太郎ちゃんや自斉先生とどんな事をしたのか教えてくれる」何だか問いかけも優しくなった気がした。
俺はサッカークラブを追い出され、ずるい大人が嫌いになった話。信頼できる自斉先生に剣道を習った話、青山先輩が転校した話等々、思いつくままに話した。
妖怪はテレビドラマにでてくるの遣り手の検察官みたいに俺に質問し、俺の話を引きだしながらポイントを丹念にメモした。
いつもとは違って、やり込められないので、ついつい本音をペラペラ話していた。
「青山先輩は事あるごとに俺に言う。「お前は自分の価値を知らない。俺より三年早く成長している」って。俺なんてタイトルが一つも無いのにね。間違えられて買いかぶられている。辛いよ。」
それを聞いた妖怪の態度が豹変し、挑発的な言葉を俺に浴びせた。
「だから、あなたは逃げているの。弱いの!英語の授業がその例ね」と、
「違う、全く関係ない。俺は本当に英語ができない。秀才の君とは違う。君は皆を馬鹿にして実力を隠している。本当はカマキリよりも英語もペラペラなのに」
全くの見当違いの事を言われて俺は珍しく反発した。
「俺は何で魚がFISHで皿がDISHなのか分からない。さっぱり理解できない。あんなの分かる奴らの頭が信じられない」
こんな、つまらない会話、俺はムキになる必要はないのに、剣道つまり自斉先生と英語のカマキリ教師が一緒くたにされている様で、否定せずにはいられなかった。
「俺は俺なりに懸命に剣道をやっている。強くなりたいとも思っている。何で、皆、そこのところを見てくれないんだ、理解してくれないのだ?俺だって、優勝したいと思っているのは分かるだろう…」
自分でもびっくりするくらい、腹の中にあった思いが爆発し、言葉になって溢れだした。
俺から吐露される激情を聞いた妖怪は、彼女自身の俺に対する苛立ちを質問攻めという形で発散するのをあきらめたみたいに、黙り込んだ。気まずい空気が流れた。静けさが重さに変わって、背中にのしかかってくるのを感じた。でも、俺は初めて妖怪と対等に話をした。対決したと言ってよいだろう。妖怪は今回「声を出すよ…!」なんて俺の部屋で言ったような脅しも掛けず、俺の言うことを最初は俺の暴発にたじろぎ驚きながら、途中からは神妙に聞いて、いま俯いて黙って座っている。その様子を見て、まずいと思った…、何時ものように、逃げ出せ!と、弱気の虫が俺の耳元で囁き、目が泳いだ。それを妖怪に見とがめられたように感じた。
「隣の茶室でちょっと調べ物したいのだけど、いいかな?」苦し紛れにしては自然に言葉が飛び出した。
言ってから気付いた。妖怪に気楽に声を掛けられるようになっている不思議な自分に…。他の同級生にはできないのに…。
「ええ、いいわ」
妖怪も普通に返事をした。
さっきまでカッカしていた自分は何だったのだろう。妙に落ち着いていた。俺は自斉先生に剣道を習っていた時みたいにリラックスして素直な気持になっていた。このパソコンにデータ入力している剣道お宅の妖怪女とこのまま友達になればいいのかもしれない。高校に入って初めてできた友人、それも異性。何だか思いがけない展開だが…。
そして、この妖怪、頭が良くって飛びっきりの美人だ。俺は…デク。このアンバランスを考えると…、再びマイナス思考のスパイラルに落ち込んで行こうとする自分を見つけ、うんざりし、考えるのを止め、茶室への潜り戸に首を入れた。
薄暗がりの茶室の中、薄暗さに目を慣らすためゆっくりと周囲を見渡す。心がストンとあるべきところに落ちてきた。妖怪が好むというのもわかる気がした。この前、ここに入った時は妖怪が奥に入ったので俺は入口側にいた。今日は俺一人。遠慮せずに仔細を見ようと、先ずは一番奥に入りこの前見覚えた電灯のスイッチを入れ、剣道の文献が満載の本棚の裏側に回り込んだ。そこも本棚になっており古い文献らしきものがきちんと整理されていた。本の多くの題名は草書体で書かれているため、俺の知力では定かに判読できないが、装丁から判断するとお茶関係の本だ。それらの本の脇に少し様子の異なる紐でとじられたアルバムらしき厚い本があった。目立つので手に取ってみるとやはり古い写真が貼られたアルバムだった。厚い洋紙でできた表紙を開くと社会科の教科書にある坂本竜馬の写真みたいなのがぎっしり貼られている。写真の下には年号と被写体となった人物の氏名が達筆な楷書で記されていた。慶長、明治、大正、昭和初期。裏表紙に小泉マツと石垣スエの名がある。楷書で説明書きのある写真なら何時何処で誰が何をしたのかを理解できた。表紙から見進めると最初の方は人物写真ばかりだが、昭和に入ると剣道の防具をつけた人たちの写真が増える。垂の名前から判断すると一高と三高の剣道部の写真が多い。だれが撮ったのかは分からないが集合写真も一人一人の名前が対応して書かれた別紙が添えられており、写っている人物が誰なのか分かる。
剣道部に極めて近い人が撮影した(スポンサーになった)ように思われた。
その中である写真が俺を釘づけにした。若いころの自斉先生の写真だ。写真の下の説明書きに石垣次郎衛門、武徳大会優勝の文字。その後の数枚は自斉先生の各種大会での優勝を記念し撮影されたものだった。自斉先生の写真が尽きると続いて貼り付けられていたのはカラー写真。そこには青山新之助先生が優勝杯を掲げて笑っていた。そして最後は青山新之助一家の写真で終わっていた。美しい女性と可愛い男の子が笑っている。奥さんと太郎先輩だろう。このアルバムがここにあるのは何故だろう、疑問がわいた。妖怪と、自斉先生と、青山先輩が何らかの糸で結ばれている。きっと…。頭がぐらぐら回り、他に関係資料がないかと、暗がりの中、目を凝らし、本の背表紙を指でなぞり、答えを求めた。夢中になっていた。その時だ!目から火が出た。振り向くと妖怪が30cm定規を右手に仁王立ちしていた。後頭部を竹の定規でしこたま打たれたのだ。
「それを渡して」俺が膝もとにおいたアルバムを指差し、取り上げ小脇に抱えると
「こっちにいらっしゃい。紅茶を入れました」と背を向け跪き、板戸から居間に出て行った。言われるままに俺も続いた。板戸を抜けるとフローリングの部屋は窓から入る夕陽に黄色く染まっていた。
「もう夕方…?わからなかった」時の進み方がやけに気になった。お茶室の時間は止まっていて、隣のこの部屋の時間だけが進んでいる、そんな気がした。
お茶室は極端に凝縮された時空が交差する混沌の部屋。そんな感じなのだ。俺もこの環境にいたら、妖怪みたいに二重に見える人格になっても気付かず、年を重ねるかもしれない。
・・・・・・・・・・・・
「これ、美味しいわよ」
風月堂のゴーフルが載せられた器を差し出す。紅茶の良い匂いがした。
「ダージリンが合うと思うので入れてみたの」指さすテーブルには金で縁どりされ緑のきれいな葉っぱ模様が描かれたティーカップが置かれていた。
「綺麗な緑。素敵なカップだね」
「ヘレンド。父がハンガリーに講演旅行に行った時のお土産」
「一人暮らしに十分な部屋だね。テレビ、冷蔵庫、ベッド、あと洗濯機とキッチンの水回りがあればOL用のマンションだね」
「あるわよ。そこのドアの向こうに…」
俺が勝手にクローゼットだと思い込んでいた戸を開けると、そこには水回り一式。食器乾燥機まで装備されていた。きっと、別のドアの向こうにはベッドは勿論トイレも風呂もあるに違いない。
「皆、バラバラで忙しくしているの。いちいち家族と都合を取りあうのも面倒だし、効率が悪いから一通りの生活ができるように各自、自分の居住空間を個別に持っているの」
「食事、一緒にしないの?」
「金曜日の夜は基本的に一緒。他の日は食事係に自分の都合を連絡して用意してもらう。あなた、お腹すいたの?」
「いや」
「食べたいものがあったら、言って。メイドさんにおねがいするわ。用意できると思うけど…」
「結構です」
俺の家ではこんな事は考えられないし、許されないだろう。お金の話だけでなく、家族の絆と言うか一体感と言うか…そういうことだ。
一緒に夕食を取らないのが週に何日もあるなんて、こんな環境で生まれ育ったら、この部屋の主みたいに前髪で自分を隠し、見下げるように世間を眺める、そんな風になるのかもしれない。
紅茶は今まで飲んだ事がないくらい美味しかった。ゴーフルも。でも、つかの間の安楽だった。妖怪のデク改造作業が再開されたみたいだ。
「あなた、私達の秘密に気付いたみたいね」
妖怪はアルバムを手に取ると、慣れた動きで石垣自斉先生と青山一家の写真を交互に開き、俺に見せた。俺の視線の動きを確認すると、じっと俺の目を見つめた。詰問だ。
「この写真に気付いているわね、あなたは!」
俺が頷くのを確認すると、パソコンのキーボードを素早く操作し、「これを見て」と画面を指差した。そこには簡単な家系図が示されていた。
(三校) 青山新之助
石垣自斉 -――― 青山太郎
大野長英 -――――石垣裕子
-――――大野末
伊藤民
-
小泉大座衛門久喜
- ――――小泉松
松田梅 - ――――小泉航太郎 小泉華
花岡武雄 -―――
(一校) 清水明子 小泉雄大
この家系図には明記されてはいませんが、私のおばあちゃん松さんと太郎のおばあちゃん末さんは姉妹、それも双子だったの。当時、双子を育てるのを憚る習慣があったので、末さんは子供のいなかった大野家の養子となり大野末になった。
大野家は大野派一刀流の血筋をひく京都在住の武道の名家で、末さんはその道場の門下生、三校の龍と呼ばれた三校剣道部の石垣自斉さんと恋愛関係になったの。
本家に残った松さんは一校の虎と呼ばれた東大剣道部主将の花岡武雄さんと結婚した。そして、運命の悪戯ね、天覧試合一番の名勝負と呼ばれる石垣・花岡対決が行なわれたの。
熱戦の末、花岡は敗れ、それを機に剣を捨て学問に専念するようになった。花岡のおじいちゃんは自斉さんの凄さが分かったのね。だけど、小泉家の家督を継ぐものとして、松おばあちゃんの戦いはここから始まったの。
自斉さんを倒す剣士を育てる。いや、日本一の剣士を小泉家から輩出する。これに執念を燃やすようになったの。
でも、息子の航太郎、孫の雄大は学究肌で武道には向いていない。そこで、私のお婿さんを日本一の剣士に育てるというおばあちゃんの企てが始まって、今に至っているの。分かる?
分かるも分からないも、強引な話だ。こんな無茶が通ると思っているのが不思議だ。正気のほどが疑われる。
「本気で、考えている?その話」
「本気以外で考えられる?」何故そう思えないの?そんな妖怪の視線が俺をなじる。
「俺にも選択権がある。勝手な事を言われても意にそえないよ」勇気を出して反論した。
その言葉に、丸椅子に座った妖怪は黙って祈る様に両手を胸の前にして俯いた。そして、静かに
「私じゃ駄目…?」と涙声を出して背を向けた。
その一言で、俺は凍りつき、言葉を失った。
妖怪の背中が震えている。泣いているのだろうか?白いブラウスの背中に浮き沈みするブラジャーの線が痛々しく見える。沈黙が苦しい。
思わず、
「君が、どうと言うのでなく、一般的な考え方だけど…」と思わず、近寄り、震える肩にそっと肩に触れようと右手を伸ばした…、
「じゃー、私の事は、認めて下さるの…?」の声が、楚々としたかと思うと、突然、俺の右手は妖怪の両手に包まれそのまま、背後から前のめりに妖怪に圧し掛かる様に引き込まれた。瞬間、妖怪の背中と俺の胸が接すると同時に俺の掌は妖怪の胸の柔らかいものに触れた。俺は慌てて手を引き抜いた。
拙い!参った。色仕掛け?
これ以上長居をしても好い事は無い。いや、非常に男としては興味津々なのだが今の俺には恐ろしすぎる領域に引き込まれそうだ。
早々に退散しようと、
「俺、帰る」と立ち上がろうとして気付いた。
さっきの刺激で本能が表に出てきたみたいで、股間が突っ張って立ち上がれない。
その様子を嘲笑うように
「逃げ帰るのね。いいわ、これからも時間はたっぷりありますから」と、妖怪はこちら向きに座りなおし、本能の発作で動けずに、中腰でいる俺をもてあそぶようにしっとりと眺め、振り向く俺に背後からに掌を返したように、落ち着き払い、にこやかに微笑みかけた。
ああ、恐ろしい。そんな妖怪を見つけた俺は、息子の不如意な高ぶりが収まるのを待たず、なりふり構わず立ち上がり、妖怪に背を向けてさっき来たのとは逆に歩いて妖怪部屋から母屋に逃げ込んだ。家の中には明かりがついていたが人のいる気配はしなかった。玄関に行き靴を引っ掛けて小泉家の門を目指して走り四つん這いになりそうに腰を落として、大門の脇の通用口から飛び出した。
この大きな人間臭のない家の中の離れに、とっても美しく賢い妖怪が住んでいる。
妖怪は剣道日本一の男を旦那とする。その目的の為にパソコンを敲き権謀術数を駆使して俺を洗脳し思い通りに操ろうとしている。
標的は俺だけなのか?俺で何人目なのだろうか?猟奇的にも思える恐怖が俺を襲う。その反面、魅力も感じる。俺だけであって欲しいとの気持ちもどこかにあった。
酸っぱい唾がわいてきた。長い塀伝いに設けられた溝の中にそれをペッと吐いた。唾は白い軌跡を残し暗い溝影の中に入ってスーッと消えて行った。




