史門と恵里菜
翌日の放課後、琳太郎は大喜びした。健治が男子生徒を一人、連れてきたのだ。
「鴨井、でかした。もう勧誘してきたのか。君、名前は?」
琳太郎は、その男子生徒の貧相な肩に手を置いて、聞いた。馴れ馴れしい態度に、史門の表情はどんどん強張っていく。第二音楽室に集まっていた二年生達も、好奇に満ちた顔で頷く。
「…史門」
「ん? 聞こえなかった」
琳太郎はニコニコして聞き返す。
「百舌野史門!」
史門は琳太郎に向かって怒鳴った。
「モスラ自慢?」
今度は梅子が抑揚のない声で聞き返した。
「も、ず、の、し、も、ん。僕は楽隊なんか興味ないけど、一身上の都合で入ることにしました」
史門は、訳ありげな目で琳太郎を睨みつけながら、手を払いのけた。さらに、まだ「確かにモスラかも」「モスラ飼ってるし」「気味悪い」と囁き合ってる梅子と響を交互に睨みつけた。史門の手には、それぞれ蛾が入った虫かごが二つ、抱えられている。その様子を健治が満足そうに見つめていた。
「楽隊じゃないよ。吹奏楽部だよ」
直樹がムッとして訂正した。直樹の言うことなど無視して、史門は誰に勧められてもいないのに、室内にずんずん入っていき、一番後ろの席に座った。
「今、ホルンのメンバーが欲しいんだ、史門。頼めるかな」
琳太郎が史門の背中をバンバン叩きながら聞いた。
「先生、いきなり呼び捨てなんだね」
健治が二人のやりとりを見て笑った。
「僕はホラ貝なんか吹きたくない」
史門は吐き捨てるように言った。
「ホラ貝じゃなくてホルン。それに、何? それ」
害虫を見るかのように、梅子が史門と虫かごを睨みつけながら言い放った。史門は梅子の言うことを無視して、大事そうに虫かごをスカーフで包んだ。どうやら母親から持たされている物らしく、レディースのシルクのスカーフである。大輪のバラが描かれた華美な装飾を見て、公彦は小さく吹き出した。琳太郎は音楽準備室から古いケースを持ってきて、皆の前で開けて見せた。中にはこれまた古めかしいホルンが収まっている。史門は眉間にシワを寄せた。
「あのー、すいませんけど、僕はまだ、仮入部なんですけど? 入部するって決めてませんけど?」
史門は琳太郎に向かって、慇懃無礼な態度で言った。そこへ、音楽室の戸口にやってきた一人の女子生徒が、皆の背中に向かって問いかける。
「失礼します。吹奏楽部って、ここですか?」
肌の色が白く、目が大きくてまつ毛が長い、可愛らしい子だ。少し緊張しながらも微笑んだ顔は可憐で、ちょっとしたモデルのようだった。女子生徒が聞くと、史門が瞬時に立ち上がった。立ち上がったまま、何も言わない。目だけが異様にギラついている。
「大歓迎だよ。どうぞ」
直樹が爽やかな声で近づき、嬉々として案内した。女子生徒を琳太郎達の近くまで連れていく。
「いらっしゃい。名前は?」
琳太郎が優しく聞いた。
「鵜森恵里菜です。よろしくお願いします」
恵里菜が皆に礼儀正しく頭を下げた。すると、史門が誰よりも素早く、頭を一八〇度の角度で下げ返した。
「鵜森さん、ホルンやらない? 今、ホルン募集してるんだ」
直樹がホルンの本体を持ち上げて聞くと、恵里菜が頷いた。
「じゃあ、それ、やってみたいです」
「そっか。じゃあ目白、お手本頼む」
「はい、先生」
琳太郎が梅子に向かって言うと、梅子はやる気に満ちた顔で近づいた。梅子はトロンボーン担当だが、トロンボーンもホルンも同じ金管楽器である。マウスピースの形状は違えど、ただ音を出すくらいならできる。
ホルンの本体を抱え、マウスピースに口を充てる。ポーッと小さな音が出た。
「やってみて」
梅子がマウスピースを布で拭き取ると、ホルンを恵里菜に持たせた。マウスピースに口をつけるや否や、恵里菜は大型船の汽笛のような大音量をかき鳴らした。
「すばらしい」
驚いた琳太郎は大きな拍手をした。
「すごいね」
公彦も心底びっくりして呟いた。
「本当に初めて? 経験者じゃないの?」
梅子も目をまん丸にして、恵里菜に問いかけた。
「初心者です」
恵里菜は気恥ずかしそうに微笑んだ。
「いい感じだ。ほかの音も出る?」
琳太郎が聞くと、恵里菜は言われた通り指でバルブを押さえ、さまざまな音出しを試みた。部員達が歓声をあげるほど、パワフルな音を次々と出していく。
「すごいねえ。そんなに体が細くてもパワフルな音が出せるんだね」
健治がほっそりした恵里菜と、ずんぐりした梅子を見比べて言った。二人が並ぶと、その姿はまるで対照的である。
「何が言いたいの」
梅子は健治を般若のような顔で睨みながら言った。
「昨日えりジェンヌの配信見たけど、お腹にエアクッション巻きつけて体型管理してるんだって。ラップとかより暑くて汗かけるから痩せるんだって。梅ちゃんもやってみれば」
健治はそう言うなり、悲鳴をあげた。梅子に全体重をかけられ、上履きを踏みつけられていた。
「僕の楽器はどこです? 練習したいんですけど」
和やかな雰囲気をぶち壊して、史門が気取った声できくと、一同は我に帰った。
「残念。ホラ貝しかないけど、やるの?」
梅子が意地悪く聞いた。
史門は梅子を無視して、恵里菜が吹いたホルンを手に取った。周りの人間が全員、顔をしかめているにも関わらず、恵里菜が使ったマウスピースを洗うことも、拭くこともせず、そのまま口をつけた。ゴボゴボという息漏れのひどい音がした。お世辞にも誉めることはできず、琳太郎は軽く頷くだけだった。そのわりに史門は気取った声で言った。
「初日はまあ、こんなもんだね」
「まあ、そんなもんだろう」
琳太郎がそっけなく言った。
「あなたには言ってない」
史門は琳太郎に噛みついた。
「先生に失礼な口きかないで」
響が史門を怒鳴りつけた。ほかの部員達全員がうんうんと頷いた。
「僕たち二人で、力を合わせて頑張ろう」
史門は響を無視すると、恵里菜に向かって手を差し伸べた。梅子と響は気味悪そうに目を細め、歯を剥き出した。恵里菜は史門の手を見て曖昧に笑うだけで、握手には応じなかった。