天谷川のほとり
金曜日になり、吹部はこの日も勧誘のための練習に励んでいた。太陽が沈んですっかり暗くなり、部活を終えた後、琳太郎は職員用玄関で上履きを脱ぎ、靴を履こうとしていた。すると、副校長が声をかけてきた。
「鳥飼先生、こんな時間まで部活ですか?」
「こんばんは、副校長先生」
琳太郎が爽やかに答えた。
「まだ仮入部期間です。いきなりそんなに張り切らなくてもいいんですよ」
副校長は面倒くさそうに言った。
「一年生は仮入部期間ですが、二年生はそうじゃありません。みんなやる気のある子でして。僕もそれに応えたいんです」
琳太郎はハキハキと答え、副校長のたるんだ顔の前でこぶしを握ってみせた。
「最初からそんなだと、途中でバテますよ。無理しないように。生徒にも、無理させないように。保護者から早速、電話が入ってますよ。四月になってから帰りが遅いって」
副校長はため息をついて、不機嫌そうに言った。
「そうなんですか? 誰の親です?」
「鴨井君の親です。塾の時間ギリギリに帰ってくるから、もっと早く帰してほしいと言っています」
副校長は両手を巨大な腹にめり込ませながら言った。
「そうでしたか、すいません」
琳太郎は頭の後ろをかきながら謝った。
「まだ新学期始まったばかりですからね。今はまだ私が対応しているけど、来月からは先生に直接、保護者の方とやりとりしてもらいますよ。怖いんですよ。今どきの保護者は」
副校長は恩着せがましく言った。
「分かりました、気をつけます」
今度は鼻の頭をかきながら琳太郎が謝ると、副校長は太った体と頭上の被せ物をユサユサと揺らしながら歩いていってしまった。
琳太郎はふうっとため息をついた。それから駐車場には向かわず、校門を出た。南へ続く坂道を下り、天谷川の手前につくと、そこで右に折れた。本当なら家にまっすぐ帰ればいいのだが、外の空気を吸いたくなったのだ。
暗がりのなか、川沿いの桜の花びらはすっかり散って、代わりに若葉が芽吹いていた。その足元で、川はさらさらと小さな音を立てながら流れる。薄暗い街灯がわずかな光を落とし、水面の波の輪郭を捉えていた。琳太郎は草の上に座り、ぼんやりとそれを見ていると、視界の隅に知らない顔がやってきた。
「鳥飼先生」
私服姿の女子生徒が声をかけると、琳太郎は顔をあげた。
「ああ。こんばんは。えーと、君は?」
音楽の授業のとき、どこかのクラスで見たような気もするが、琳太郎は名前が分からず尋ねた。
「二年の鶴岡響です」
響はそう答えて、軽く頭を下げた。響が隣に犬を連れていることに気づいた琳太郎は、顔に笑みを浮かべた。真っ黒な芝犬なので闇に溶け込んでいたが、首にチラチラ光る首輪をつけて存在をアピールしている。
「可愛いね。よしよし、いい子だな」
「はい」
響はその場に立ち尽くしたまま、犬が琳太郎に近づいていくのをぼんやり眺めた。犬は琳太郎のことが気に入ったらしく、息をハアハアさせながら、尻尾がちぎれそうなくらい振っている。
「吹奏楽部ってこんなに遅くまで練習してるんですか」
響が尋ねた。
「ああ。みんなで目標を立てて、頑張ってるところなんだ。鶴岡は、部活は?」
琳太郎がしゃがみ込んで犬の頬や顎、背中を撫でた。犬は嬉しそうに琳太郎の手や顔を舐めた。
「うちは書道部です」
響が答えた。
「書道部か。いいね、書の道は。心が不安定な時にこそ、やると自分を見失わずに済むだろうね」
琳太郎は犬の前足を自分の肩で支えてやりながら、響の方を見上げて言った。
「はあ、まあ…」
響が曖昧な返事をしたので、琳太郎が少し首を傾げた。
「書道部は楽しい?」
「うーんと。まあそうです、ね…」
響がまた曖昧な答え方をした。琳太郎は見透かしたように聞く。
「もし、君が充実した毎日を過ごしているならそれでいい。もし充実していないのなら、吹部に来てくれ。俺も部員達も、みんなとても充実しているよ。絶賛、新入部員募集中だから」
琳太郎が微笑むと、響が下を向いて黙り込んだ。ときどき、夜風が琳太郎の髪をさらって、ゆらゆらとたなびいた。犬が琳太郎を仰向けに倒して、本格的にじゃれ始めた。響は何とはなしに、その様子を漫然と見ていた。琳太郎がアハハハと笑った。犬も目一杯口を開けてハアハアした。響は視線を天谷川に移した。川面の上で葉をつけた木の枝が浮かんでいるのを見つけた。水に追いやられ、右に左にゆらゆら揺れて流されてゆく。
「じゃあまた今度な」
琳太郎は犬を抱っこして響の腕の中へ収めると、手を振って帰っていった。