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緑谷中学吹奏楽部  作者: taki
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三歳の琳太郎が、姉の後ろ姿を見ていた。

姉は十三歳で、ピアノのレッスンから帰宅した後、リビングのグランドピアノを弾いている。いつも同じところでつっかえて、母にやり直しをさせられている。

「麗華。ほら、麗華、戻ってきなさい」

母が呼ぶ。姉はリビングから出て行き、廊下で泣いている。母も廊下に出て行き、姉を宥めた。

琳太郎はピアノの椅子に座った。目の前にある楽譜は読めなかったが、姉がどういう順番で弾いていたかは覚えている。琳太郎は両手の指を全部使って、メロディーの部分を弾いた。ピアノは優しい音色を吐き出し、リビング全体を包み込んだ。琳太郎は途中で弾くのをやめた。姉がいつもつっかえるから、その先は知らないのだ。

「琳太郎…」

母が衝撃を受けた顔をして、琳太郎のもとへ歩み寄った。琳太郎が振り向く。姉も泣きはらした顔でこちらを見ている。琳太郎は笑ってみせた。


姉はピアノを弾かなくなった。代わりに琳太郎は母に手を引かれて、ピアノ教室に連れて行かれた。先生は優しい女の人で、いつも褒めてくれた。新しい曲をたくさん教えてくれた。家に帰ってからもたくさん弾いて、両親を喜ばせた。

琳太郎が五歳になったときのことだ。姉より二つ歳下の兄が、友達を家にたくさん連れてきた。遊んでもらえると思って、琳太郎は兄の部屋へ走った。

「うるせえよ。お前はピアノ弾いてろよ」

兄は邪険にして、部屋に入れてくれない。ドアの向こうでは楽しそうな笑い声が聞こえた。琳太郎は泣きながらリビングに戻った。ピアノの椅子によじのぼり、一人でピアノを弾いていると、一人の女の子が近づいてきた。兄と同じ中学校に通う、友達の一人だ。

「すごいね。まだ小さいのにとっても上手だね」

その子は感心して言った。琳太郎は嬉しくて、ピアノの先生に教わった曲を全部弾いてみせた。女の子は飽きることなく、一曲終わるごとに拍手してくれた。

琳太郎が年長になる頃には、ピアノの上手な少年として近所でも有名になった。琳太郎は同じ年頃の子どもと比較しても背が高く、手も大きかった。ピアノのコンクールにも出場するようになり、琳太郎の演奏は大人達から絶賛された。コンクールにはいつも両親が来てくれたが、姉と兄は来てくれなかった。琳太郎にはそれが寂しかった。バラの花束を握り締め、母に聞いた。

「お姉ちゃんとお兄ちゃんはなんで来ないの?」

琳太郎が聞くと、父が頭を撫でた。

「二人とももう大きいから、忙しいのよ。ママ達とケーキ食べに行こう」

母は少し悲しげに言って、琳太郎の手をとった。


小学生に上がると、学校で音楽の授業が始まった。琳太郎はすぐに校歌の伴奏を覚えた。休み時間に体育館に行き、ステージにあるピアノを弾いた。最初のうちは勝手に弾くなと教師や上級生に怒られた。それでも懲りずに弾いていると、いつの間にかギャラリーができるようになった。流行りのJ-POPやアニメの曲は大体耳で聞いて覚えていたので、それを弾いてやると皆が喜んだ。生徒達だけでなく、教師も観にくるようになった。綺麗な顔立ちをしていたこともあり、多くの女子達がいつも取り巻くようになった。琳太郎は兄のようにたくさんの友達が欲しかったので、いつもニコニコしながらたくさんの曲を弾いてやった。


小学生も高学年になると、友達関係に変化が見られるようになった。クラス全員で遊ぶようなことはなくなり、仲のいい者同士で固まることが増えた。琳太郎には仲のいい男友達がいなかった。いつも女子に囲まれて騒がれている琳太郎を、面白く思わない男子が多かった。琳太郎はどうしたらいいか分からなかった。唯一の楽しみは、ゲームセンターで遊ぶことだった。「太鼓の鉄人」という和太鼓を音楽に合わせて叩くゲームで、これに琳太郎はハマッた。琳太郎が叩いていると、ここでも人だかりができた。


中学生になると、すでにピアノコンクールでは高校三年生以下レベルのランクに出場し、優勝経験を果たしていた。琳太郎はどの部活にも所属せず、放課後はピアノの練習をひたすら頑張った。勉強はそこまで得意ではなかったが、いつか海外に留学し、プロのピアニストになりたいと思っていたので、英語の勉強だけは頑張った。姉は結婚し、兄も社会人となり、二人とも家を出て行った。琳太郎の夢を知っているのは母だけだったので、誰とも話が合わなかった。背が伸びて顔つきが男らしくなり、周りの女子達が放っておかなかった。琳太郎は心底、うんざりしていた。彼女達が外見とピアノの腕前にしか興味ないのは知っていた。もともと対人コミュニケーションが得意な方ではなかったこともあり、琳太郎は自分の殻に閉じこもるようになった。


高校に入学して間もない頃、ピアノのレッスンの帰りに駅前広場でクラスメイトを見つけた。彼は音楽をかけ、一人でダンスを踊っていた。興味を惹かれて話しかけると、一緒にやらないかと誘われた。琳太郎はすぐに承諾した。その日から琳太郎はピアノの帰りにはいつも、友達とヒップホップを踊るようになった。最初は体力が無くてきつかったが、徐々に慣れてきて、友達のように踊れるようになってきた。着ている服も友達の真似をしてストリートファッションで固めるようになった。一人でクラシックピアノばかりやっていた琳太郎には、ヒップホップを踊るのは良い息抜きになった。友達に誘われて公園や河川敷にも行ったし、都心のクラブで踊りに行ったりもした。友達繋がりで、ヒップホップ仲間もできた。ピアノ教師と母には心配されたが、ピアノコンクールでは成績が落ちるどころか、琳太郎はランクをあげて入賞した。最終的に特級ランクへ挑戦し、優勝を果たした。


十八歳になったとき、琳太郎は東京の帝国音楽大学に入学した。選んだコースはもちろんピアノ科で、アパートで一人暮らしをしながら、朝も晩もピアノを弾き続けた。これまで教わっていたピアノ教室のレッスンと違い、学科のレッスンは非常に厳しかった。泣き出してレッスンルームから逃げ出す女子学生も多かった。琳太郎はどんなレッスンにも怖気づくことはなく、度胸があったので、講師の言うことなすことすべてを吸収していった。留学に必要であろうドイツ語の学習にも力を入れた。同じようにプロを目指すライバル達に囲まれ、充実した日々を過ごした。

あるとき、週末に街を歩いているとジャズバーを見つけた。琳太郎は好奇心に駆られて店に入った。こじんまりとした店内にはバーカウンターといくつかのテーブルと椅子があり、奥にはステージが組まれ、ピアノやドラムセット、ウッドベース、スピーカーなどが置いてあった。

「いらっしゃいませ」

店員が飲み物のオーダーを取りに来た。琳太郎は慣れない場所に緊張しながら、ウーロン茶を頼んだ。他の客はほとんどが成人した大人達で、カクテルやビールなどを片手に、演奏者が出てくるのを待っていた。

ステージの脇からスーツを着たジャズマン達が登場した。四人いて、一人はテナーサックスを首に下げていた。四人は誰も喋ることはなく、突然演奏を始めた。

曲はジョン・コルトレーンの「ジャイアント・ステップス」だった。早いテンポでテーマを演奏すると、テナーサックス、ピアノの順番でアドリブ演奏をした。アドリブが終わるたびに客席からは拍手や口笛が鳴り響いた。琳太郎は気後れしながらも拍手した。演奏が終わると、センターに立つテナーサックス奏者が挨拶をした。

「こんばんは。今日もいつもの顔ぶれですね」

観客がどっと沸いた。どうやら常連客が大半をしめているらしい。

「この中で、やりたい人はいますか? 俺はちょっと燃料補給しなくちゃいけなくて。あ、すいません、ありがとうございます」

テナーサックス奏者は、店員が運んできたビールを美味そうに飲んだ。客席の中で、誰かが手を挙げた。

「はい、じゃあ、そこのあなた。何やります?」

「ベースで」

手を挙げた者が陽気に言った。

「了解。他にやりたい人は?」

琳太郎は何も言わずにぼんやりとしていたが、急にテナーサックス奏者と目が合った。

「そこの若いお兄さん、どうです? 何かやってみない?」

「えーと、ピアノなら…」

「了解。じゃあここへ来て」

琳太郎は緊張してステージへ上がった。ピアニストが笑顔で椅子を勧める。

「何をやろうか」

テナーサックス奏者が気楽な口調で琳太郎に尋ねた。

「あの。俺、ジャズってやったことなくて」

「ああ、そうなんだね。何なら弾けるかな?」

「えーと…楽譜があれば」

琳太郎がどぎまぎして言うと、ピアニストが一冊の本を持ってきた。開くと有名なジャズ曲がずらりと掲載されていたが、メロディー以外は音符ではなく、コードで記載されている。唯一、過去に耳でコピーして記憶していたのが、ビル・エヴァンスの「枯葉」だった。

「じゃ、勝手に入って。俺達、合わせてくから」

テナーサックス奏者が言うと、ドラマーとベーシストも頷いた。琳太郎は少し目を閉じて思い出すと、「枯葉」のイントロを弾き始めた。

やがて、琳太郎は店でアルバイトを始めた。接客をしながら、ステージに上がるジャズマン達の奏でるジャズに耳を傾けた。時々、ピアニストが足りないと自分が出てセッションに参加した。店に頻繁に顔をだすピアニスト達にコード譜の読み方を教わり、すぐに読めるようになった。クラシックピアノで基礎ができていたので、琳太郎はめきめき上達した。クラシックピアノとは違う、開放感に満ちた楽しさがそこにあった。

大学でその話をすると、同級生には嫌そうな目を向けられた。ジャズを邪道だと扱う人間が一定数いるのを知り、琳太郎はあまりその話をしなくなった。


大学三年の秋になると、琳太郎はオーストリアの音楽大学へ留学した。現地ではドイツ語で授業が行われ、琳太郎は必死で勉強した。ピアノのレッスンも最初は優しいものから始まり、徐々に高度なものへと移行した。ディスカッションも多く、自分の意見を伝えることが重要視されたため、琳太郎のコミュニケーション能力は次第に改善されていった。同じ日本からきた留学生だけでなく、オーストリア人の友達もでき、盛んにピアノを弾きあって意見をかわし、交流を深めた。休みの日には観光名所を巡り、高いチケット代を払ってプロのオーケストラ演奏を聴きにいったりもした。


数々のコンクールで優勝経験を果たし、首席で卒業した琳太郎は、単独でコンサートを開いた。ステージ映えする見た目で話題性もあったので、多くの観客が集まった。観客達は素晴らしい演奏に拍手喝采を送った。その後はCD制作の話を持ちかけられたり、ラジオの出演依頼が舞い込んだり、さまざまな演奏団体からも誘いを受けた。やがて、大学時代から付き合っていた恋人とも婚約した。


「琳太郎。私、今、すっごく幸せ」

恋人が言った。琳太郎達は都心のマンションで同棲し、琳太郎はピアニストとして、彼女はミュージックスクールのピアノ講師としてそれぞれ活動していた。婚約したのは彼女の希望だった。彼女は琳太郎に惚れ込んでいたし、いつも琳太郎に理解があった。琳太郎は彼女に対してピアノほどの情熱を持てなかったが、誰かを幸せにしてあげたい気持ちはあった。結婚して家庭を持ちながら、演奏実績を重ねていくのは悪くないと思った。

「結婚式の披露宴では、余興でセッションしない? グランドピアノを二台使って」

彼女が言った。

「いいね。みんな喜ぶと思うよ」

琳太郎は賛成した。本当は結婚式にも披露宴にも興味を持てなかったが、彼女の思う通りにさせてやりたかった。


「先生…」

恋人の姿が急に消え、琳太郎は取り残された。周りは真っ白な空間で何もない。誰かが呼ぶ声が聞こえるが、姿はない。

「先生…」

正体不明の声が繰り返した。

「先生…」

今度は、何かを堪えているような震え声だった。


琳太郎は目を覚ました。そばには誰もいない。見慣れない病室で、窓から明るい光が差し込んでいた。

つづく

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