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緑谷中学吹奏楽部  作者: taki
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吹奏楽コンクール県大会

明日の準備がすべて整い、生徒達を帰した。雛形は戸締りをすると、竹田と椎名を駐車場まで見送ることにした。

「今日はありがとうございました」

廊下を歩きながら雛形が礼を言った。

「もともと今日は来るつもりだったし、大したことはしてないですよ」

椎名が言った。

「連中もだんだん、たくましくなってきたな」

竹田は頼もしそうに笑っている。

「僕が明日仕事じゃなければ、琳太郎君の代わりに出てあげてもいいんだけど」

椎名が申し訳なさそうに言った。

「そんな。お気遣い、本当にありがとうございます」

雛形は丁重に頭を下げた。

「琳太郎君のことだから、明日は這ってでも出てくるだろうけどね。それじゃあ」

椎名が会釈して自分の車の方へ歩いて行った。

「パパー」

一台のセダンが目の前に止まっている。運転席の窓が開き、女性が声をかけた。

「おー、悪かったな。仕事あがりに来てもらって」

竹田が早足で駆け寄った。

「大丈夫。今日休みだったから」

牡丹が返事した。雛形は牡丹の顔を見て戦慄した。急いで職員用玄関に戻ろうとすると、声をかけられた。

「ねえ」

雛形が振り向くと、牡丹が車から降りてこちらを見ている。

「ちょっと話さない?」

雛形は黙って頷いた。

夕暮れ時になり、牡丹は校庭を大股で歩いていった。雛形は少しだけ距離をとってついていく。牡丹がグラウンドの隅にベンチを見つけて、そこに座った。雛形も隣に座った。

「雛形さん、だっけ? 名前」

「はい」

「今日、これからパパと、琳太郎さんのところにお見舞いに行くの。熱出してるって聞いたから」

牡丹がため息をついた。雛形は黙っている。

「あのさあ、貴方はただの同僚なんでしょ。琳太郎さんにまとわりつくの、やめてくれない」

牡丹はギロリと睨んだ。雛形は少しだけ眉間にシワを寄せて見つめ返した。

「まとわりついてなんかいません。明日は大事な大会があるんです。琳太郎先生にはよく休んで、治してもらわなくちゃいけないから、サポートしているんです。」

「そういうのをまとわりついてるって言うんだよ。迷惑なんですけど」

グラウンドで練習している野球部を見ながら、牡丹は吐き捨てるように言った。野球部のピッチャーは球を投げつける。バッターは空振りして、キャッチャーがキャッチングした。雛形は下を向いてこぶしを握りしめるものの、何も言い返せなかった。

「はっきり言ってあげたほうがいいのかな。どうなのかな」

牡丹は敵意を隠そうともせず、せせら笑った。ピッチャーは再び投げた。またしてもストライクだった。牡丹は雛形の横顔に自分の顔をぎりぎりまで寄せて、下の方から見上げる。

「私達、つき合ってるの」

牡丹がゆっくりと、はっきりした声で言った。バッターがカキーンと打つと、一塁の走者が二塁に目掛けて走った。思わず雛形は牡丹の顔を見た。勝ち誇ったように笑っている。

「へえ。そうなんですか」

雛形は平静を装った。

「うん。だからね、金輪際、彼に干渉しないで。家にも来ないで。彼、迷惑してるから。分かった?」

牡丹は丁寧に、猫撫で声で言った。口元は笑っているが、目は笑っていない。雛形は牡丹を頭のてっぺんから足のつま先まで見渡した。明るいピンク系ブラウンのロングヘアは緩やかにカールさせ、目には濃いアイメイクをして、ツヤ感のあるコーラルピンクの唇は少し厚くて肉感的だ。大きな胸とくびれたウエストがはっきりわかるような、明るいヒマワリ色のシャツワンピースを着て、堂々と足を組み、白いスニーカーを合わせている。雛形よりもずっとグラマーで、全身から色気を発散させていた。

「すいません。分かりました」

雛形はベンチから立ち上がると、すたすたと歩いて行った。


スマートフォンの着信音が鳴り、雛形は目を覚ました。帰宅してからそのまま、ベッドに伏していたらしい。画面を見ると、琳太郎からだった。

「はい」

雛形はおそるおそる電話に出た。

「雛形先生、お疲れ様です。どうでした、今日」

琳太郎がしわがれた声で聞いた。

「あー、はい、ええ、大丈夫でしたよ。問題ないです」

雛形は努めて明るい声で言った。

「そうですか。本当にすいません、助かりました。あいつら、どうしてたかなって」

琳太郎はゴホゴホと咳き込んだ。

「みんな心配してましたよ。でもあの子達も団結して、頑張るぞー!って言って、今日も部活やってましたよ。竹田さんと椎名さんが来て、合奏もみてくれました。大丈夫だと思います。あと、念の為ってことで、明日は副校長先生も引率でついてきてくださるそうです」

雛形は言いながら鼻がつうんとした。視界がぼやけてくるのが分かった。

「俺、明日は出なくてもいいかもしれないっすね」

電話の向こうで琳太郎が笑って、少し咳をした。雛形は声もなく頷いた。涙が頬を伝った。

「また、そんなこと言って。明日のためにまだよく寝てください。あと、それとー」

そこに牡丹さんが来ているんですか、と聞きそうになり、雛形は言葉を引っ込めた。

「はい?」

琳太郎が聞き返す。

「いえ、何でもないです。こんなの電話するほどのことでもないですよ。喉痛いんだから、メッセージでいいのに」

「雛形先生の声が聞きたかったんですよ」

琳太郎が少し寂しげな温かい声で言った。雛形の涙の粒は先ほどよりも大きくなり、ボタボタとフローリングに落ちた。琳太郎に気づかれないように、音を立てないように呼吸を整える。

「そういうのは彼女さんに言ってくださいね。おやすみなさい」

「え?」

雛形はブツッと通話を切ると、スマートフォンを放り投げ、ベッドに顔を埋めた。


翌朝は快晴だった。朝から気温は三十度を超えていたが、校庭のアサガオはたくさんの花を咲かせ、ツクツクホウシの鳴き声が響き渡っていた。

琳太郎はマスクをして第二音楽室にやってきた。部員達が駆け寄り、琳太郎を取り囲んだ。雛形と副校長は少し後ろに控えて、様子を見守っている。

「みんな、昨日は本当にすまなかったな」

琳太郎が謝った。

「大丈夫です。先生は腕とか、大丈夫なんですか」

直樹が尋ねた。

「ああ。大丈夫だ。指揮は振れる」

琳太郎がにっこりして、少しだけ咳き込んだ。力強く指揮を振る仕草をしてみせた。

「そうだ、鶴岡」

琳太郎が響の方を見て言った。

「はい」

響は怯えたような顔をして返事をした。

「お前が無事で、本当に、本当に良かった」

琳太郎は穏やかな声で心から言った。響は下を向いて、聞き取れないほど小さな声で「はい」と言った。

「よーし。出発までもう少しだけ時間がある。合奏やるぞ!」

琳太郎が呼びかけると、部員達は急いで合奏の準備を始めた。

トラックが来ると、部員達は皆で楽器を搬入した。バスも続いて到着し、速やかに乗り込んだ。県大会の会場は緑谷町から遠く離れた埼玉県南部にあるため、移動に少し時間が掛かる。二年の男子達は後部座席に固まって座った。

「それでさー、直樹は鶴岡さんと付き合ってんのー」

バスが高速道路に乗る頃、最後列の中央の席に座った銀之丞が、いきなり切り込んできた。

「何言ってんだよ」

一人だけ一列前に座っている直樹が、ムキになって後ろを振り返った。周りの男子達も囃し立てた。響は数列前の席で、梅子と並んでおしゃべりしている。

「だってさー、鶴岡さんにハンカチ貸してあげたんでしょー。それ無くしちゃ大変って、取りにこうとして溺れたんでしょー。ロマンスぅー」

銀之丞が頬に両手をあてて言ってみせた。

「違うよ」

直樹は顔を真っ赤にして反発した。

「しかもー、人工呼吸したのって直樹なんでしょー」

銀之丞はエスカレートして、目を閉じ、唇を突き出してみせた。皆は「キャー」と言ってバカ騒ぎする。健治は両手で顔を覆い、指の隙間から直樹を見、薄気味悪い顔で笑う。直樹は空のペットボトルで健治の頭を殴った。

「いいんじゃないの。鶴岡さんておっかないから、男と付き合ってもっと大人しくなってほしいし」

健治は高速で瞬きをしつつ、まるで何かを祈るように顔の前で指を組んだ。

「問題はだね、敵が多いってことだね。鶴岡さんにはファンが多いからね。暗い道は一人で歩かないほうがいいね、直樹」

公彦が真面目な調子で言うと、周囲はバカ笑いした。

「だから違うってば」

直樹が必死で言うと、響がちらりとこちらを見た。直樹は心拍数が一気に上昇した。

「もういーじゃねーか。違うって言ってんだから」

怜が不機嫌そうに制した。イライラしてて、膝を貧乏ゆすりさせている。

「あれー。今日は乗ってこないじゃんー。どうしたの怜ー」

銀之丞が不思議そうに尋ねた。

「そういえば、まりあはお前のことが好きだよな、絶対」

錬三郎が怜の肩を掴んで面白そうに言うと、再び周りが黄色い声を発した。

「うるせーよ。知らねーよ、あんなガキ」

怜は吐き捨てるように言う。

「でも水着姿は、結構可愛かったよねえ」

健治が思い出しながら言った。

「俺はもっと乳がバーンって出て、ケツもバーンって出てる女がいいんだよ」

怜がジェスチャーをつけながら言った。

「…それって梅ちゃんじゃん」

健治がボソリと言うと、爆笑が起こった。

「そうだそうだー。怜の嫁は梅ちゃんだったー」

銀之丞がおもちゃ用のタンバリンをカバンから出し、打ち始めた。怜はふんっと窓の外を見て、会話から離脱した。直樹は怜に何か言おうとしたが、やめておいた。

副校長が後部座席の喧騒に向かって、サービスエリアに着いたらトイレに行くよう伝えた。一同は元気よく返事した。

雛形は隣を見る。琳太郎は最前列の席で膝掛け毛布を肩にまでかけ、目を閉じていた。まだ本調子ではないらしく、額にじんわり汗をかいている。ときどき咳き込んでしんどそうにしているので、眠れているわけではなさそうだった。通路を挟んで反対側に座っている雛形は、心配でその様子を横目に何度も見た。頭の中で琳太郎が話しかけてくる。

(自称ももちゃん、可愛いね)

(俺は雛形先生一筋ですよ。一番可愛くて、一番信頼できる)

(熱がなかったら結婚を申し込んでるところでした)

今度は、牡丹が話しかけてくる。

(はっきり言ってあげたほうがいいのかな)

(私達、つき合ってるの)

(彼、迷惑してるから)

雛形はため息をついた。騒々しい車内のなかで、そっと呟く。

「残酷な男」


バスが会場に着くと、一同はトラックの元へ駆けつけた。管楽器だけ出して、広大な駐車場で音出しをした。他校の生徒達も同様に、駐車場で派手に音出しをしている。

「時間になるまでリハーサル室に入れないから。先にお弁当にしよう」

雛形がそう言って、手配しておいた弁当を一人一人配った。部員達は縁石や芝生の上にしゃがんで食べ始める。副校長は受付をしてくると言って、会場に入って行った。

「雛形先生、琳太郎先生はどうしたんですか?」

直樹が聞いた。

「ああ、どこだろう。トイレかな?」

雛形は言いながら心配になった。

「とにかく、早く食べちゃいましょ」

雛形は直樹に言って、割り箸を割った。


会場のさいたまシンフォニーホールは、以前に皆で「遠足」に来た場所だ。あのときはリハーサル室に入っただけだったが、今回は大ホールを利用する。大ホールは2050席の観客席を有し、コンクールだけでなくプロの演奏団体による演奏会も頻繁に催されている。毎年ここで吹奏楽コンクールの県大会が行われ、多くの学校が訪れる。ミド中を含め、今年は二十五の中学校が集まった。

一階ホワイエの脇にある男子トイレで、琳太郎は個室に入り、うずくまっていた。朝よりも咳がひどくなり、マスクをしているのが苦しくなってきた。頭が割れるように痛く、めまいがする。額に手を当てると、かなり熱かった。雛形が琳太郎のアパートに置いていった救急箱の中には解熱鎮痛薬が入っていたので、今日はそれを持ってきた。個室を出て、手洗い場で飲む。鏡の向こうにいる自分を見つめた。別人のようにひどくやつれて、目が落ち窪んでいる。

「やってやる」

琳太郎は自分に言い聞かせた。

ミド中の吹部達が案内係に呼ばれ、リハーサル室に入った。それが済むと、ステージ袖に移動した。他にもいくつかの学校が袖で待機している。

「ねえ、見て。あれって夕霞(ゆうか)第一中学じゃない?」

「え、いっつも金、とってるとこ?」

「そうだよ。すげーな。あんなのが出てんのかよ」

「あっちは飯奈(いいな)学園だし」

「無理。本当に無理」

部員達は怯んでいた。地区大会のときと他校の生徒達の面構えも、雰囲気も違った。どの学校も地区大会を突破してきた猛者である。中途半端な学校は一つとして存在しない。

「鳥飼先生」

ブレザーを着た他校の女子生徒が琳太郎に話しかけてきた。琳太郎は驚いてその生徒を見る。

「おお、久しぶりだな」

「先生にここで会えるなんて」

女子生徒は感激して言った。

「先生、先生」

同じ制服を着た生徒達が、次第に寄り集まってきた。琳太郎はすっかり取り囲まれてしまった。ミド中の生徒は驚いてその様子を見守った。

「先生、今、どこの学校にいるんですか」

「緑谷町の緑谷中学だよ」

「へえ、どこですか、それ」

琳太郎がミド中の一団を指差した。一斉に目を向けられ、直樹が軽く頭を下げた。都会の中学生にじろじろ見られて、ミド中吹部は萎縮した。

「先生。また戻ってきてください」

先ほどの女子生徒が懇願した。他の生徒も琳太郎に訴えた。琳太郎は困ったように微笑んで、彼らの肩を順番に抱いた。

しばらくして、その学校の番がめぐってきた。

「十六番。さいたま市立枕木(まくらぎ)中学校」

司会がアナウンスすると、彼らは指導者に率いられ、ステージへ移動した。

「あの人たち、枕木中だって」

健治が目を見開いて言った。

「じゃあ、琳太郎先生が前に居たとこってあの学校だったの?」

梅子が驚いて言った。

「枕木中って?」

怜が聞いた。

「全国大会とかよく出ている学校だよ」

直樹が苦虫を噛み潰したような顔で言った。

「よし。お前ら、今日も覚悟はいいか」

琳太郎がミド中吹部のもとに戻ってきた。マスク越しにニヤリとしながら、ジャケットのポケットをまさぐった。

「あ、ドテカボチャ」

健治が言った。

「そう。今日もあれ、言うぞ。また怒られないよう、小さめの声で」

琳太郎がひそひそ声で言うと、皆は円陣を組んでくすくす笑った。雛形も少し離れたところから微笑む。副校長は何のことか分からず、傍観していた。

「会場は畑、観客はカボチャ、審査員はドテカボチャ。はい」

琳太郎が促した。

「会場は畑、観客はカボチャ、審査員はドテカボチャ」

琳太郎が言った通り、部員達は小声で繰り返した。

「もう一回。会場は畑、観客はカボチャ、審査員はドテカボチャ」

「会場は畑、観客はカボチャ、審査員はドテカボチャ」

琳太郎が急に咳き込んだ。雛形は心配そうに一歩だけ近づく。暗がりだし、マスクをつけているのでよく見えないが、琳太郎はこめかみや額に大量の汗をかいている。琳太郎は顔を上げて、ドテカボチャを振りながら言う。部員達に笑顔が生まれた。

「会場は畑、観客はカボチャ、審査員はドテカボチャ」

「会場は畑、観客はカボチャ、審査員はドテカボチャ」

「会場は畑、観客はカボチャ、審査員はドテカボチャ」

「十七番。緑谷町立緑谷中学校」

司会がアナウンスした。

「おーし、カボチャの収穫すっぞ」

琳太郎が言うと皆は声のトーンを大きくして笑った。雛形は不安に駆られたが、無理矢理笑顔をつくった。

「みんな、リラックスして行ってね」

雛形は生徒一人一人の肩に触れて声がけをした。副校長もぎこちないなりに、皆を励ましていた。

全員がステージに移動し、配置についた。直樹は観客席を見た。前回よりも遥かに大きく広々として、ほぼ満席状態だ。

「カボチャ取り放題」

直樹の隣に座っている健治がニヤニヤしながら小声で言った。

「収穫祭だね」

響も静かな声で言い、リードのコンディションを確認していた。

「パーティーだ」

直樹はゾクゾクとワクワクを感じながら囁いた。

一旦ステージ袖に引っ込んだ琳太郎が、ステージ中央に歩いてきた。琳太郎は背筋を伸ばし、頭を下げた。客席からは控えめな拍手が上がる。指揮台に上がると、両手を構えた。部員達が一斉に琳太郎を見つめた。

琳太郎の意識は、熱で朦朧としていた。ステージのスポットライトが眩しく、今にも倒れそうだった。飲んだ解熱鎮痛薬は、昨日ほど効かなくなっていた。怪我した左腕もひどく痛んだ。決死の思いで、タクトを振り上げた。

部員達は練習通り演奏を始めた。始めたのに、なぜかまともに聞こえてこなかった。おかしい。左腕の傷がうずいた。めまいがひどくなり、息が苦しい。

課題曲はいつの間にか終わった。良かったのか悪かったのか、何も分からなかった。それでも体が覚えていたのでタクトを振り上げる。公彦のトランペットとともに自由曲が始まった。あれは多分、吹いているんだろう。吹けているのかは分からないが。もう、自分が今どこにいて、何をしているのかも分からなかった。すべては他人事のように進行した。遠くの方で楽器の音が聞こえる。誰かが吹いている。誰かが叩いている。目の前が次第にぼやけていき、モザイク模様になった。生徒の顔が、一人も分からなくなった。

ステージ袖にいた雛形は固唾を飲んで見守った。琳太郎の指揮はいつもほどのアグレッシブさがない。姿勢が悪く、体が少し前のめりになっている。最初は両手で指揮をしていたのに、途中から左手を下ろしてしまった。琳太郎が痛みに堪えているのは明らかだ。

「先生…」

雛形は歯を食いしばった。祈るしかなかった。演奏が終わるまでの時間が、永遠のように思われた。

ようやく演奏が終わり、琳太郎は部員達を起立させた。琳太郎は指揮台から降りて、頭を下げた。客席から大きな拍手が沸いた。

皆でステージ袖へ向かい、出場者用の通路へ出た。一斉におしゃべりが始まったが、琳太郎の耳には入らなかった。肺が苦しく、心臓が激しくドクドクと脈打つ音が聞こえた。頭痛も激しくなり、モザイク模様の世界の中で渦が巻いた。自分が人の波に揉まれているのだけは分かった。通路の上を靴で歩いている感覚も次第に無くなっていった。遠くの方からサイレンのような音が鳴っている。水の中に潜ったときのように、何もかもがくぐもって聞こえる。誰かの声がエコーのように鳴り響くが、何を言っているのかまでは聞き取れない。やがて頭上にあったはずの明かりが遠ざかり、見えていたモザイク模様がゆっくり、九十度回転した。

「先生! 先生!」

生徒達が悲鳴をあげ、その場は騒然となった。雛形が生徒達の間を縫って前へ進み、琳太郎の元へ走り寄った。琳太郎は床に倒れ、意識を失った。

つづく

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