鳴沢学園雅楽部
二日後の朝、研究授業のために、琳太郎は隣の白錫市にある鳴沢学園を訪れた。
中学校における研究授業は活発に行われているものの、それは国語科、数学科、理科、社会科、英語科に限られた話だ。教員同士の交流も兼ねて、今回は音楽科の教師が集まった。
鳴沢学園は名門の私立校である。緑谷町を含め近隣は田舎なので、幼稚園、初等部、中等部、高等部まである学校法人は珍しい。その上には複数の学部を備えた鳴沢大学もある。戦前から体育や音楽、美術の分野に専任講師をおき、部活動も活発だ。中等部では音楽講師の指導に定評があり、その講師・鉛田が率いる吹奏楽部は全国大会の常連校として知られていた。
研究授業を行うのは鳴沢学園中等部であり、その様子を見学するのは近隣の公立中学の教員と教育委員会である。ベテラン教師の鉛田のもと、授業は進められていく。
琳太郎は授業見学を心から楽しんだ。この日は合唱の授業で、女子がソプラノとアルトのパートに分かれ、男子がテノールのパートを担当する。中学生は声変わりの時期なので、テノールより低音域のバスのパートは設けないらしい。
鉛田は五十代の男性である。いかにも芸術家という風情で、肥満体にぴったりに作ったであろうオーダースーツを着こなしている。頭上はつるつるに禿げ上がり、後頭部に残った灰色の髪はくるくると縮れ、肩まで垂れている。生徒達に歌わせながら、鉛田はピアノで伴奏した。時々弾くのをやめて、各パートごとに細かい指示を出す。その際、「野に咲くすみれのように」とか「大海原へ冒険に出かける勇者のように」とか「キュートな乙女心を抱きしめるように」とか「イバラを突き進む戦士のように」とか、いちいちロマンチックに指導するので、琳太郎は笑いを堪えるのに必死だった。周りの教員達も口元の筋肉を震わせているので、同じ思いなのだろう。
チャイムが鳴って生徒達が退室すると、教育委員会と教員とで机を寄せ集め、座談会をした。公立の教員だけでなく、教育委員会ですら鉛田に敬意を払い、授業が素晴らしかったことを延々と繰り返すばかりで、授業のあり方について問題を指摘したり、深掘りをする者はいない。鉛田もまんざらではないらしく、「公立中学の音楽授業の底上げを願うばかりです」とか「いつでもうちに見学に来ていただきたい」とか「力になりたい」などと言う。妙に芝居がかった深いテノールの声なので、何か言うたびに縮れ毛が揺れる。琳太郎はあくびをしながら時間が過ぎるのを待った。
お開きになる頃、琳太郎は鉛田に声をかけた。
「ご相談したいことがありまして。この後、お時間ありますか」
鉛田について廊下を歩いていくと、琳太郎は「音楽教官室」に通された。どうやらこの学校には、音楽科専用の職員室が用意されているらしい。室内には若い教師が二人いて、琳太郎に向かって軽く会釈した。
「どうぞ」
鉛田は部屋の奥にある、応対スペースに案内した。そこはパーテーションで仕切られており、座り心地の良さそうな革張りのソファがローテーブルを挟んで二台、向かい合わせて置かれていた。窓からはさんさんと明かりが差し込み、豪華な装飾を施した花瓶や絵画が飾られていた。鉛田はソファを琳太郎に勧めた。琳太郎は行儀良く膝を揃えて座る。
「話というのは?」
鉛田が優雅な仕草で紅茶をカップに入れ、ローテーブルに置いた。琳太郎は頭の後ろをさすりながら切り出す。
「楽器をお借りしたくて」
「楽器?」
「ええ。ティンパニなんですけど」
琳太郎が上目遣いに鉛田の様子を見ると、ティーカップに口をつけたまま眉間に皺を寄せている。
「なるほど」
「うちのは随分古くて、修理でどうにかなるレベルではないんですよね。買い替えたいけど、町からの予算ではとても…。でも、コンクールで使いたくて」
琳太郎が事情を説明した。
「なるほど」
鉛田はカップをソーサーの上に置いて足を組んだ。琳太郎は背筋を伸ばしてみせた。
「ティンパニは、うちには二セットある」
「はい」
「一つはコンクールで使う。もう一つは、少々古いものだ。修理は必要になる」
鉛田はダンディーな声で、もったいぶって言った。
「そうなんですね」
琳太郎は気にせず、相槌を打った。
「ティンパニは高価な楽器だ。ただ、古いとはいっても、まあ、四台分で十五万あれば足りるだろう」
「十五万」
琳太郎は復唱した。
「四台で一セット、新品だと二百万はかかるでしょう。でもうちの修理品でいいなら十五万。それと、運搬費をそちらで負担してくれるならお貸ししますよ」
鉛田が目を細めて言い、紅茶を一口すすった。
「そうですか…」
琳太郎は顔を指で掻きながら思案した。
「鉛田君! ちょっといいかね」
突然、パーテーションの脇から男性が鉛田を呼んだ。
「はい。あ、ちょっとすいません」
鉛田が席を立つと、琳太郎もパーテーションの向こうの様子を見た。何やら揉めているようだ。
「鋸山、どうするつもりだ? 間に合わないぞ…」
「金城先生すみません。連絡がつかなくて…」
「鉛田君、なんとかならんかね…」
声のボリュームが大きすぎて、琳太郎の座っているところにも丸聞こえである。どうやら鳴沢学園には雅楽部があるらしい。そこの楽器が壊れて、今日の演奏会に修理が間に合わないと揉めているようだ。吹奏楽部顧問である鉛田のつてを頼って相談しにきたのだろう。琳太郎は聞き耳を立てる。
「すみません、私も手を尽くしましたが、対応できる修理屋が見つからなくて」
謝っている方が雅楽部の顧問・鋸山で、怒っている方が講師の爺さん・金城らしい。
「おい、見せてみろ。これなんだが、鳴らない。見た目にはどうも、よく分からなくてな…」
金城が鉛田に楽器を見せているようだ。
「知り合いの修理屋に連絡とってみますね」
鉛田がスマートフォンで何件か電話をかけ始めた。
「そうですか…わかりました」
電話を切ると、鉛田は咳払いしてから切り出した。
「あいにく、見つかりません」
鉛田は金城に告げた。一瞬の静けさの後、再びああでもない、こうでもないと言い合った。琳太郎はソファを立って彼らをやり過ごした。揉めている中に、男子生徒も一人混じっていた。黙っているだけで何も言わない。彼が手に持っているものは、何やら小さな筍のような形をした楽器だった。琳太郎はそれを見て、音楽教員室を出て廊下に出ると、電話をかけた。
「あのーすいません。修理お願いしたいんすけど」
三十分後、一台のステーションワゴンがあまや楽器の駐車場に到着した。車から降りてきたのは琳太郎と鉛田、金城、男子生徒、それに運転手である鋸山の計五人である。
「いやいや、まさかこんな山奥に楽器屋さんがあったとは」
金城が明るく愛想のいい声で言った。
「みんな、大手のヤマパやカワノ楽器に行きますからね」
雛形の父・安彦は自嘲して玄関扉を開けた。金城が一番先に店内に入ると、周りをきょろきょろ見回した。商品棚に置いてあるのはトランペットやサックス、クラリネットなど洋楽器ばかりだ。和楽器の一切は見当たらなかった。
「鳥飼さんとお知り合いで助かりましたよ。こちらは雅楽楽器も取り扱っているんですか?」
金城が聞くと、安彦は仏頂面で言う。
「こいつとは全然、知り合いなんかじゃありません。雅楽楽器は注文して取り寄せならやってます。完全に受注生産なので、見本はおいてないんです。こちら、どうぞ」
「こりゃどうも」
安彦が丸椅子を勧めると、足の悪い金城はすぐに座った。ほかの四人はぞろぞろと店内になだれこみ、金城の後ろに立った。
「まあまあ。突然電話してすいません」
琳太郎が謝りながら、安彦を取りなした。
「お前はよく、俺が雅楽楽器の修理もできるって分かったな」
安彦は不機嫌になりつつも、訝しげに琳太郎に聞いた。
「雛形先生がこの前、話してくれたんですよ」
琳太郎は説明した。
「お前が娘と話していいのは業務時間内だけだ。分かったな」
安彦が琳太郎をギロリと睨んだ。琳太郎は素早く首を縦に振った。
「あ、あの、僕は近隣の修理屋にあたってみたんですが、どこも洋楽器は対応できるけど、和楽器は対応できないっていうんで、困っちゃいました。和太鼓ならできるってとこはあったんですけども」
鋸山がしどろもどろで弁明した。
「新卒のバカめが!」
金城が一喝する。鋸山は「ヒェッ」と言ったのち、懲りずにまだ言い訳を並べる。
「いつも来てもらってる業者も、今日は遠方に出張してしまってて」
安彦は男子生徒から楽器を受け取った。急に優しい目つきになった。
「この笙はどこで買ったんだい?」
安彦が聞いた。笙は、十七本の細い竹をリング状に並べて構成された管楽器だ。遠目に見るとちょうど小ぶりな筍のような形をしていて、息を吸ったり吐いたりして音を出す。
「神羅です」
生徒が答えた。神羅は質の良い雅楽楽器や能楽楽器を扱う一流楽器店として、一部に知れわたっていた。ただ、店舗が鳴沢中学校のはるか遠方にある。そこの職人に頼みこんですぐ来てもらえる距離にはない。
「へえ。どおりでいい楽器なわけだ。プロが使ってるやつと変わらないな」
安彦はじろじろと笙の状態を確かめた。ほかの者も黙ってその様子を見守る。
「大丈夫ですかね」
男子生徒が不安げに尋ねた。
「うん、大丈夫だよ。竹が痩せて、乾燥しちゃったんだね。今日の会場はどこだ? 何時入り?」
安彦が笙の帯を外して、竹を一本抜きながら聞いた。
「白錫文化ホール、第三控え室に六時入りです」
「了解。琳太郎、お前はちょっと手伝え」
「え? 俺、何にも知識ないっすけど」
琳太郎は両手を振って、言った。何をやらされるのかと身構える。
「俺のためにコーヒーを淹れろ。キッチンでサンドイッチも作れ。今すぐ」
「はい」
琳太郎を除く一同は鳴沢学園に戻った。安彦は売り場の横に隣接した作業室に閉じこもり、修理に取り掛かった。琳太郎は扉の隙間からちょっとだけ様子を伺った。どうやらこの作業室が安彦の聖域らしく、大きな作業テーブルのほか、修理に使う様々な備品や材料が所狭しと置かれている。琳太郎は店の隅にあるキッチンへ向かった。ちょうどワンルームマンションにありそうなこじんまりしたキッチンだが、流しもガスコンロもあるし、必要最低限の調理器具は用意されている。小さな冷蔵庫の中にはレタスとトマト、きゅうり、ボンレスハム、合鴨ロースト、卵など食材のほか、プリンやゼリーがぎっしり詰め込まれている。隣の戸棚には食パンが一斤しまってあった。琳太郎は腕まくりして、料理に精を出す。琳太郎は一人暮らしが長いので慣れたものである。やがて特大のクラブハウスサンドイッチが完成した。安彦に差し出すと、彼はムシャムシャと食べ始める。ほとんど咀嚼せず、あっという間に平らげてしまった。
「どうすか。美味しいでしょ」
琳太郎が自信満々に聞いてみた。
「コーヒーおかわり」
「はい」
「プリンもな」
「はい」
安彦が作業を再開したので、琳太郎はキッチンに戻った。
その日の夕方五時十五分に、あまや楽器のミニバンがホールに到着した。男子生徒は安彦と琳太郎を見つけるや否やすっ飛んできた。本番用の装束を着、足袋を履いた状態で走ってきたので、頭にかぶった烏帽子がずり落ちそうになった。
安彦の見ている前で、男子生徒は専用の電熱器で笙を温める。笙は演奏前に必ず温めなければならない。温まったのを確認後、彼は笙を構えた。柔らかく雅やかな美しい音色が、控え室に響いた。
「出た」
生徒は泣きそうな顔をしてつぶやいた。見ていた金城もほかの雅楽部員達も、何度も頷いている。
「よし、とにかく合わせよう」
金城が慌ただしく部員を集めて、リハーサルを始めた。
白錫市主催の「しろすずスプリングフェスティバル」は盛況だった。ハープの演奏に始まり、合唱、バンド演奏、日本舞踊、演劇と多種多様な演目が次々に披露される。鳴沢学園雅楽部の番になり、演奏が始まった。笙は雅楽の中で一番最初に音出しをする楽器なので、ここがきっちりできたことは大きいだろう。笙の後には篳篥、龍笛、鞨鼓、琵琶、箏と続く。演奏は中学生とは思えないほど素晴らしかった。笙は美しく鳴っていたし、明らかにおかしなところはないと琳太郎は思った。観客席からは盛大な拍手が湧き起こった。
楽屋にはさまざまな関係者が集まり、金城を取り巻いていた。素晴らしい指導者だとか、毎年技術が向上しているのは先生のおかげだとか言って花束を渡し、誰もが金城を褒めそやした。金城は至極満足そうに頷いていた。
「素晴らしい演奏でしたね」
琳太郎が人混みを縫って金城に近づくと、声をかけた。
「ああ。君達のおかげだ。本当に助かったよ。ありがとう」
金城は心からの感謝を伝えた。
「そこで、お願いなんですけど」
「なんだね」
金城は聖母マリアのように慈悲深い笑顔で聞き返した。
「鳴沢学園のティンパニをお借りできませんか。無償で」
「ティンパニ?」
金城は目を丸くした。
「ええ。ついでにピッコロもお借りできると助かるんですけど」




