どうせ自分はバカだから
直樹は響を見つめ、絶句した。遠くに聞こえていた風の唸りが次第に近づき、強まっていた。響は顔を上げた。直樹と視線がぶつかると、唇を噛んだ。
「もう、無理」
響は小刻みに体を震わせて言った。直樹は唾を飲み込み、その姿を見つめる。
「なんで?」
頑張って出した声は裏返り、自分もまた震えているのが直樹には分かった。何をどううまく聞き出せばいいのか、皆目わからなかった。
「なんでも」
響は伏し目がちに言う。
「わかんない。どうしてだよ」
直樹は疑問と怒りを交えて聞いた。少し遅れて、悲しみも波のように押し寄せてきた。
「だって。うちより、部活の方が大事なんじゃん」
響が直樹の目をまっすぐ見て、力を込めて言った。直樹は驚いて上体をややそらす。
「はあ? そんなことねえよ」
直樹は言い返した。
「うちが会いたいとか、遊ぼうとか言ったって、いつも付き合ってくれないじゃん」
「だから、そんなことねえよ」
直樹は同じ言葉を今度は若干、挙動不審気味に言い返す。少々、思い当たることがあった。
「じゃあなんで、うちのこと無視して健治とどっか行くの。それだって理由言わないし、隠し事するじゃん」
「それはだって。言えねえよ。言いたくないことだって、ある」
「言いたくないことって、何」
「だから言えないんだよ」
「何それ」
「何でも」
「へえ。友達思いだね」
響は嫌味ったらしく言った。直樹はそれには構わなかった。健治のプライバシーを守るべく、そこは黙っておくべきだ。健治は自分にしか絵の話をしない。いくら彼女でも、そこに響を立ち入らせてはいけないのだ。
「一緒に帰ろうって言っても、帰ってくれない」
響が低い声で言った。
「それはたまたまだろ」
「それが何回あったと思う? カウントしたほうがよかった?」
「いらないよ、カウントとか」
直樹は声を荒らげた。
「じゃあ、全部、うちが悪いの? うちがワガママなのかな」
「そんなこと言ってないよ、別に」
「ほんとうはうちのこと、ウザいんだよね」
「ウザくないよ」
「ううん、ウザいんだ。うん、分かってる。ウザい、ウザい」
「そんなこと思ってないよ」
直樹は逆上して否定する。どう言えば伝わるのか、分からなかった。
「あのさあ」
響はイライラして片足で足踏みした。直樹はその足を、何とはなしに見た。
「うち、こないだの花火大会、大鷹くんと行ったんだ」
響はあさっての方角を見ながら、投げやりに言った。
「え? 怜と?」
直樹は素っ頓狂な声をあげる。
「そうだよ」
「何でだよ」
直樹が怒って食らいついた。
「直樹はいとこが来て忙しかったんでしょ」
「忙しいなんて言ってない。一泊だけだったし、それに…」
「大鷹くんはうちのこと、ほったらかしにしない」
響は威圧的な声で遮ると、直樹はその迫力にたじろいた。
「うちが傷ついてるの、分かってくれた」
「ねえ、響、ちゃんと話そうよ」
「うちのこと、ちゃんとみてくれる」
「俺だってみてる」
「直樹はみてない」
「響」
「とにかく」
響は大声で遮り、直樹を睨みつけた。目には涙が溢れ、ぼろぼろと頬を流れ落ちた。
もう、嫌だ。こういうのが嫌だ。直樹のことは好きで、嫌いだ。いつだって部活、部活だ。自分はもっと二人で一緒にいたい。でも伝わらない。合宿のときだって、音羽が伊久馬と星を見に行くと言っていたのを聞いて、自分もそうしたいと思って声をかけた。でも、直樹はやけに健治とばかり一緒にいる。こちらの思いを聞き入れてくれない。ぞんざいに扱われ、傷ついた。でも前から、直樹はずっとそんな感じだ。いつも誰かに構っている。部長だから仕方ないのか。そうも思えなかった。単純に面倒ごとに首を突っ込むのが好きなのだ。要はただの暇人だ。そうすることで、自分の重要性を高めていたいのだ。
告白されたのは嬉しかった。ずっと好き同士だと思ってた。そう思いたかった。でも違う。だんだん遠くなってった。だんだんダメになってった。空回りして、格好悪い。愚かだ。どうせ自分はバカだし、お荷物だ。直樹のやりたいことの邪魔になってる。何度も泣いた。悲しかった。自分なんか消えちゃえばいい。どうして消えない。こんなに苦しいのに。
怜は違う。普段の怜は「可愛い子は全部俺の」と言い切り、梨花や他の女子にちょっかい出しては笑ってる。さらに、自分が女子に人気があることも分かってて、それをネタにしてふざけたことを言い、みんなを笑わせる。怜のそういうサービス精神は友達として好きだ。でも、怜が自分に向けてくる目は友達に向ける目と違った。合宿のときに、怜が焼きもろこしを手渡してくれた後、自分に言った。直樹なんかやめて俺にすればと。笑ってふざけている感じはあったが、バカにする感じはなかった。それどころか、笑いがだんだん消えてった。優しい目になって、最後は真剣な目になった。一回、振っているのに、怜はまだ自分のことが好きなのだ。気まずかったが、嫌な気持ちにはならなかった。
怜が好きなわけじゃない。でも、いい人だと思った。少なくとも直樹より、自分のことを大切にしてくれると思えた。直樹とはもう無理だ。自分が直樹を振るんじゃない。自分がすでに振られたのだ。
響は目を逸らし、天谷川の川面に目線を落とした。
「もう直樹のこと、彼氏だって思えない」
天谷川の橋の上に立ち、夕陽を背に浴びながら、響がつぶやくように言った。絶え間なく涙を流す、響の思い詰めた目を見て、直樹の頭に浮かんだ言葉はすべて雲散霧消した。ただただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。響は直樹を残し、走り去っていった。
同じ頃、怜は錬三郎と第二音楽室に残っていた。新しく配られた楽譜を見ながら、二人で合わせ練習をしていた。
「ビッグバンドの合奏、早くやりてえな」
怜は機嫌よく、明るい声で言った。
「うん。いいよな。俺、前からやってみたかった、ビッグバンド」
錬三郎もアルトサックスのマウスピースから口を離し、快活に笑った。それから、怜の顔を興味深そうに見つめた。怜は口笛を吹いている。
「怜」
「何?」
「お前今日、やけによく喋るな。テンション、高すぎじゃね?」
「えー? ぐわははは。まあビッグバンドやることになっちまったからよ。ワクワクする」
怜は笑って答えた。
「ふーん」
錬三郎は目を細めて頷く。
「なんだよ、ふーんて」
「別に」
錬三郎はそう言って、怜をじっくり観察する。怜は目をそらし、トロンボーンを片づけ始めた。
「あのさ」
怜は錬三郎の視線に耐えられなくなり、楽器をクロスで拭きながら切り出した。
「うん、何だよ」
錬三郎は視線をアルトサックスに戻し、スワブを通しながら聞く。
「鶴岡に、門田の花火大会に行こうって言われてさ」
「へー。なんだよその話」
錬三郎は語気を強め、再び怜に向き直った。
「行ってきた」
「はあー?」
錬三郎は声を立てて笑った。怜はイライラしながら錬三郎を見つつ、背中を搔く。
「おまえ、そういうのやめとけって。でも、それでどうしたんだよ」
「聞いたんだよ。直樹となんかあったのかって」
「うん、それで?」
「別れたい、って言ってた」
怜がうつむき、小さな声で言った。錬三郎はカッと目を見開いた。
「あー、嫌な女だな、鶴岡さんって。浮気じゃん」
錬三郎は再び笑い出す。怜は額に青筋を立てた。
「てめー、ムカつく」
「あ、ごめん、わりい。怒んなよ。それでお前、どうしたんだよ」
「なんで別れたいんだよって聞いた。そしたらさ」
「うん」
「うちはもっと一緒にいてくれる人がいいのに、直樹はそうじゃない、って言ってた」
怜は宙を見つめ、痛々しげに言った。
「へーーーえ」
錬三郎は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「俺は、そっか、って言った」
「それで? まさかそれで終わりか?」
「うん。花火、見た」
「だはははは。うん、じゃねえよ。つうか何だよ。鶴岡さんって最低だな。悪女じゃね?」
錬三郎は腹を抱えて笑い出した。
「そういう言い方やめろ」
怜が凄んだ。
「ああごめん。だから、そうやってすぐ怒んなっつってんだろ。お前がまだ鶴岡さんを好きなの知ってて、そういうこと言うかねえ。酷い女だと思わねえ?」
「思わない」
怜はムキになって言う。
「あー、やっぱお前も直樹も一緒な。そういうとこだぞ」
「んだよ。一緒にすんじゃねえよ」
怜はトロンボーンのケースを音を立てて閉めた。
「純粋で穢れがないんだよな。だからそういう女にたかられるんだよな」
錬三郎はにやにやした。怜は黙って立ち上がり、楽器倉庫へ早足で向かった。
「おい。だからいちいち怒んじゃねえよ」
錬三郎は怜を追いかけ、肩をたたく。
「鶴岡はそういう女じゃねえよ」
怜は錬三郎の手を振り払った。
「ああ、わかった。じゃあそういうことにする。でもそれ、はたから見たらすげーヤな感じがすんだよ。ちゃんと別れてから怜のところにきて、付き合おうって言うなら分かるけど。そうじゃねえじゃん。別れたいって話するだけなのに、なんで花火大会なんかに誘うんだよ」
錬三郎が冷たい目を向け、ばっさり言い捨てると、怜は黙り込んだ。確かにそれはそうだ。しかも、響から好きだとも言われていない。花火大会に誘われ、一緒に見ただけだ。自分はそれだけで勝手に舞い上がっていた。響のことを信じたかったが、結局は宙ぶらりんなままだ。
「お前はいい奴だからな。好きな女のこと、悪く思いたくない。俺にも悪く言わないでほしい。そうだよな。でも、鶴岡さんのそういうはっきりしないところ、俺は聞いててすげームカつく。舐めんなって思う」
「うん」
怜は初めて、錬三郎に同調した。
「かまって欲しいから付き合ってー、っていうメンヘラ女はやめとけ」
「メンヘラ女じゃねえよ」
怜は少し困惑しながら言い返す。どうせ自分はバカだ。だから、上手く判断ができない。だからこそ、バカどころか秀才の、冷静な錬三郎の存在はありがたかった。今までの薄っぺらい友達とは訳が違う。錬三郎はスレてて性格は悪いが、根っこのところは友達思いでいい奴だ。一緒にいて一番楽しく、信頼できるのも錬三郎だ。
「ああ、そうだよな。でもお前、絶対、利用されんなよ。お前にこれ以上舐めたことすんなら、俺が鶴岡さんにはっきり言ってやるよ」
錬三郎はまっすぐ怜の目を見た。怜も見返した。しばらく黙ったあと、ゆっくり頷いた。
つづく