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緑谷中学吹奏楽部  作者: taki
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蛾みたいな奴

翌日、琳太郎と雛形は昼近くに目覚めた。琳太郎は上体を起こし、寝転んだままの雛形にキスした。

「おはよう」

「おはよう。昨日遅かったね。帝フィルのとこ行って、何してきたの」

雛形も上体を起こし、目をこすって寝起きの声を出す。

「営業活動してきたんだ。手が治ったから、ピアニストに復帰したいって。また一緒に演奏したいって」

琳太郎は単刀直入に言った。

「うん、それで?」

「ピアノ、弾いてみろって言われたんだよ。だから弾いた。そしたら何て言われたと思う?」

「わかんない」

雛形は想像もつかず、正直に言った。

「腕はいい。でも、話題性がないって」

琳太郎が手を叩いて、自嘲的に笑った。雛形は顔を曇らせた。

「どういうこと?」

「うん。つまりだ。俺は過去に話題性があった。音大出たばかりで、若くて将来有望、って。それに俺、イケメンだからさ」

琳太郎は冗談まじりに言うと、雛形は琳太郎をじっと見つめた。琳太郎は実際のところ、イケメンという言葉が大嫌いだ。だけどわざとそれを使って、自分を道化師扱いして、笑いたいのだ。本当は傷ついているのを察して、雛形はその偽りの笑いには乗らず、聞き返した。

「うん、それで?」

「今は、それがない。何年も野に埋もれてた三十過ぎの、冴えない男だ。それじゃ帝フィルとしてもチケットが特に売れるわけじゃない。だからもう少し、顔と名前を売ってこいって言われた」

「えー」

雛形は腰に手をあて、ぷりぷりして怒った。

「まあ、それは最もなんだよ」

琳太郎は雛形の両腕を掴み、諌めながら、わずかに瞳に憂いを滲ませてつぶやく。

「何よ。琳太郎のおかげで帝フィルだって売れたくせに」

「そういうわけでもないよ」

「でも、聞いたよ。帝国音大の桂木先生に。琳太郎のおかげで、チケットが飛ぶように売れたって」

雛形は怒りを引っ込められず、琳太郎をかばい続ける。

「先生が買い被りすぎなだけだよ」

琳太郎は切なげに笑い、雛形の頭を撫でた。

「琳太郎に世話になっといてその言い草、なんなの」

「いや、世話になったのは俺の方だから。あと、プロデューサーも音楽監督も変わったし。俺のこと知らない団員も多いしな。仕方ないんだよ」

「でも」

「いいから。また頑張る」

琳太郎が笑顔をつくって言うと、雛形は言葉を引っ込めた。琳太郎はこれ以上この話をしたくない。それが分かった。

「うん、分かった」

雛形は短く答える。

「それとさ。うちの吹部の『リバーダンス』の動画見せて、ダメ出ししてもらってきたんだ。厳しいね。県大の審査員よりよっぽど厳しく言われた」

琳太郎は話題を変え、ベッドから立ち上がった。

「えー、どこがダメだったの」

雛形もベッドから立ち上がり、不満そうに尋ねる。

「木管はほぼ全滅だろ。ホルンの2n d以下も、椎名先生以外のホルン奏者にガーガー言われた。ボーンもチューバもパーカスも」

「いいとこないって言われてる感じだね」

雛形が口をすぼめ、悲しげに言った。

「まだ子どもなんだから仕方ねえだろって言い訳したかったけど、無駄だった。でも」

琳太郎は寝室のドアを開け、トイレへ向かう。

「でも?」

「ペットは褒められた」

琳太郎は意外そうに言う。

「1stの千鳥川くん?」

「いや、全員、中学生のわりにまとまってていいなって。楠先生以外のペットの奏者も、他の金管奏者も褒めてた」

「そうなんだ。半分、一年生なのにね」

琳太郎がトイレで用を足している間、雛形は軽くストレッチをしながら考えた。1 stトランペットの公彦が合宿中によく練習していたのは知っている。そして結那が一年生二人をいつもに増して厳しく指導していたのも知っている。雛形は嬉しくなり、腰に手を当てながら頷いた。

「県大は無事、突破。伊久馬がマレット放り投げた時は笑いそうになったけど」

琳太郎がトイレから出てきて、笑いながら言った。

「私、袖にいたからよく見えなかったけど。放り投げたわけじゃないでしょ。それに笑いごとじゃないよね、あれ」

雛形はキッチンで二人分のコーヒーを淹れながら突っ込む。

「あいつ、根性あんなあ。結構な距離、飛ばしたのに。すげえスピードで拾いに行っててさ。絶対、次の音まで間に合わせるっていう執念。完全に見直した」

琳太郎は二つのマグカップを雛形から受け取り、ダイニングテーブルの上に置いた。

「ねえ、西関(にしかん)に行けるのは何校なの?」

雛形が椅子に座りながら聞いた。

「うち入れて九校」

琳太郎も椅子に座り、スプーンでコーヒーをかき混ぜる。

「全国には?」

雛形は少し身を乗り出し、マグカップから立ち上る湯気を顔にあてながら聞いた。

「二校。今年も西関には群馬と新潟、山梨から代表校が上がってくる」

「厳しいね」

「うん」

「ダンス部はどうだった」

琳太郎が雛形に話を振った。

「みんな頑張ってたよ。吹部のみんなと同じく、純粋で可愛い」

二人はコーヒーを啜りながら、静かに息を吐いた。琳太郎は目を細め、雛形をじっと見つめる。

「合宿二日目の夜。やっぱり出たんだよ、あれが」

琳太郎は再び話題を変えた。

「あれって?」

雛形はきょとんとする。

「桃子が初日に言ってたやつ。安く泊まれた理由」

琳太郎が恨めしそうに言った。雛形は酔い潰れて寝てしまい、何も知らずにいたのだ。

「あー、蛾のこと? 怖っ」

雛形は恐ろしげに身震いし、コーヒーを啜る。

「キャンプファイヤーのときは出なくてよかったけどな。俺、ちょっと心配だった」

「ホテルの人が殺虫灯、用意しておいてくれたから。去年の夏、大量発生したんだって。町役場に頼んで駆除、頑張ったらしいけど、卵が孵ってたらわかなんないもんね」

雛形が説明すると、琳太郎はフーッと深く息をついた。

「ああ。そうだな」

「部屋の網戸はちゃんと閉めときなさいって言っておいたのに。言うこと聞かない子って本当、困るよね」

雛形が他人事のように笑い飛ばした。琳太郎は目を吊り上げた。

「言うこと、聞かない、子?」

琳太郎はゆっくり聞き返す。

「うん」

雛形は頷く。頷きながら、琳太郎の顔色が変わっていくのを不思議そうに見る。

「そうそう。押し入れのなかにも言うこと聞かない子、いたんだよな」

琳太郎は人差し指を立て、大袈裟に驚きながら言う。

「え?」

「男を舐めているとしか思えないんだ。まったく」

琳太郎は不自然ににこにこし始めた。

「何の話?」

「桃子。今日は夕方から親達が来るな。それまでは、家で過ごそう。お仕置きしないといけないし」

琳太郎は急に椅子から立ち上がり、ポーカーフェイスになった。強引に雛形を椅子から引きずり下ろし、軽々と抱き抱えて寝室に戻ると、扉を勢いよく閉めた。


夕方になり、琳太郎の両親と雛形の両親が家を訪問した。二人は婚約はしても結納を取り交わすつもりはなかった。そんなわけで、両家の顔合わせはしましょうよと、忍が提案したのだ。矢島は早めに到着し、何段もの重箱に詰めた豪華な食事と飲み物を持ち込み、キッチンを預かってくれた。先に到着したのは雛形夫妻の方だった。

「あらあ、いい部屋じゃない」

雪乃はキッチンとダイニング、リビングを見渡し、にこにこしながら言った。安彦は大きくなったモモタロウを連れ、気に入らなさそうに黙り込む。

「お母さん、なんなの、それ」

雛形は雪乃が手にするものを指さした。雪乃は花材と剪定鋏(せんていばさみ)、それに花器を抱えている。

「堅苦しいのにはしないから、いいでしょ。両家の顔合わせですもの。場が華やぐわ」

そう言いながらも、雪乃は紋付で色無地の着物を完璧に着こなし、髪も美容室でセットしてもらったらしく、気合いは十分だ。リビングの端にあるローボードの上に花器と剣山を置くと、勝手に花を活け始めた。

「そんなの要らないのに」

雛形が呆れて見ているそばで、琳太郎は雪乃の活ける姿に見とれていた。

「お義母さん。すごくかっこいいね」

「ああ、うん。華道教室の先生やってるしね」

雛形は少し誇らしさと恥ずかしさを織り交ぜて言った。琳太郎は黙って雪乃の手元を見る。器用に鋏を使い、バランスを見ながらヒマワリや桔梗の茎をカットし、手際よく剣山に刺していく。

「芸術家の鳥飼先生には、芸術家の雪乃先生の心に共感できますか」

雛形がふざけて言うと、琳太郎は穏やかに微笑み、黙って頷いた。


雪乃が活け終わったタイミングで、鳥飼夫妻の車が到着した。雛形と琳太郎が玄関へ降りていき、二人を出迎えた。矢島がダイニングテーブルに料理を並べ終え、六人を座らせた。モモタロウは大人しくテーブルの端の床に座った。双方の両親は挨拶し合い、和やかな雰囲気で宴は始まった。

「華道教室の先生なんですね。お見事。美しいわあ」

忍は雪乃が活けた花を見て、ため息を漏らした。

「即席ですけどね。お母様はお花、好きでいらっしゃる?」

「ええ。今度、私にもご教授願いたいわ」

「お安い御用ですよ」

話は両家の母を中心に、次第に盛り上がっていった。

「え? え? お母様と私、同い年ですか」

矢島の特製・鴨のローストを箸でつまみながら、雪乃が素っ頓狂な声を上げた。忍は力強く頷く。

「そうです。嬉しいわ。出身はどちらなんです?」

忍は箸を置き、両手で口を押さえながら、目を見開いて話に食らいつく。

「私は藍原の出身なんです。埼玉から出たことなくって。ほほほ」

「まあ、まあ。私もですよ。地元から出たことがありません。なーんにもない埼玉、最高ですよね」

忍が男のような声で豪快に笑うと、雪乃も金属のように甲高い声で笑った。

「お父様は? 先生そっくりのいい男ですねえ」

「もう、孫三人のジイ様ですよ。私より二つ上です。そちらは?」

「うちの夫は八つ下なんです。お孫さんが三人も? 羨ましい」

雪乃が雛形を流し目で見てにやりとしたが、雛形は顔を赤くし、そっぽを向いた。

「それじゃあまだ五十代ですか? んまーっ。お母様ったら、んまーっ。やりますねえ。若い美丈夫を上手く、捕まえましたこと」

忍が目を見開いて感心しながら笑うと、雪乃は片手を振り、ギャハギャハ笑った。母達が女同士の語らいに花を咲かせ、猛スピードで打ち解けていく頃、飛龍丸は静かな声で安彦に話しかけた。

「桃子さんは非常にユーモアがあって、楽しい女性ですね。うちの愚息にはもったいない美人ですし」

飛龍丸が普段の仏頂面を脱ぎ捨て、ビジネスライクな調子で微笑みながら言うと、安彦は否定せずに頷いた。

「ええ。自慢の娘です」

「お父様に似てらっしゃいますね」

「ええ。そうなんです」

「お父様のお仕事は」

「僕はリペアマンです。長年、楽器屋に勤めています」

安彦はつまらなそうに言った。

「あら、そうでしたの」忍が話に割り込んだ。「私のオーボエ、少し調子悪いんです。みていただくこと、できます?」

「ちょっと道具がないので。店に来ていただければ」

「そうですか。近いうちに行きます。お店はどちら?」

忍が聞くと、安彦が簡単な地図と連絡先を紙に書いて渡した。

「楽器ならなんでも直せますよ」

雪乃が話を盛りながら言うと、安彦が嫌がって制した。

「じゃあミド中の吹部のみんなも、お父様のお世話になってるのかしら」

忍が尋ねた。

「ええ。あいつら楽器のこと何にも分かってません。琳太郎…君がちゃんとみてくれてればいいんですけど」

安彦は君付けしたことを忌々しく思いながら言った。

「琳太郎、でいいですよ」

忍が察して、笑いながら言う。日頃から琳太郎と安彦が吹部を通して付き合いがあるのは、想像がついた。

「オーボエ、趣味なんですか」

安彦がちらりと忍を見ながら聞いた。

「え? ええ、今は」

「新東京交響楽団のオーボエ。元、首席奏者です」

飛龍丸が堂々とした口調で、誇らしげに言った。

「ほほほ。百万年前の話ですよ」

忍は片手を振りながら笑い飛ばす。雛形は忍と琳太郎を交互に見た。この親にしてこの子ありか、と妙に納得した。忍はいつも陽気でユーモアに溢れ、ざっくばらんとしているが、全身からなんとも言えない気品が満ち溢れている。今は一企業の役員だが、どんな思いで演奏家の道を捨てたのかと、雛形は少し気になった。

「うちの吹部のオーボエの子、まだ一年生なんだけどね。お義母さんのこと、忍先生って呼んでて、すっごく慕ってて。びっくりするほど上達したの」

雛形が両親に説明すると、雪乃も安彦も感心しながら頷く。

「教え方が一流だと、上達も早いんでしょうね」

雪乃が感心して言った。

「ところでその子は?」

飛龍丸が安彦の背後に座るモモタロウに目を向け、尋ねた。安彦は黙ってモモタロウを抱き上げ、一緒に椅子に座った。

「もう、お留守番させるつもりだったのに。申し訳ありません。うちの人、この子のことが可愛くって。連れてくって聞かなくて。動物アレルギーとか、ありません?」

雪乃が安彦をたしなめつつ、鳥飼夫妻には笑顔と謝罪を込めた顔で尋ねた。

「大丈夫ですよ、うちは」

鳥飼夫妻は揃って頷き、モモタロウに優しい笑みを向けて問いかける。

「なんていうんです?」

「モモタロウ」

安彦が下を向いてボソリと言うと、鳥飼夫妻は一瞬黙り込み、激しく笑い出した。琳太郎と雛形もつられて笑った。

「んまあ。琳太郎の弟みたいね」

忍は肩をゆすって笑った。

「琳太郎と桃子さんの息子のようでもある」

今度は飛龍丸が笑って言った。琳太郎は自分と父の発想が同じであることに笑いつつ、モモタロウを見る。モモタロウも安彦に抱かれながら、琳太郎を興味深そうに見つめた。

「ミド中の生徒さんのところで、もらってきたんですよ」

雪乃も楽しそうに頷いて説明する。そのとき、モモタロウは少し暴れた。安彦の手から逃れるとフローリングをさっと駆け、尻尾をふりふり、琳太郎の膝へ飛び乗った。

「あ、おい。くすぐったいよ」

琳太郎は顔を舐められて驚いて笑いつつ、モモタロウを抱きしめた。

「あら。先生は犬が好きなのね。犬には、犬好きが分かるから」

雪乃が微笑むと、忍が傍から突っ込んだ。

「ねえ、雪乃さん。これから息子になるから琳太郎、でお願い。うちはももちゃんって呼ぶから」

忍が親しげに雪乃に言う。

「え? あら、そう。なんだか、先生、で言い慣れちゃってるから」

雪乃が甲高い声で笑った。安彦はモモタロウが琳太郎に懐くのを面白くなさそうに見る。

「じゃあ、呼ぶ練習しようかな。琳太郎」

雪乃が照れながら、頑張って琳太郎を呼び捨てにした。

「はい」

琳太郎は楽しそうに返事する。

「ピアノ、弾いてよ。弾けるんでしょ」

「あ、はい」

琳太郎は少し驚きつつ、一階のピアノ部屋へ皆を案内した。抱っこしていたモモタロウを床に放すと、グランドピアノの屋根と鍵盤蓋を開けた。

「素敵な部屋ね」

雪乃がきょろきょろ見回した。安彦は仏頂面でしゃがみ込み、モモタロウを撫で、無言でいる。

「何がいいですか」

琳太郎が雪乃に尋ねた。

「何でもいいの?」

「はい」

「じゃあねえ。一番得意なの、お願い」

雪乃がピアノに寄りかかって不敵に笑った。たくらんだような笑い方が雛形そっくりだと、琳太郎は思った。

「そう言われると、難しいですね」

「あらー。なんだか苦手な曲なんかないっていう口ぶりねえ」

雪乃が流し目で言うと、琳太郎は笑って首を横に振った。

「そんなことないですよ」

「聞きたいわよねえ、琳太郎の十八番」

雪乃が言うと、鳥飼夫妻はにこやかに笑った。

「ええ。ここ久しく、聴いてなかったわね」

忍が慈愛に満ちた、優しい笑みを琳太郎に送った。飛龍丸は少し真面目な顔になる。

「何も思いつかないなら『幻想即興曲』がいいな」

雛形が背後からポツリと言った。琳太郎は少しほっとしたような顔をした。雛形には今の琳太郎の十八番はなんなのか分かっている。でもそれはまだ無名の曲だし、三十分以上かかる。もっと短くて印象的で、知名度がある曲がいい。そう思ってリクエストしたのだ。

琳太郎はおもむろに、『幻想即興曲』を弾き始めた。


「素晴らしいわ。うっとりしちゃう」

雪乃が嬉しそうに言い、琳太郎に拍手した。

「お粗末様です」

琳太郎は謙遜して会釈した。

「なんだかねえ。琳太郎のピアノからは愛が、ダダ漏れしてんのよねえ」

雪乃はにやにやしながら、今度は雛形をちらりと見た。

「ふっふっふ。そりゃあ、愛しい婚約者の前ですもの」

忍が野太い声で笑う。雛形は真っ赤になって黙り込む。

「こいつはカッコつけるのだけは天才的ですから」

飛龍丸が琳太郎を指さして言うと、安彦以外の全員が笑った。


琳太郎はその後も、クラシックを中心に何曲か披露した。そのたびに雪乃は喜んで拍手し、忍も姿勢を正して拍手した。飛龍丸は静かに微笑して頷き、安彦はずっと仏頂面をしていた。モモタロウはペダルを踏む琳太郎にまとわりついていた。鳴いたり怯えたりすることもなく、ただただ純真無垢な眼差しを琳太郎に送り続けていた。


両家の夫妻は散々喋り倒した後、雛形夫妻が先に帰ることになった。琳太郎は玄関先まで出て、見送ることにした。雛形はまだリビングで鳥飼夫妻と話し込んでいた。

「おい、琳太郎」

安彦が運転席に乗ってから窓を開け、そばに立つ琳太郎に話しかけた。モモタロウも後部座席に設置された犬用のドライブボックスに収まり、窓越しに琳太郎を見つめている。

「はい」

琳太郎が返事する。

「宣伝活動。ちゃんとやってんのか」

「これからです」

「しっかりやれよ」

「はい。あの、お義父さん」

「なんだ」

「僕のピアノ。どうでしたか」

琳太郎が真面目に聞いた。

「ふん。つまらん」

安彦は面白くなさそうに、思ったことと反対のことを言った。

「そうですか。ありがとうございます」

琳太郎は礼儀正しく頭を下げる。

「いいか、琳太郎。お前の仕事は桃子を命懸けで幸せにすることだ。分かってるな」

「はい」

「分かってない。こないだ桃子が泣いて帰ってきた。どういうつもりだ」

「はい、すいません」

琳太郎は雛形と喧嘩した時のことを持ち出され、タジタジになった。

「今度泣かしたらタダじゃ済まんぞ」

「分かりました、もうしません」

「もっと気軽に帰ってこられるようにしろ。お前は桃子に甘えすぎるんじゃない」

「はい、すいません」

「お前は、蛾みたいな奴だったのに」

「え?」

「蛾だよ。蛾。暗がりからバサバサ襲ってくる、あの忌々しい蛾だ」

安彦は声を荒げた。

「はい、蛾ですいません」

「自分は蝶だと勘違いしている、汚い蛾だ。美しくもなんともない。でもまあ、モモタロウがお前のことを認めた。だから」

「だから?」

琳太郎は小さくなりながらも、気になって続きを促す。

「たまにはうちに来てもいい。ただし。桃子は絶対、連れてこい」

「はい、了解しました」

琳太郎は即座に返事した。

「桃子は単独で三日に一度、帰ってきていい」

「お父さん、何、バカ言ってんのよ。早く車、出して」

助手席から雪乃が顔をしかめて突っ込んだ。

「お義父さんお義母さん、今日、ありがとうございました。また遊びに来てください」

琳太郎はかしこまりつつ、愛想よく言う。

「おう。鳥飼のお父さんお母さんによろしくな」

安彦は運転席の窓を閉め、エンジンをかけた。


その後、鳥飼夫妻も帰ると言い出した。

「じゃあねももちゃん。琳太郎のこと、よろしくね」

忍が助手席の窓から手を出し、そばに立つ雛形の手を握った。

「はい、お義母さん」

「矢島さんはどんどん使っていいわよ。あの人、便利でしょう。それでも足りなくなったら人員補充、してあげるから」

「いえ。そんなの要りません」

雛形が恐縮して首を横に振る。

「吹奏楽部の方もね。頼みましたよ、雛形先生」

忍は、今度は少し改まって言い、笑いかけた。

「はい、忍先生」

雛形も頼もしそうに忍を見て笑った。すると、運転席で飛龍丸が咳をした。

「父さんも年なんだから無理すんなよ」

雛形の横に並び、琳太郎が軽口を叩くと、咳き込みながら飛龍丸が睨みつけた。

「お父さんはこの頃、むせやすいの。ジイ様になった証拠ね」

忍が太い声で笑い飛ばすと、飛龍丸は言い返そうとして、さらに咳き込んだ。

「桃子」

飛龍丸が咳を鎮め、雛形を呼び捨てにした。

「はい」

雛形は少し驚いて反応する。

「こんな息子だけど、君に惚れている。君が望めば空も飛ぶし、火にだって飛び込む」

飛龍丸が厳格な調子で言い切ると、忍が再び激しく笑った。琳太郎は頭を掻いて、居心地悪そうにしている。

「はい」

雛形は笑って答えた。

「それに応えてやってほしい。二人とも仕事は大変だと思うが、琳太郎のことを支えてやってくれ」

飛龍丸の目には不真面目な要素は皆無だった。子を思う親の深い愛情が込められているのを、雛形は感じ取った。隣に並ぶ忍もまた、同じ目をしていた。

琳太郎はこの両親の愛情を受けて育った。雛形はそれを強く、肌で感じ取った。誰よりも子どものことを信じている。子ども扱いしていないところがまたいいと、雛形は思った。それに、不思議とこの夫婦は似ていると思った。二人は他人同士だ。だから顔は全然似ていない。なのに、雰囲気が似ているのだ。笑い方、話し方、聞き方、それに、仕草も。決して解けない赤い糸で固く結ばれているのだと思えて、雛形はなぜだかとても嬉しくなった。自分達もこうなりたいと、自然と思えた。

「はい」

雛形も真面目な調子になり、はっきり返事した。

「うちにも遊びに来なさい」

「はい」

「今日はどうもありがとう。楽しかったよ」

飛龍丸は、さらに雛形の方を真正面から見つめ、微笑んだ。

「はい、こちらこそありがとうございました」

雛形が笑顔で言って頭を下げると、飛龍丸は助手席の窓を閉めた。窓越しに忍が笑顔で手を振り、車は静かに走り去った。


「お義父さんに、お前は蛾みたいな奴だったって言われた」

玄関のドアを閉め、琳太郎が暗い声で言うと、雛形は吹き出した。

「なに、それ」

「愛しい娘にたかる害虫ってことだろ」

琳太郎は靴を脱ぎ、自嘲的に笑う。

「それを言ったら私だって害虫だよ。上流階級の息子にたかる、一般ピーポーな害虫」

雛形も靴を脱ぎ、わざと変顔して言うと、琳太郎は激しく笑い出した。

「ちなみに俺は、モモタロウに認められたから、桃子の実家に遊びに行ってもいいらしい」

「何それ。モモタロウが判断基準なの」

雛形が呆れながら笑った。

「そうみたいだ。やった、出世したぞ、俺」

「ねえ、それにさ」雛形は言葉を区切る。「害虫だった、でしょ」

「うん」

琳太郎は神妙に頷く。

「過去形じゃん」

雛形が口に手をあて、面白そうに言った。琳太郎は雛形を見下ろす。自分を見つめる二つの瞳は、きらきらと輝いていた。

「うん。現在完了進行形ではないらしい」

琳太郎はそう言って雛形を抱きしめ、優しくキスをした。


雛形は琳太郎が浴室へ向かったのを見送った。それから階段を上がり、ダイニングチェアに座った。息を深く吐き、ノートパソコンを開いた。

つづく

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