それぞれの夏休み
《あらすじ》
夏合宿を終え、緑谷中学吹奏楽部は吹奏楽コンクールの県大会を無事に通過し、西関東大会への出場権を獲得した。部員達はお盆休みに入り、それぞれ思い思いに過ごす。緑谷町から夏祭りへの出演依頼があり、部内でビッグバンドを結成することに。雛形は琳太郎のピアニスト再起のため、ある計画を立てる。
《登場人物》
緑谷中学校職員
【鳥飼琳太郎】音楽科教師。吹奏楽部の顧問兼ダンス部の講師
【雛形桃子】家庭科教師。吹奏楽部の副顧問兼ダンス部の顧問。琳太郎の婚約者
【鸚鵡林】校長
【鶏田】副校長
緑谷中学校吹奏楽部メンバー ※他多数
【白鳥直樹】フルート兼ピッコロの三年生。部長
【大瑠璃颯太】フルート兼ピッコロの一年生
【燕倉詩織】フルートの一年生
【鴨井梨花】オーボエの一年生。健治の妹
【鴻野楓】ファゴットの一年生
【鶴岡響】クラリネット兼E♭クラリネットの三年生
【鴨井健治】クラリネットの三年生。梨花の兄
【鷺沼大輝】バスクラリネットの二年生
【鳳錬三郎】ソプラノサックス兼アルトサックスの三年生
【雉谷まりあ】アルトサックス兼テナーサックスの二年生
【翡翠陸】バリトンサックスの一年生
【千鳥川公彦】トランペットの三年生
【鳩山結那】トランペットの二年生
【懸巣由利子】トランペットの一年生
【鳶屋綾香】トランペットの一年生
【鵜森恵里菜】ホルンの二年生
【百舌野史門】ホルンの二年生。琳太郎の甥
【隼田仁】ユーフォニアムの一年生
【島柄長真希】ユーフォニアムの一年生。コンクールではピアノを担当
【目白梅子】トロンボーン兼ユーフォニアムの三年生。副部長
【大鷹怜】トロンボーンの三年生
【舞鶴佐和】トロンボーンの一年生
【鷲宮幹生】チューバの二年生
【鶉石七海】コントラバスの一年生
【烏川銀之丞】パーカッションの三年生
【朱雀音羽】パーカッションの三年生
【雁谷伊久馬】パーカッションの二年生
【鶯原太陽】元柔道部。パーカッションの二年生
【鴇田美咲】元フルートパート。パーカッションの一年生
【若鷺太一】パーカッションの一年生
講師
【竹田友徳】バスクラリネット講師。木管楽器全体の講師を兼任
【椎名英雄】ホルン講師。金管楽器全体の講師を兼任
【後藤正】サックス講師
ほか
【鳥飼飛龍丸】琳太郎の父。鳥飼製紙株式会社の社長
【鳥飼忍】琳太郎の母。鳥飼製紙株式会社の専務。オーボエ講師
【百舌野麗華】琳太郎の姉。史門の母
【鳥飼秀平】琳太郎の兄
【矢島】鳥飼家、および琳太郎と雛形の家にも出入りする家政婦
【雛形安彦】雛形(桃子)の父。あまや楽器の古株店員
【雛形雪乃】雛形(桃子)の母。生け花教室の講師
【銅元】鳴沢学園中等部の吹奏楽部の後任部長。三年生女子
【モモコ】響の愛犬。メスで黒い芝犬。
【モモタロウ】安彦の愛犬。モモコと直樹の愛犬、レオとの子ども。オス
県大会の翌朝、空は抜けるようなコバルトブルーだった。大きな入道雲を西の空で確認しつつ、音羽はスポーツ公園に向かって自転車を走らせた。
去年の夏は一人でここにきた。今年は伊久馬がいる。二人は並んで噴水の前のベンチに座った。
「先輩はこんなに暑い日に、熱いところに座っているのが好きなんだ。やっぱり変態だね」
伊久馬はベンチの表面をおそるおそる触りながら苦笑した。
「うん。汗だくになってここで目、閉じてるのが好き」
音羽が言うと、伊久馬がますます面白そうに笑う。それから音羽の手を片手で握った。
「先輩、見て。合宿中に撮った星空の写真」
伊久馬はミラーレスカメラをもう片方の手で持ち、画像モニターに映る写真を何枚か見せた。
「綺麗」
音羽はじっと見つめて言う。画面には群青色の夜空に、無数の星が瞬くさまが映っていた。
「でしょ。一緒に見たかったのに」
「ごめん。具合悪かった」
「うん、そうだったんだよね」
二人はそれから県大会のことを振り返った。本番では伊久馬がマリンバのマレットを床に落とすも、忍者のように素早く拾った。ちょうど二小節の休みに入るところだった。伊久馬が遅れることなく次のフレーズを叩き始めたことは、ファインプレーだった。音羽も声を出して笑った。
「あれで減点になったのかな」
「落としたくらいで減点にならないって先生、言ってたから。大丈夫だよ。西関行きは決まってるし」
音羽はそう言うと、伊久馬は苦笑いする。それからミラーレスカメラを手に取って立ち上がった。
「ねえ、ほら、先輩。飛行機雲だ」
伊久馬はベンチから立ち上がり、空に向かってシャッターを切った。空には飛行機が一機、斜め上に向かって飛んでいる。音羽は漫然とそれを見上げつつ、琳太郎のことを思い浮かべた。
合宿から帰校した日、職員室で琳太郎は口を閉ざし、真顔で音羽を見つめた。
「先生。ゆうべ、キャンプファイヤーで、ずっと弾いてました。急に治ったんですか」
音羽は琳太郎の左手から目を離さず、繰り返し聞く。琳太郎はゆっくり、つくり笑顔をした。音羽は笑わなかった。そこへ、副校長が突き出た腹がぶつからないよう、器用に音羽をよけながら、職員室に入ってきた。
「副校長先生。活動報告書です」
琳太郎はとっさに副校長へ書類を手渡した。
「おお。お疲れさん。明日は県大だったね」
副校長は自席に座り、書類に目をやった。
「はい」
琳太郎は音羽を視界の外に押しやり、笑顔で答えた。
「今回は、私が引率しなくても大丈夫そうかな」
「ええ。おかげさまで。でも、生徒は副校長先生がいる方が喜びますけど」
「ははは。じゃあ、次の西関のときはついてってやろう。だから必ず、県大、勝てよ」
副校長は両手で拳をつくり、活力のある表情で言う。
「はい。ありがとうございます。それじゃお先、失礼します」
琳太郎は音羽のわきをすり抜け、足早に職員室を出ていった。取り残された音羽は副校長と目が合うと、何も言わずに出ていった。
音羽は空を見続けている。飛行機雲が線状に伸びていく。やがて青空へ染み込むように消えていく姿を、琳太郎と重ねた。
「先生。消えてっちゃうのかな」
音羽がつぶやくと、伊久馬が振り返った。
「え?」
音羽は言うべきかどうか迷った。すべては考えすぎなのかもしれない。確かな何かを掴んだわけではない。ここはまだ、黙っておくほうがよさそうだ。
「ううん。ねえ、伊久馬」
「何?」
「伊久馬は、消えてかないよね」
飛行機の飛ぶ音を聞きながら、音羽が真顔で尋ねた。
「え? うん。ここにいるよ」
伊久馬は少し不可解な顔をしてから、快活に笑った。音羽は黙ってその顔を見つめた。伊久馬の肩の高さが、ずいぶん自分と近くなった。もうじき追い越されそうだ。
一人でいるのと同じくらい、今は伊久馬といるのが好きだ。ずっと自然体でいられた。自分に対して敬語を使わなくなったのも嬉しい。前よりもさらに身近で、前よりもさらに大切な存在に感じられた。
音羽は静かに伊久馬へ近づき、両手を回して抱きしめた。
その日の昼過ぎだった。都心部に鎮座する帝国芸術会館は、国内でも有数の総合芸術文化施設だ。ヴィンヤード式の大ホールとシューボックス型の小ホールのほか、リハーサル室や稽古場、練習室、会議室、資料室、レストラン、カフェなどの施設がある。プロオーケストラとして名高い帝国フィルハーモニーオーケストラの一団は、一番大きい練習室にこもり、サマーコンサートに向けて練習していた。
「十五分、休憩にしよう」
指揮者が言うと、皆は楽器を置き、トイレに行ったり水分補給をし始めた。竹田はバスクラリネットを置くと、ポケットのなかからスマートフォンを取り出した。画面を見ると琳太郎からの不在着信が一件、あった。
「話はしてある。休憩になったぞ。入ってこい」
竹田は電話口に向かい、低い声で話しかけた。
その頃、緑谷駅前のファーストフード、マケドナルドの店内では、由利子が三人の友人達とテーブルを挟んで座っていた。
「あー、休みって最高だよね」
由利子が両腕を伸ばし、清々しく言った。
「吹部って夏休み、五日しかないの」
「ううん。土曜も何回か休みがあるよ」
「でも、それだけ?」
「うん」
「ガチじゃん」
友人の一人が笑うと、ほかの二人も笑った。由利子は不機嫌な顔をしてストローでバニラシェイクを飲む。
「うち、そういうの無理。ガチの部活、ダルくない?」
「ダルいよ」
由利子が即答すると、三人はいい加減に頷く。
「ねー、それで合宿って何、すんの」
別の友人がチキンナゲットをつまみながら、つまらなそうに聞いた。
「えっと。…楽器、吹いてる」
「地味」
友人の一人がぶった斬ると、他の二人は手を叩いて笑った。由利子は不機嫌そうに友人達を見る。
「ねー、吹部なんかやめなよ。半分、宗教じゃん」
「本当にそれ。こないだ体育館のステージで練習してたの見たよ。先生が教祖で生徒は信者になってたよね。怖」
別の友人が琳太郎が指揮振りながら怒鳴る真似をすると、さらに別の友人がトランペットを吹いて嘆く真似をし、笑った。
確かに、吹部は宗教じみている。大会の本番前はいつも琳太郎がカボチャの汚いぬいぐるみを出してきて、皆で円陣を組む。この三人があの様子を見たらなんと言うだろう。
「部活やめて、うちらと遊ぼうよ。四人でさ」
もう一人が由利子の腕を掴んでせがんだ。由利子は曖昧に笑った。
夕方になった。ミド中の体育館では、ダンス部が熱心に踊っていた。今日はステージではなく、フロアを使って練習をしていた。
「はい。じゃあ今日はここまでにしておこっか」
ジャージ姿の雛形が手を叩いて言った。部員達は床に直ずわりし、水筒やペットボトルを手に取り、水分を補給した。
「先生、ありがとうございます。吹部、休みなのに」
部長の松尾が言った。
「私、何にもしてないけどね」
雛形は特にダンス部を指導はしていない。そんな技術はない。学校に来て、職員室で事務仕事をしていただけだ。それでも顧問が在校していなければ、部活はできない。ダンス部のメンバーは雛形も琳太郎もいないときは、どうやら駅の改札前や町民文化会館の正面玄関前、コンクリートの上で練習しているらしい。ダンス部は七月にすでに一つ、大会に出場したが、予選で落ちた。次はもう少し規模の小さい大会に出場する予定だ。
「いいんです。先生が来てくれると部活ができるし」
松尾が笑顔で言うと、ほかの部員達も充実した顔を雛形に向け、頷く。
「うん。じゃあダンス部も明日から夏休み。ゆっくり休んで、その後の大会、頑張ろう。解散」
雛形が笑顔を返すと、部員達は一斉に返事をし、頭を下げた。
同じ頃、直樹は自宅のベランダで干しておいた布団を取り込んだ。その後、リビングの掃除機がけをしていた。
「ねえ、いくらくれるの」
直樹は母にお小遣いの金額を確認する。
「頑張り次第かな」
母はにんまり笑った。そのとき、インターホンが鳴った。直樹が玄関ドアを開けると、二人のいとこ達と叔母が笑顔で立っていた。いとこは二人とも直樹より幼い、小学生の兄妹だ。
「いらっしゃい。ちょうどこれから、西の方で花火が上がる。二階のベランダから見えるよ」
直樹が笑顔で言い、三人を中に入れた。
緑谷町の隣、門田市の市民球場では花火大会が開催された。あたりにはたくさんの露店が並び、多くの見物客が押し寄せた。
「ごめん。待った?」
響が聞いた。
「ううん」
怜は答えた。座れる場所を探して、二人は並んで歩いた。
つづく