俺、ダッサ
翌日の放課後のことだった。激しい雨音が校舎内に響くなか、雛形は誰よりも早く第二音楽室に行った。ドアを開けると照明とエアコンをつけ、グランドピアノの上に置いてあるミドスイノートを真っ先に開いた。
「今日は烏川君、か」
雛形は読みながらつぶやくと、ちょうど直樹と響、銀之丞が部屋に入ってきた。
「雛形先生ー。愛してるー」
銀之丞が両手を広げ、満面の笑みで言った。
「烏川君のことも、白鳥君のことも、鶴岡さんのことも。先生、みんな愛してるよ」
雛形が三人に向かって笑いながら言った。
「やったー。先生、琳太郎先生より愛してるー」
「うちも雛形先生、愛してるー」
響も調子に乗り、笑いながら言った。
「おい、それ、うぜーからやめろよ」
直樹が不機嫌そうに言った。
「じゃあ、先生、聞いてあげよっかな」
雛形が銀之丞に意味ありげな笑いを送る。
「あ、あれですか? 観客、先生だけかー」
「不満?」
「そんなことないですよー。特等席用意しますねー」
銀之丞はそう言って、準備室へ駆け込んだ。それからボーランを持ってきて、雛形に椅子を勧めると、おもむろに演奏し始めた。雛形が拍手すると、直樹も響も小さく拍手した。
「どうっすかー」
「うん、素敵。いいね、ボーラン。上手、上手。頑張った」
「なんか幼稚園児に褒めてるみたいー」
銀之丞が笑うと、雛形も笑った。
「じゃあ、私、ダンス部、みてくるから。琳太郎先生はこの後、くるからね」
雛形は三人に手を振り、第二音楽室を出て行った。
体育館のステージでは、ダンス部が創作ダンスを踊っていた。雛形が見ていると、部員達は音楽に合わせ、フォーメーションを変えながら、さまざまな表現をしてみせる。そのとき、体育館の入り口の方が騒がしくなった。フロアで練習していた女子バスケ部の一団が、琳太郎を取り囲んでいた。雛形はそれを一瞥すると、再びダンス部の方に向き直った。女子達のキャーキャー声が次第に近づいてくるので、その声の中心に琳太郎がいるのが見ていなくても分かった。
「雛形先生」
琳太郎が学校仕様の声をかけた。
「はい」
雛形も同じ調子で返事した。雛形は琳太郎の目を見て、顔をこわばらせた。
「今日はダンス部、何時までですか」
琳太郎が尋ねた。女子バスケ部はしきりに琳太郎にちょっかいを出し、笑い合った。
「六時までです」
雛形はステージに向き直って答えた。
「了解です」
琳太郎はそれだけ言うと、ダンス部に挨拶をした。それから軽くアドバイスを投げかけ、体育館を出て行った。
六時になり、ダンス部が帰宅していく姿を見届けると、雛形は職員室へ向かった。部屋に入ると琳太郎だけがいた。
「家に帰ろう。話がある」
琳太郎が静かに言った。
それぞれの車で帰宅すると、二人はダイニングテーブルをはさみ、椅子に座った。
「どうしてこんなこと、したんだよ」
琳太郎は低い声で言い、書類を一枚、テーブルの上に置いた。それは雛形がつくった書類だった。今年度予算の使途を記載した一覧表だ。雛形は膝に手を置いて背筋を伸ばし、それに目を落とした。赤いペンで二重線が引かれ、金額が訂正されている。筆跡は琳太郎の字だった。
「レッスン代。最低でも二十万、使っただろ」
琳太郎が突き放すような口調になり、書類を指さして言った。雛形は目線だけを琳太郎に移した。
「二十じゃないよ」
雛形は抑揚のない声で言った。
「いくら」
琳太郎はため息をつきながら聞く。
「その倍」
雛形が言うと、琳太郎は目を見開いた。それから、今度は目を細めた。琳太郎は椅子から立ち上がり、自分のバッグをテーブルの上に置いた。中から封筒を取り出すと、雛形の前にすっと差し出した。
「とりあえず、これ。足りない分は後で渡すから」
琳太郎が厳しい顔で言った。
「何、これ」
「二十万」
「いいよ。返す」
雛形が琳太郎につき返した。
「桃子」
琳太郎は目に怒りを込めて言った。雛形は黙ってその目を見つめた。
「ずっと同じ場所に入れてたから、なくさなかったのに。ドテカボチャ、突然なくなったんだよな」
「それで?」
雛形はそっけなく合いの手を入れる。
「なぜか桃子のバッグの中で見つかった」
琳太郎は手の中にあるドテカボチャのぬいぐるみを見せながら言った。
「ちょっと、勝手に漁らないでよ」
雛形が取り返そうとするも、琳太郎はさっと手を高い位置にどけ、雛形から遠ざけた。
「この前、一人で買い物行った日、あったよな。帰ってきたらタバコ臭かった」
琳太郎が白い目で言うと、雛形はそっぽを向いた。
「だから?」
「これ持って、パチンコに行ったんだろ」
琳太郎はドテカボチャを握りしめ、厳しい目で雛形を見た。琳太郎の突き刺さる視線を頬に感じながら、雛形は横を向き続ける。
「桃子。パチンコはやめろ」
「どうして? 必要だったんだよ」
雛形は開き直った。
「そんな汚い金、稼ぐな」
琳太郎は追及を止めず、怒気を込めて言った。
「は?」
雛形はようやく琳太郎と向き直った。
「お金に綺麗も汚いもあるの?」
「あるよ」
琳太郎は吐き捨てるように言った。怒鳴りたいのを我慢しているような言い方だった。
「あー、そうか。育ちがいい琳太郎ぼっちゃまには到底、理解できない世界だよね、こういうの」
雛形が鼻で笑うと、琳太郎は勢いよく椅子から立ち上がり、音を立ててテーブルに両手をついた。
「ああ。悪かったな。育ちが良くて」
琳太郎が激しい口調で言った。
「眠いと合奏中、怒鳴ってえ。部活のみーんな、ほんーとにかわいそお。たくさん寝ればあ、途端にいい先生に逆戻りい。顧問の先生の浮き沈みが激しいとお、それに合わせなくちゃならない生徒はあ、ほんーと、大変だよねえ」
雛形が嫌味ったらしく語尾を伸ばし、けたけた笑って言うと、琳太郎は口をつぐんだ。
「でもお、仕方ないんだよねえ。だってえ、ピアニストなんだもんねえ、本業はあ。音楽教師もお、吹部の顧問もお、全部う、趣味い」
雛形は目を細めて笑い続ける。
「なんだよ。何が言いたいんだよ」
琳太郎は額に青筋を立てた。
「別に。私は何も言うことない。琳太郎が言いたいだけ。私にパチンコ行くなって」
雛形は急にキビキビした言い方になり、口を真一文字に結んだ。
「そうだよ」
琳太郎は即答する。
「でも、そうしなきゃいけない時があったんだよ? 気づいてた? みんなとちゃんとコミュニケーション、とれてる? ミドスイノートは見た?」
雛形が問いかけると、琳太郎は言葉に詰まった。最近は体力に限界があるから、合奏指導をするとき以外に声がけもしていない。当然、気を回せていなかった。ミドスイノートも、最後に開いたのがいつだったか、思い出せなかった。
「じゃあ私が教えてあげる。みんな、どうすればいいか悩んでた。白鳥君も、梅子ちゃんも。あの子達、自分のことはどうとでもできるんだよ。ずっと少人数でやってきたから。でも、大編成は? 下に後輩がいなかった子は、教えるっていうことに慣れてないよね。上に先輩がいない楽器の子もいるしね。それでもなんとかしてやろうって、プレッシャーと戦ってる。全国大会を目指すって言ったって、あの子達はまだその舞台に立ったこともない。どういう道筋で行けばいいのかも分からないんだよ」
雛形は力を込め、ゆっくりした口調で言った。それから琳太郎を見据え、さらに声のトーンを上げた。
「ミドスイノートに何て書いてあったと思う? 本番までにできるかちょっと不安って、鶴岡さん、書いてたよ。千鳥川君も、投げ出さずに練習あるのみ、って書いてたけど、ああいうふうに鼓舞しなきゃ、自分を保てなかったんじゃないのかな。烏川君だって。あの、いつも明るい烏川君だって、だよ? ボーランは最高、俺も早く最高になりたい、大勢の観客に聞かせられるようになりたいって書いてた。それって、まだ不安だってことだよね。あと、三年生がいない、ホルンの鵜森さんとチューバの鷲宮君。別のパートからみたら、うちのパートはちゃんとできてるか、私達ちょっと心配なんですって、鵜森さん、私に言ってきた。私、どうしたらいいかわかんないから、すごい焦った。思いつきで、交互にパート演奏を聴かせあって、ダメ出しし合うのはどうかなって言ってみたら、それ、やります、先生ありがとうございますって言って、笑ってた」
雛形が勢いよく言うと、琳太郎は唾を飲み込んだ。何もかも、知らないことばかり、把握できていないことばかりだった。
「今が一番大事なときなのに、肝心の顧問は寝不足で不機嫌。相談しようがない。だったら副顧問の私にできることは? 顧問の代わりに教えること、できないよね。だったら顧問をなるべく休ませて、講師の先生呼んで、個々の力をつけてもらうよう仕向けるだけ。それしか思い浮かばなかった。ごめんね? 私、バカだし、相談できる人、いなかったから」
雛形はテーブルの上の観葉植物の葉をむしり取りながら、嫌味を込めて言い捨てた。琳太郎が何かを言いかけると、雛形が両手で制した。
「電話なんかしたくなかったけど電話して、後藤先生も呼んで、頭下げた。学校に来た日、怖かったけど、笑って我慢した。琳太郎、言ってたよね。サックスが今回頑張らないといけないんだって。鳳君、後藤先生が来てすごくホッとしてたし、嬉しそうだった。分かる? 講師の先生達は、技術を教えにきただけじゃないの。生徒達に寄り添って、不安を和らげにきてくれたの。あなたの代わりに」
「だからって、全パート分、呼ぶ必要は…」
琳太郎がどうにか言い返すも、雛形に遮られた。
「琳太郎の夢は否定しない。必ず実現してくれるって、私も信じてる。応援もしてる。だから琳太郎が部活行こうとしたのも止めた。寝てて欲しかったから。ピアノ、頑張って欲しかったから。よく休んで、元気になったときに、部活に出てもらえばいいって私、思ったんだ」
「うん、ありがとう」
琳太郎はすかさず、小さな声で礼を言った。雛形はさらに続ける。
「琳太郎、全国大会の次の日、俺と結婚しろって言ったもんね。愛してるって言ってくれたよね。私もね、愛してる。真剣に。こんなに好きになった人、いない。だから自分にできること、全力でやってる。毎日、毎日ね。だからタバコ臭いところでパチンコだってする。あなたがしない家事だって全部、してる。料理はサボりたいけどサボらないようにしてる。伊達に家庭科教師、やってんじゃないよ。体が資本だもの、ちゃんと食べないと二人とも倒れちゃう。それに」
雛形は言葉を切った。琳太郎は必死で一つ一つの言葉を拾うとするも、雛形はさらに言葉を投げかけた。
「温室育ちの甘ったれと私じゃ、そもそも土台が違うの。眠くても当たり散らしたりしない。大前提として、そうならないよう自分でコントロールしてる。だって、あなただけでなく、自分にも誓った。泣き言なんて言わないって。それ、理解してもらえてれば、私、まだまだ頑張れる」
雛形は琳太郎をまっすぐ見て言った。雛形はナイアガラの滝のように、膨大な量の言葉の粒を、これでもかと琳太郎に浴びせ、叩きつけ、斬りつけた。琳太郎は滝壺に溺れ、殴打され、斬り裂かれた。完全に言葉を失った。
「でも、理解してもらえてない」
雛形は震える声で言った。
「桃子。悪かった。聞いて」
琳太郎は頭を垂れ、深く息をついた。それだけいうのが精一杯だった。
「聞かない。疲れた」
雛形はばっさり切り捨てた。琳太郎の手からドテカボチャを奪い取り、バッグを引っ掴むと、階段をドタドタ降り始めた。
「どこ行くんだよ」
琳太郎は追いかけ、雛形の腕を掴んだ。
「実家」
「待てよ。ちゃんと話そう」
「十分、話した」
雛形は琳太郎の手を振り払うと、目に涙を滲ませて睨みつけた。琳太郎は苦悶に満ちた目で見つめ返した。雛形は踵を返すと、勢いよく玄関ドアを閉めた。
翌朝、雛形は実家の和室で目を覚ました。ボサボサの髪のまま洗面所に行くと、安彦が髭剃りをしていた。電気シェーバーの音が面白いらしく、足元にモモタロウがまとわりついていた。
「おはよう。もう、ずーっと居ていいからな」
安彦は雛形の打ちひしがれた顔を見て、にんまり笑ってみせた。
職員室で琳太郎が声をかけても、雛形は無視した。かと思えば、事務的な話になると急にバカ丁寧な敬語で話しかけてきた。琳太郎は頭に血が上ったが、雛形の顔を見、感情を押し殺した。
「今日。帰ってこいよ」
琳太郎は小声で話しかけたが、雛形は再び無視を決め込んだ。部活にも顔を出さなかった。
その夜も、雛形は自宅に帰ってこなかった。メッセージは何十通も送ったし、電話もかけたが、すべて無視された。琳太郎はキッチンから赤ワインのボトルを取り出した。まだ半分ほど残っている。
「俺、ダッサ」
琳太郎はダイニングテーブルで頬杖をつきながらグラスに注ぎ、力なく笑った。ワインを飲みながら、持ち帰ってきたミドスイノートを読み始めた。
つづく