副顧問にできること
「去年のコンクールのときの方が良かった」
客席でミド中の演奏を聴いていた鳴沢学園中等部の吹奏楽部部長、銅元がつぶやいた。
「急に人数増えたし。あれじゃない? 『一年生の音』が混ざってるからだよ」
隣の女子生徒が鼻で笑った。
「一年の戦力、あてにしてる学校ってキツいよね。うちは二、三年だけで出てるし」
銅元が冷たい目をステージに向けた。ステージではミド中の部員達が袖にはけていくところだった。
「ねー。無駄に人数増やせば良いって話じゃないのに。それに、何。先生、女の先生に変わったの? 男の先生じゃなかった?」
女子生徒が白けた目をして言う。
「知らない。とにかく今年も全国行くのは、うちだから」
銅元は突き刺すように言った。それからステージ上で片付けの指示を出している響を、憎々しげに見た。
夕方になって発表会が終わり、ミド中の吹部は学校へ楽器を片付けに帰った。部員達が全員帰宅すると、琳太郎と雛形もそれぞれの車で帰宅した。
「疲れた」
「お疲れさま」ダイニングチェアに座り込む琳太郎の様子を見て、雛形が言った。「今週は部活、休んだら」
連日の学校業務と部活指導、それにピアノの練習で、琳太郎は再びげっそりしていた。
「いや、出るよ」
琳太郎は目をぎゅっとつぶって開け、厳しい眼差しで宙を見た。
「よく寝て、よくピアノ弾いて。日曜から出たら。それまで私がみるよ」
キッチンで食事の支度に取り掛かりながら、雛形が提案した。琳太郎は椅子に座ったまま、雛形をじっと見上げた。
「いいの?」
「うん」
「じゃあ、何かあったら連絡して」
「うん」
雛形は優しく微笑んだ。
「ありがとう」
翌日の放課後、雛形は第二音楽室へ向かった。ちょうど梅子が回転椅子に座り、金管メンバーを集めて分奏していた。梅子は切りのいいところで演奏をストップさせると、皆にはその場で個人練習するように伝えた。
「ごめん、梅子ちゃん。今日からコンクールの練習、再開してるよね。みんなはどうかな」
金管楽器のけたたましい音が鳴り響くなか、雛形が聞いた。
「はい。まだまだです」
梅子が少し焦った様子で言った。
「そっか。ちょっと、講師の先生達、呼ぶよ」
「いいんですか?」
梅子が目を輝かせた。
「うん」
雛形は笑顔で答えると、部屋を出ていった。
雛形は廊下をまっすぐ西に向かい、フルートパートが練習する場所へ歩いて行った。直樹の姿を見つけ、声をかけた。
「練習中ごめんね。白鳥君、コンクールの練習、どうかな」
「あー。自由曲もそうなんですけど。課題曲のほう、どう教えれば一番いいかなーって、ちょっと悩んでます」
「フルートの一年生?」
「いえ、木管全部なんですけど」
「分かった。講師の先生達、呼んであげる」
「本当ですか?」
直樹が驚いて聞いた。
「うん」
「琳太郎先生が予算が、って言ってましたけど」
「どうにかするから」
雛形は笑顔で答えた。
職員室の自席に戻ると、雛形はパソコンを開いた。今年度の吹奏楽部の予算と、その内訳を取り決めしたPDFを見つめていた。部内の経費は講師のレッスン代だけではない。楽器購入代、楽譜購入代、バス代、定期演奏会での会場使用料など、他の部活に比べてかなり経費がかかる。去年よりは学校から増額してもらえているものの、カツカツだった。琳太郎は先日、ピッコロを購入していたが、他にも新たに買い替えたい楽器があると言っていた。レッスン代を削ればそれなりに浮くが、今の状況からいってそれが正しいとは思えなかった。
「琳太郎に無理、させられないもんね」
雛形は腕を組み、考え込んだ。見ていると琳太郎はとても分かりやすい。睡眠が十分に取れていれば機嫌がよく、吹部の部員達にも穏やかに接していられる。仕事の方で用事が立て込んだり、ピアノの練習がヒートアップして睡眠不足になると、途端に機嫌が悪くなり、部内の空気が悪くなる。琳太郎の体調がそのまま部員達の上達具合に影響するのだ。お金さえ用立てできれば問題は解決する。細かい技術指導は各講師に任せた方がいいと、雛形は力強く頷いた。
「私は泣き言、言わないって誓った」
他の職員に聞かれないよう、雛形はかすかな声でひとりごとを言った。それから立ち上がり、職員室を出た。
「いつもお世話になります。ミド中の雛形です。ええ、そうです、日曜日です。お願いできませんか」
進路指導室にこもり、雛形は電話をかけ始めた。
その翌日も、翌々日も、雛形が部活を終えて帰宅すると、琳太郎は死んだように寝ていた。雛形は寝室の扉をしめ、起こさないよう、一人で食事をとった。
土曜日の朝、雛形は目を覚ました。隣に琳太郎の姿はなかった。ピアノ部屋のドアを開けると、琳太郎がピアノを弾く手を止め、こちらを見た。
「おはよう。左手に特化した練習をしているんだ」
グランドピアノに向かい、琳太郎が穏やかに微笑んだ。雛形は琳太郎の横顔をじっと見つめた。
「練習頑張って。私、ちょっと買い物行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
琳太郎は雛形に顔を向けて言うと、左手で十六分音符を弾き始めた。雛形はドアを閉め、廊下を歩いた。靴を履いて玄関を出ると、まっすぐ繁華街に向かって歩いた。たどり着いた先はパチンコ屋だった。雛形は自動ドアの前でドテカボチャをバッグから取り出し、じっと見つめた。それをぎゅっと握り締め、再びバッグにしまいこむと、ドアをくぐった。
日曜日の朝、雛形がベッドから起き出すと、琳太郎も目を覚ました。
「寝てていいよ」
雛形はクローゼットを開け、デニムを履きながら言った。
「いや、起きるよ」
琳太郎は上体を起こし、あくびをして言った。
「やっぱり今日も部活、出なくていいよ。レッスン頼んだから」
カットソーに腕を通しながら雛形は言った。
「え?」
琳太郎は寝耳に水だった。
「ゆうべ、何時まで弾いてたの。ゆっくり寝て、起きたらまた弾けば。私が行ってくるから」
「うん…。予算って、大丈夫なんだっけ?」
琳太郎は目をこすりながら尋ねた。
「まだ大丈夫だよ」
雛形は琳太郎にキスして笑顔をつくると、寝室を出ていった。
雛形が学校に着き、職員室へ行くと、すでに鍵束は無かった。そのまま第二音楽室へ向かうと、部員達が音出ししていた。
「おはよう」
「おはようございます。今日、午後からですよね、先生達がくるの」
直樹が尋ねた。その後ろで錬三郎や公彦も嬉しそうに笑った。
「うん」
雛形は優しく頷いた。
部活を終えて雛形が帰宅すると、琳太郎がピアノを弾いていた。
「お帰り。今日、ありがとう。がっつり練習できたよ。部活、どうだった?」
琳太郎が穏やかな笑みを浮かべて言った。
「うん。今日はコンクールの曲、レッスンしてもらったよ」
「誰、呼んだの」
「あー、桜川先生と杉田先生」
雛形は嘘をついた。
「フルートとボーンか」
琳太郎は軽く頷いた。
「うん」
「桃子にしっかり休ませてもらったし。来週はがっつり出るよ」
「分かった。私、シャワー浴びてくるね」
雛形はそそくさと浴室へ行った。
入浴後、雛形は作り置きしておいたおかずとご飯を温め、二人で食べた。その後、琳太郎は再びピアノ部屋にこもった。雛形は食器を洗いながら家の中を見回した。ダイニングの隅にはホコリがうっすら積もっていた。キッチンのゴミ箱の蓋を開けると、空になったカップ焼きそばの容器が捨てられていた。今度は寝室に行った。琳太郎がまだ開封していない段ボールがいくつか残っていた。ベランダに出ると、あると思っていた洗濯物がなかった。急いで一階に降りていき、脱衣所の洗濯機のもとへ向かうと、脱水が終わって放置された洗濯物がそこにあった。今度は玄関を出て、郵便ポストを開けた。不在票が入っていて、書き込まれた訪問時刻を見た。今日の午後一時とあった。
雛形はポーチに立ち、窓の外からピアノ部屋を見た。カーテンの隙間から明かりが漏れ、琳太郎がピアノを弾く音が少し聞こえた。雛形は夕闇のなかで伸びをし、深呼吸すると、家事に取り掛かった。
つづく