頑張れ副部長
翌日の放課後、第二音楽室で直樹がタクトを持ち、木管メンバーの分奏を始めた。金管楽器のメンバーは部屋の外に出たので、今度は梅子が見回りに出かけた。東側の階段に行くと、トランペットの四人がいるのが見えた。
「リップスラー。やるよ」
「はい」
結那がキビキビ言うと、一年生の女子達はメトロノームに合わせ、リップスラーの練習を始めた。金管楽器にはリップスラーの基礎練習が不可欠だ。運指は変えずに唇の形だけを変え、狙った音を出す練習だが、一年生は二人ともしんどそうに見えた。あたりのいい、華やかな高音を出せるようになるためには、トランペット奏者なら避けては通れない道だと、梅子は目を細めて頷いた。
結那は明らかに変わった。スカートの丈はまりあに指摘された日以来、頑張って短い状態をキープしており、「一年生に絶対に舐められてたまるか」という気迫が漂っていた。同時に、「何があっても私が守ってやる」という温かさも、梅子には感じられた。結那は一年生が吹くたびに、音をよく聞き、出来具合を確認していた。結那の隣で個人練習をしている公彦に、梅子は背伸びして顔を近づけた。
「昨日も分奏で言ったけど、特にイントロ過ぎたこの辺り。チャッチャラッチャーラララー、のとこ。こけるとかっこ悪い。よく練習しといて」
梅子は短い腕を伸ばし、公彦の楽譜をビシッと指さして言った。公彦は少し面白くなさそうな顔をしつつ、頷いた。
「分かってる」
梅子は、今度は結那と一年生達の方を見た。結那は高音域のリップスラーを実演しているところだった。
「結那の練習は公彦がみてあげてよ」
「分かってる」
「あと、結那が頑張って教えるの、分かる。慣れないことやっててしんどいと思う。話はちゃんと聞いてあげてよ。また思い込みするのは、ダメだよ」
「分かってる」
おうむ返しする公彦に向かい、梅子は厳しい顔を向け、念押しした。今度は水道近くで練習しているホルンパートを見に行った。ホルンはメンバー全員でタンギングの練習をしていた。恵里菜は可愛い顔をしていても、海軍総司令官さながらの風格が出ている。以前よりも声を張り、三年生顔負けのパートリーダーへ成長していた。
「また、ぶつ切り。息を止めてやっちゃダメって、私、昨日も言った」
「はい」
恵里菜が中断して、ゆっくり、はっきりした声で注意すると、一年生の女子、男子ともに真剣に返事した。それから恵里菜は史門に向かって言った。
「息は、流す。史門。お手本」
史門は黙って手本をみせた。ポゥ、ポゥ、ポゥ、ポゥと美しく鳴った。梅子はそれを聞いて少し感心した。一年生が入ってから、史門は間違いなく音量がアップしたし、タンギングが上手くなった。
「こういう感じ」
恵里菜が史門を指さして言うと、一年生達は頷き、再びタンギングを再開した。
「そう、そうだよー。それでいいんだよ。自分でも違い、分かるでしょ」
一年生達が緊張しながら頷く姿を見て、恵里菜は輝く笑顔を向けた。さらに、手本をみせた史門にも「よくやった」と言わんばかりに頷いた。史門は「頑張りました」と言わんばかりに頷き返した。梅子は声掛けする必要はないとみて、今度はトロンボーンパートのもとへ向かった。
トロンボーンのメンバーは廊下の西端で練習していた。怜が中途半端に仕切っていた。
「それ、十分間、やれ」
怜はぶっきらぼうな調子で、三人の一年生達に言った。トロンボーンは講師の杉田仕込みの、「同じ音をひたすら十分間吹く」という練習をしていた。途中でバテたら息継ぎをし、再び同じ音を出し続けるというもので、飽きる上に、かなり過酷な練習だった。ただ、梅子が遠巻きに様子を見ていると怜は男子二人にばかり注意し、女子のことはほったらかしにしていた。
「ちょっと、平等に面倒みてよ」
怜に向かって梅子が注意した。
「いや、俺、あいつ、苦手でさ」
怜は女子の方を見た。血色が悪く、色白の女子は、今にも消えそうな音を出している。
「なんで」
梅子は腰に手を当て、歯をむき出しにした。
「だって、ちょっと言ったらすぐ泣くしよー。調子狂う。面倒くせえ。あれは梅子の担当だから、任せるよ」
怜は首筋をボリボリかいた。
「何言ってんの。怜の言い方が悪いんでしょ」
直樹は背の高い怜を見上げ、呆れて言った。
「可愛い梨花ちゃんと、交換してくれないかな」
怜はニヤニヤしてみせた。
「梨花にちょっかい出さないでよね。あの子は一人でオーボエ、必死にやってんの。ボーンの子の面倒は怜がちゃんとみて。それがあんたの仕事だよ」
梅子がトロンボーンの女子生徒を見ながら、怜にピシャリと言った。怜は肩をすくめ、練習に戻った。
階段を降り、三階についた梅子は、音がする方へ向かった。手前の教室ではチューバとユーフォのメンバーが練習していた。
「低音、顎を出して。潰れないよう気をつけて。ピッチも高くなりがちだから。チューナーで音程を確認しながら練習してね」
「はい」
梅子が優しくアドバイスすると、ユーフォニアムの一年生の女子の方がはっきりと返事をした。
「そっちは、どう」
梅子が、今度は男子の方に声をかけた。
「はい。頑張ってます」
男子はユーフォニアムで「ウエスト・サイド・ストーリー・メドレー」の中の「トゥナイト」の旋律を丁寧に、吹いていた。梅子が吹くほどではないにしろ、前日の分奏のときに注意したところは改善していたし、悪くなかった。なかなか期待できそうだと感心した。それから今度は、チューバ二人の方に目を向けた。
「幹生、一年生、タンギングの練習もっとやらせて。きついだろうけど」
「はい」
幹生は短く返事し、すぐにタンギング練習を開始した。
「本番までどうにかそれらしく、決まるといいね。『マンボ』のとこ」
梅子はチューバの一年生男子を見た。幹生ほどではないが背が高く、チューバの重さには慣れてきたようだ。ただ、まだ幹生のレベルには程遠く、曲練は難航していた。
「俺もここが好きです。揃ったらかっこいいっすもんね。きついけどやらせます」
幹生は楽譜を見ながら朗らかに答え、一年生に指示を出し始めた。
梅子は教室を出て、別の教室へ向かった。そこではコントラバスの一年生の女子が一人、静かに弓を引いていた。コントラバスは音量が小さく、やかましい金管楽器と同じ部屋で個人練習させるのは避けた方がいいのは梅子も知っていた。滑らかさがなく、安定感もまだ無いものの、コツコツやっているようなので、梅子は話しかけず放っておくことにした。すると、小さな音がした。梅子が振り返ると、左手からコントラバスのネックが滑り落ち、下部のエンドピンが椅子の足にぶつかったようだった。梅子は一年生の左手が目に留まった。
「どうしたの」
梅子が一年生のもとへ駆け寄った。一年生は左手を押さえ、顔を歪めていた。
「ねえ、その手」
梅子は急いで南校舎にある保健室に連れて行った。養護教諭がまだ残っていたので、任せることにした。
梅子が四階にのぼっていく頃、ちょうど部活の終了時間になった。ミーティングをやり、木管と金管メンバーが帰った。パーカッションだけは準備室に残っていた。第二音楽室に残った直樹がフルートを手に、梅子に話しかけた。
「金管、どうだった?」
直樹が尋ねた。
「ペットとボーンとチューバが厳しい。けど明日、椎名先生くるから。ただ」
梅子は言葉を切った。ため息をつき、バッグからマカダミアナッツチョコの箱を取り出した。封を開け、二粒まとめて口に放り込んだ。
「保健の先生に聞いたけど、コンバスの子、腱鞘炎っぽいよ。誰もみてあげてないからああなっちゃったのかも。病院、行ってもらった」
「えっ、そうなの」
梅子が打ちひしがれた様子になり、口をモゴモゴさせながら言うと、直樹は声を張り上げた。
「そうだよー。かわいそう。手、結構ひどそうだったよ。でも、私もコンバスのこと、全然わかんないし。治るまで練習は無理じゃない?」
「だよな。発表会も、無理して出さなくていいと思う。コンクールの方が大事だし」
「うん。それで、木管はどうだった?」
「木管は全部、厳しい」直樹は苦笑した。「うちも明日、竹田先生が来てくれるから少しはよくなるかな。ねえ、それ、俺にもちょうだい」
直樹がフルートをおき、手のひらを差し出した。チョコを二粒、梅子が差し出した。
「パーカスはどうする?」
梅子が再び箱に手を伸ばし、口にチョコを放って尋ねた。
「あそこは大丈夫だよ。銀と朱雀さんがいるから」
直樹もモゴモゴしながら準備室の方を見た。「ウエスト・サイド・ストーリー・メドレー」のなかでも最も盛り上がる「マンボ」のところを、五人が何度も合わせて練習してした。銀之丞の指導する声も聞こえてきた。
「あの」
ドアの方から声がした。直樹と梅子はドアを振り返った。そこには雛形と、頭を丸坊主にした太陽が立っていた。
つづく