広島旅行《後編》
翌朝は雨だった。
「室内で観光できるところはどこかな」
朝早く起きた琳太郎はソファに座り、スマートフォンで検索をかけた。雛形も一緒に覗き込んだ。
「もうすぐ雛祭りだよ。ここ、行こう」
雛形が画面を指さして言った。
二人はレンタカーを借りて、竹原市を目指した。コインパーキングに車を停めると、雛形が傘を取り出した。琳太郎がさし、その街並みを歩いた。歴史的建造物が立ち並び、資料館やあちこちの旧家の家屋内で雛飾りをしていた。いずれの場所でも豪華な段飾りの雛人形が多数、飾られていた。制作された時代ごとに大きさや人形の表情、着物の柄など異なる趣をみせ、伝統美のなかにも多種多様な美しさを披露していた。
「見て。五人囃子が男じゃないよ。女の子になってる」
雛形は興味深そうに雛飾りを見た。
「こっちのは唐紅の着物。渋い」
雛形は別の雛人形も見て言った。
「ほら、竹細工で出来てるのもあるよ」
竹工房の店に飾られている雛人形を指さし、雛形は写真を撮った。
「女子はこういうのが好きなんだな」
琳太郎は少し退屈して言った。
「子どもの頃からお雛様、好きなの。綺麗な着物。見てると癒される」
雛形は楽しそうに言った。
「俺は桃子の着物姿の方がいいな」
琳太郎がぼやくと、雛形はくすくす笑った。それからすぐそばの壁に掲示されているポスターを見て、スマートフォンで電話をかけた。
雛形はどこかへ出掛けていった。屋内の別室で和楽器のライブが始まったので、琳太郎はそちらに向かった。座敷の奥、中央に津軽三味線の奏者が、両サイドに篠笛の奏者と箏の奏者がそれぞれ楽器を構え、演奏を始めた。
他の来訪者とともに琳太郎が見ていると、後ろから声をかけられた。
琳太郎が振り向くと、着物を着た雛形が立っていた。カジュアルな小紋で、青と白の清涼感ある生地に、ピンクの桜と水色の梅の花を可愛らしく散らしてある。髪は全体を七対三に分け、後頭部の低い位置でボリュームをつくって巻き込み、ピンで留めている。
「着物体験ができるって、あったから」
雛形は先程のポスターを指さして言った。
「最高に可愛い」
琳太郎がスマートフォンのカメラレンズを向けると、雛形は嬉しそうに微笑んだ。そのとき、演奏が終わった。その後は津軽三味線の体験講座が開かれ、琳太郎と雛形も参加した。
「私、楽器できないよ」
雛形は三味線奏者に教わりながら三味線を構えつつ、琳太郎に向かってぼやいた。
「できなくていいよ」琳太郎は笑い、また写真を撮った。「俺が眺めてたいだけだから」
雨がやみ、二人は外を散歩した。
「時代劇のワンシーンみたい」
雛形は草履を履き、小股で歩きながら辺りを見回した。
「そこのお武家のおひいさまは、どちらへお出かけですか」
着物姿の雛形に向かって、琳太郎が楽しそうに聞いた。
「ちょっとそこまで。はい、琳太郎先生。ここは何の街ですか」
雛形が手を挙げて、学校にいるときのような口調で楽しそうに質問した。
「製塩の街。塩づくりで栄えたから、経済的に豊かだった。だからこんなに屋敷があるし、伝統文化も発達したんだ」
琳太郎が言うと、雛形がパチパチと拍手した。
「歴史の先生になってもよかったのに」
そう言いながら、雛形はくしゃみした。
「寒い。温泉、行かない?」
琳太郎は着ているコートを雛形にかけてやった。
「温泉? 行きたい」
雛形は目を輝かせる。琳太郎はその目を愛しげに見つめた。
「少し遠いけど。時間はたっぷりあるし」
二人は東に向かって車を走らせ、福山市に入った。ここには広島県の三大温泉、鞆の浦温泉がある。日帰り温泉を提供しているホテルに入り、二人はそれぞれ浴場に向かった。
雛形は女湯の大浴場で体を洗うと、露天風呂へ続く扉を開けた。冷たい風が吹き込み、全身が震えた。早足で浴槽に駆け込み、肩まで湯に沈むと、目の前に広がる鞆の浦の景色を眺めた。薄青色の空と淡い群青色の海、灰緑色で覆われた島が、目の前にあった。
雛形は肩に湯をかけながら、琳太郎の言っていたことを思い出した。楽器倉庫で、話しておきたいことがあると琳太郎は言っていた。旅行で話すと言っていたが、それはいつなのだろう。あのときの表情から、気楽に話せる内容でないのは想像がついた。自分から聞き出す気には、とてもなれなかった。
「明日は晴れ。島めぐりしようよ」
ホテルの部屋に帰ると、琳太郎はダブルベッドの上に座り、雛形にスマートフォンでマップを見せた。
「島めぐり?」
雛形も隣に座り、画面を覗き込む。
「うん。瀬戸内海の島が橋で繋がってて、ここに御手洗がある」
琳太郎が画面を指さした。
「へえ。御手洗って?」
「竹原や鞆の浦みたいに古い街並みがあるところだけど、こっちは島。レトロで面白いよ」
「うん。行こう」
雛形が頷くと、琳太郎がキスした。
「ねえ」
雛形は笑みを消し、問いかけた。
「何?」
琳太郎はまたキスをする。話って何、と聞こうとして、雛形は口をつぐんだ。聞きたいけれど、聞きたくない。相反する感情に締め上げられ、唇が空回りする。それから、別の言葉が口をついた。
「旅行中、何回キスするんだろ」
雛形は琳太郎の瞳を見つめた。端正なその顔のなかに、純粋に恋焦がれる少年の姿がそこにあった。見ているだけで愛しさが募った。体が熱くなり、徐々に呼吸が速くなった。
「呼吸するのと、同じくらい」
琳太郎はつぶやき、雛形を見つめ返した。二人は衝動的にベッドに倒れこみ、激しく求め合った。
最終日の翌朝、琳太郎と雛形はチェックアウトし、レンタカーで呉市に向かった。
「呉も面白いところなんだよ」
琳太郎が運転しながら言った。
「へえ」
雛形は助手席に座って相槌を打つ。
「造船と製鋼で栄えた街だからね。戦艦大和の博物館がある」
「さすが、琳太郎先生」
雛形は微笑んだ。
「ほら、島が見えてきた」
呉の市街地を抜けて琳太郎が言うと、雛形は正面を見た。目の前には瀬戸内海が広がっていた。
国道185号線に沿って進み、レンタカーは橋を通って海を渡った。下蒲刈島、上蒲刈島、豊島と続く。
「島が連なってるんだね」雛形が窓の外を見てはしゃいだ。
二人はさらに橋を突き進み、大崎下島に入ると、島の東岸にある御手洗へ到着した。
「ここ?」
車から降りて雛形が聞くと、琳太郎が頷いた。
「行こう」
琳太郎は雛形の手を引き、街のなかを歩いた。明治から昭和の時代を彷彿とさせる、白壁に瓦屋根の民家や蔵、塀が立ち並ぶ、歴史的な建造物群がそこにあった。街のなかはひっそりしていて、二人は迷路のような街路を散策した。
「このポスト、使えるのかな」
雛形が円柱形の赤いポストを指さして聞いた。
「見て。この床屋さん、営業してるんじゃない?」
雛形は、今度はポストの隣にある木造の建物を指さした。ぐるぐる回るサインポールが壁に取り付けられている。
「全部、誰も住んでない文化遺産かと思った。ここで暮らしている人もいるんだね」
雛形が感慨深そうに言った。
二人はその後も散策を続けた。雛形が寒そうに身震いすると、琳太郎は雛形の手をとり、大股で歩き出した。
「どこに行くの」
「あったまれる場所」
「また温泉?」
「今度は違うよ」
琳太郎が向かったのは船宿をリメイクしたカフェだった。店内に入り、二階席を案内された。空間全体が畳敷になっており、木製の格子窓から瀬戸内海を見渡せた。
「綺麗」
雛形はため息をついた。
「名物をいただこう」
琳太郎がちゃぶ台の前にある座布団に座り、メニュー冊子を見た。
「名物って何?」
「美味しいやつだよ」
琳太郎が店の主人にオーダーした。少し待つと、店主がコーヒーとぜんざいを運んできた。
「ぜんざい?」
雛形は器の中身をまじまじと見つめた。温かい餡子の中に焼いた餅が顔を出している。
「何も言わずに食べてみて」
琳太郎がコーヒーを飲みながら言った。雛形は匙で餡子をすくい、目を見開いた。
「美味しい。レモンが入ってるの」
「ここら辺で採れる、大長レモンのぜんざい。意外と餡子に合うだろ」
「うん、すごく合う」
雛形はあっという間に完食した。
「ねえ、このお店、本当に素敵だね」
雛形はうっとりしながら窓からの眺めを見つめた。海の向こうに島々が連なって見える。
「御手洗は風待ち、潮待ちの港」
「何で待つの?」
「いい風が吹いて、潮の流れも穏やかじゃないと、船を出せないだろ。天候が良くなるまでの間、船乗りの男達はここで待機した。だから茶屋もあった」
「そうか、お茶しながら待ったんだね」
雛形が言うと、琳太郎がくすくす笑った。
「茶屋ってそういう茶屋ばっかりじゃないけどね」
「どんな茶屋?」
雛形がきょとんとして聞いた。
「桃子みたいないい女がたくさんいる店」
琳太郎がにやりとして笑った。
二人は御手洗を堪能した後、隣の岡村島まで渡った。橋で行けるルートはこの島までとなっている。
「岬まで行こう」
二人を乗せた車は海沿いを走り、南下した。狭くて急勾配な上り坂が現れ、琳太郎はハンドルを切りながらどうにかのぼった。そこは島の南端に位置する展望台だった。日が傾き、アールを描いた二階建ての展望台からは愛媛県今治市と、広島県尾道市の間に点在する島々をつなぐ道路、しまなみ海道が見渡せた。
「このまま家に帰れなくなっちゃえばいいのに」
雛形は瀬戸内の眺めに見とれ、切なそうに言った。琳太郎は雛形の横顔を見つめた。
「もう帰らなくて、いっか」
琳太郎が空を見上げて、笑って言った。
「うん」
琳太郎は雛形を見た。長い黒髪とスカートが風にたなびいた。顔には心から満たされた笑みを浮かべ、こちらを見ている。
「世界で一番。桃子が、好きじゃけえ」
琳太郎が下手くそな広島弁で言った。雛形はくすくす笑った。琳太郎は雛形の身長に合わせて首を傾げると、優しくキスをした。
二人は広島市に戻り、レンタカーを返した。広島駅のイベントスペース前に差し掛かると、一台のグランドピアノが設置されていた。雛形が案内看板を読み上げる。
「一人五分まで、自由に演奏していいんだって。まだ新幹線まで時間あるし、何か弾いてみたら」
雛形が振り向いて言うと、琳太郎は軽く微笑んだ。
「ストリートピアノだね」
琳太郎はそう言って、椅子に座った。琳太郎が音階を弾くと、そばにいた小学生の女の子達がチラチラ見た。琳太郎は「きらきら星変奏曲」を弾き始めた。小学生達は興味深そうにそれを見つめた。他の歩行者も足を止め、演奏を聴き入った。
演奏が終わると、通行人達が拍手をした。後続者にピアノを譲ろうとしたが、誰も列に並ぼうとしない。
「もう一曲、違うの弾いてよ」
そばにいた熟年女性が言った。琳太郎は辺りを見回し、再び椅子に座った。
「何がいいですか?」
「何かクラシックがいいわ。情熱的なやつ」
女性が期待を込めて言う。隣にいる夫らしき男性も頷いた。
琳太郎は少し思案すると、リストの「ラ・カンパネラ」を弾き始めた。長い指で超絶技巧を駆使し、美しく悲しく響く調べに、通行人達は歩みを止めた。一人、また一人と取り囲むギャラリーは増えていく。
演奏を終えると、通行人達は歓声をあげ、拍手喝采した。辺りにはすっかり人だかりができていた。
「お兄さん、すごい上手いね」
老年男性が歩み寄り、力強く拍手をしながら褒めた。
「じゃあ、僕はこれで」
琳太郎が椅子を立とうとすると、その男性は琳太郎を押し戻した。
「他に弾くやつがいない。もっと弾いてくれ」
琳太郎は少し面食らっていたが、愛想よく笑って頷いた。雛形は少し不安になりながら、その様子を黙って見ていた。
結局、その後も琳太郎は弾き続けた。四コマ分、二十分かけて四曲弾いた。琳太郎は拍手をしてくれた通行人達に頭を下げると、雛形とともに新幹線の改札口へ向かった。
「ねえ、琳太郎」東京行きの新幹線の車内で、二人は並んで座り、雛形が不安そうに尋ねた。「手、大丈夫なの」
琳太郎は雛形の方に向き直った。琳太郎は黙っている。雛形は琳太郎をじっと見つめた。琳太郎の呼吸は少し荒く、思い詰めた目をしていた。
「弾けるんだ」琳太郎は言葉を切った。「前よりも、長く」