怜
新学期が始まって二週間が過ぎた。三時間目のチャイムが鳴り、琳太郎は音楽の授業をするために第一音楽室に向かった。部屋に入ると坊主頭の一団だけが席につかず、後方の床にベタ座りして騒いでいた。
「チャイム鳴ってるぞ」
琳太郎が声をかけると、面倒臭そうに席についた。琳太郎には見覚えのある顔があった。朝の勧誘のときに野次を飛ばしてくる、野球部の連中だ。
琳太郎は校歌をピアノで弾き始めた。真面目な生徒達は熱心に歌い出すが、野球部達はヘンテコな声を出し合って面白がっている。
「お前、名前は」
校歌の伴奏を弾き終わると、琳太郎はその中で一番背が高く、筋肉質な男子につとめて明るく聞いた。おそらくこいつがリーダー格なのだろうと察しがついた。
「名乗るほどのもんじゃ〜ありません」
隣にいた、少し華奢な坊主頭がふざけて言うと、ほかの坊主頭も笑った。
「さっきは熱心に歌っていたのに、自分の名前も言えないんだな」
琳太郎は毅然として言った。
「…大鷹怜」
リーダー格の坊主頭がようやく答えた。
「大鷹か、よし。好きなアーティストはいるか?」
「ミセス・ブルーアップルでえええす!」
またもや隣の坊主頭が、勝手に答えた。ミセス・ブルーアップルはJ-POPで人気のアーティストだ。
「俺も好きだぞ」
琳太郎はにこにこして答えるとピアノに向かった。ミセス・ブルーアップルの代表曲『青い夏』のイントロを弾き出す。
「みんなも知ってるだろ。今日はこれの練習しよう」
琳太郎が呼びかけると、一部の生徒達は喜んで歌い出した。サビまでくると、ほとんどの生徒達が歌い出し、合唱になった。怜だけは歌わず、始終、琳太郎を睨めつけていた。
休み時間になって、琳太郎が外の空気を吸いに出た。すると、中庭で野球部顧問の島田を見つけた。
「島田先生、お疲れ様です。鳥飼と申します。改めてよろしくお願いします」
琳太郎が行儀良く挨拶すると、島田は貫禄たっぷりに腕を組み、頷いた。
「あいさつご苦労さん。どうだい、吹部の方は」
「大変です。自分も未熟なもんで」
琳太郎は謙遜して言った。
「女子達の間では大変な人気だね。イケメンが吹部の顧問になったって。入部希望者が殺到しているんじゃないのか」
「いや、そうでもないですよ」
琳太郎は苦笑しながら、野球部の練習を隣で見た。
「野球部の生徒は、元気いいですね。朝によく見るんですよ。大鷹とか」
怜をはじめとした野球部がちょっかい出してきていることは伏せて、琳太郎は敢えて名前を出してみた。
「大鷹は…」
島田はそう言って、表情を曇らせた。
「どうしたんですか」
琳太郎は、なるべく平静を装った。
「あいつには休んでもらってるんだ」
「そうなんですか?」
島田は事情を話し始めた。琳太郎は黙って耳を傾けた。
「捻挫?」
職員室に戻ると、雛形が給食を食べながら、琳太郎の話を聞いていた。
「そう。島田先生から何回か繰り返してる、癖になってるみたいだって、手術が必要って聞いたんですよ」琳太郎は白飯を箸でつまみながら言った。「だから、ピッチャーだったけど、レギュラーは無理だろうって外されたらしくて」
苦笑いしながら、琳太郎は牛乳をストローで飲み干した。
「だから、頑張って活動している吹部が気に障るんでしょうね」雛形は唐揚げをつまみながら、陰気な声で続けた。「吹部にスカウトしたらどうですかね」
「それ! 僕もそう思うんです!」琳太郎の声が急に大きくなり、雛形はびっくりして唐揚げを丸呑みしてしまった。「あいつ、腕も長いでしょう。手首も多分、かなり柔らかいと思うんですよね。トロンボーンとかいいんじゃないかな」
「確かに」
雛形は琳太郎の勢いに圧倒されながら頷く。
「楽しみだな。あいつ結構やりそうな感じするんですよ」
「問題はどうやって取り込むか、ですね」
雛形はテンションが低い声のわりに、乗り気なようだ。
「何かあいつがやらかしてくれると説得しやすくていいんですよね。ところで、雛形先生」
「はい?」
琳太郎が急に真面目な顔になったので、雛形は怯んだ。
「その唐揚げ、一つもらってもいいですか?」
「…」
雛形はぶすっとした様子だが、黙って琳太郎に差し出した。