伊久馬と幹生
一年生の雁谷伊久馬は、入学後間もなくひどい風邪を引いてしまった。しばらく休んだ後、母親に車で送ってもらうと、校門の前が賑わっていた。
伊久馬が人だかりの出来ている方に向かうと、上級生達が演奏していた。そこで一人の女子の先輩に目がとまった。背が低く、腕が短いのに、細長い管楽器を前後に動かしながら一生懸命、吹いていた。
「さあー、みんなー、吹部に入らないかー? 俺たちはー、全国をめざーすー」
銀之丞はいつものようにゆったりした声で呼びかけた。伊久馬が近づいていくと、銀之丞が声をかけた。
「ねーねー、仮入部に来てよー」
そう言って伊久馬にチラシを渡した。伊久馬は「どうも」と言って受け取った。それを読みながら、一年生の教室へと向かった。
伊久馬のクラスの同級生は、どこへ入部するかほぼほぼ決まっているらしい。運動部へ入部する者が多く、文化部は少なそうだ。自分だけ出遅れてしまっていて、友達もまだできていない伊久馬は気後れしてしまった。
「雁谷君、だよね?」
休み時間に、一人の男子が話しかけてきた。伊久馬より頭ひとつ分背が高く、中学生には見えないほど立派な体格をしている。
「うん。そうだけど」
伊久馬は人見知りしながら返事した。
「俺、鷲宮幹生。部活、どこ入るか決まった?」
幹生が自己紹介しながら聞いた。
「ううん。僕、ずっと学校休んでたから」
伊久馬はそう言いながら、机の上に先ほどもらったチラシを置いた。
「あっ、それ持ってるんだ。俺、その吹奏楽部に最近見学に行ってるんだけどさ。雁谷君も一緒に行かない?」
幹生が尋ねた。
「うん、行く」
誘われたのが嬉しくて、伊久馬は即答した。
放課後になり、幹生と伊久馬が第二音楽室に入ると、上級生らしき生徒達が近づいてきた。
「今日も来てくれたんだね。何だっけ、ホルンだっけ?」
銀之丞が幹生に声をかけた。
「あ、今日は違う楽器もやってみたいっす」
幹生がそう答えると、部屋の奥にいた公彦が楽器倉庫へ来るよう呼びかけた。幹生はそれに従ってついていった。取り残された伊久馬は、不安そうに銀之丞の顔を見上げた。
「吹部へようこそー。遠慮しないで入って入ってー。あー、今日さ、朝に校門のとこで会ったよねー?」
伊久馬が軽いノリで話しかけてきた。前髪をてっぺんで結び、おでこ全開で笑顔百パーセントな銀之丞に、伊久馬は少し面食らった。少し間を置いてから、頑張って頷いた。
「一年の雁谷伊久馬です。遅くなると親に怒られるんで、四時まででもいいですか」
伊久馬が控えめな声で聞いた。塾に遅れたら大変だ。ママに叱られてしまう。
「いいよー。どの楽器、ためしてみるー?」
銀之丞が部屋を見渡しながら、あちこち指を指しながら説明した。
「トランペットとー、ホルンとー、トロンボーンとー…」
朝に見たあの楽器はトロンボーンというのか。梅子はトロンボーンをほかの一年生に持たせてやりながら、吹き方を教えている。
「トロン…」
伊久馬が言いかけた途端、恵里菜が象の鳴き声のような音をかき鳴らした。今日もホルンが絶好調らしい。
「ごめん、よく聞こえなかった。トライアングル?」
銀之丞がそう聞き返した声も、恵里菜の爆音でよく聞き取れなかった。
「はい、そうです」
伊久馬が答えると、銀之丞は嬉しそうに案内した。
「パーカッション、欲しかったんだよー。大歓迎だよー」
銀之丞がトライアングルを伊久馬に持たせてやった。伊久馬は何のことか分からず、でも訂正することもできなかった。銀之丞は聞かれてもいないのに勝手に喋り出した。終始機嫌よく、いろんな打楽器の説明をしたり、演奏の手本を延々と見せていた。