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緑谷中学吹奏楽部  作者: taki
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健治の妹

その日は部活が休みだった。健治は自宅の自室でベッドに寝転び、ノートパソコンを開き、ワイヤレスイヤホンを耳につけると、「はろはろ♡えりジェンヌ」の最新動画を見始めた。今日のえりジェンヌは画面のなかで、普段は非公開にしている自宅の内部を初披露していた。健治はその様子を一瞬たりとも逃すまいと、食い入るように見つめていた。

「お兄ちゃん」

部屋のドアを開け、健治の妹、梨花が声をかけた。健治は気づかず動画を見ている。

「お兄ちゃん」

梨花は部屋に入り、健治のベッドの脇に立った。健治はまだ気づかない。

「呼んでんじゃん」

梨花は声を荒げ、健治の尻を蹴飛ばした。健治は「ぐは」と言って体を逸らせた。

「なんだよ」

健治は片耳だけイヤホンを外してベッドの縁に座ると、梨花を睨んだ。

「史門君」

梨花はそれだけ言うと、部屋から出て行った。健治は伸びをして部屋を出ると、玄関に向かった。

「なんだよ」

健治が玄関から顔を出すと、史門が少し興奮気味な顔をして立っていた。

「僕、ついに乗れるようになった」

「何が」

頭の後ろをかきながら、健治が面倒くさそうに聞いた。

「見てくれ」

史門は、健治の家の前にとめた自転車に向かった。自転車は健治のものより一回り小さいサイズだった。史門はそれにまたがると、高速で両足を漕ぎ、一メートルほど進んだところで、地面に足をつけた。

「ほら」

史門は振り返って得意そうに目を細め、健治に向かって不敵に笑った。

「だからどうした」

健治が呆れて言った。

「だから、見たろ。自転車に乗れたんだよ、僕」

史門がムキになって言った。

「乗れたうちに入らねえだろ、それ」

健治がずんずん歩いて、史門を自転車からどかした。

「こうだよ」

健治は史門の自転車に乗って三十メートルほど、道路に沿って走ってみせた。さらに、自転車を方向転換させ、玄関前に戻ってきた。史門はそれを妬ましそうに見つめる。

「何やってんの」

家の中から梨花が出てきた。

「自転車教えてやってんだよ。めんどくせえ」

健治がうんざりして言った。

「お兄ちゃんの教え方が悪いんじゃないの」

梨花が健治から自転車をひったくった。健治は眉間にシワを寄せた。

「じゃあお前が教えてやれよ」

「いいよ。ほら、史門君。見てて」

梨花が自転車にまたがった。両足で地面を蹴り、助走をつけた。助走がついたところで、梨花はペダルに両足を乗せず、そのまま自転車を滑らせた。自転車はしばらく真っ直ぐ進んで行った。史門はそれをじっと見つめていた。

「ね? 無理に漕ごうとしなくていいんだよ。バランス取るのが大事なの」

遠くから梨花が叫び、再び同じ動作で玄関前に戻ってきた。

「真似してみなよ」

梨花が言うと史門は頷き、自転車にまたがった。史門は梨花がやったのと同じように助走をつけ、両足を離した。自転車は難なく前に進んで行った。

「そう、そうだよ」

梨花がガッツポーズをつくり、嬉しそうに叫んだ。

「足、乗せられそうだったらペダルに乗せてみて」

梨花が遠くにいる史門に呼びかけた。史門が遠くで頷いた。それから、再び史門は健治の自宅前まで戻ってきた。助走をつけ、両足を離した後、どうにか両足をペダルに乗せた。それからしゃかりきに漕いでみせた。

「できた」

梨花はジャンプして喜んだ。健治は呆気に取られつつ、オーッと唸った。史門は嬉しそうに方向転換してみせ、何度も何度も健治の自宅前を行ったり来たりしてみせた。

「乗れるようになったね」

梨花が明るく笑いかけると、史門は息を切らし、何度も頷いた。

「お礼にいいもの見せてやろう。健治君、中に入ってもいい?」

「おお」

史門は気取った声を出して聞くと、健治は玄関を開けた。三人は家の中に入ると、リビングで健治のパソコンを開いた。史門は健治が開いていたえりジェンヌの動画を閉じず、新しいタブを開き、別の動画を開いた。

「何、それ」

梨花が尋ねた。画面にはオーケストラが演奏している様子が映し出された。

「チャイコフスキーの『花のワルツ』」史門が得意げに言った。「ほら、ホルンの音色が素晴らしいだろ。四月になったら、僕が教えてあげるよ」

梨花はじっと画面を見ながら、耳をすませる。

「ねえ、今の、何て楽器」

「だから、ホルンだよ」

「そうじゃなくって、最初に鳴ってたやつ」

「ハープ?」

「違う」

梨花は画面を見つめ、気になる音の正体を探す。

「この曲はホルンの独壇場なんだよ」

史門が気取った声で言った。梨花は黙って画面を見つめ続ける。

「えーと、これじゃないんだよな…」

梨花は画面の中のクラリネット奏者を見て、首を横に振った。

「フルート?」

健治が尋ねた。

「横棒じゃない。縦棒のほう」

梨花が言った。

「縦?」

健治が怪訝な顔をする。

「ほら、これ」

梨花が、画面の中のフルート奏者の隣にいる、別の奏者を指差した。

「これは、オーボエだよ」

健治が教えた。

「オーボエ…」

梨花は口を半開きにして、食い入るように見つめる。

「クラと違って影が薄い楽器だよ」

健治が小馬鹿にして言った。

「ホルンのような華やかさもないね」

史門も鼻で笑った。

「ねえ、オーボエの曲ってもっとないの」

梨花が尋ねると、史門は少し考え込み、検索欄に「ブランデンブルク協奏曲第一番」と入力した。

「わあ」

梨花は画面にさらに顔を近づけた。三人のオーボエ奏者がフロントに立ち、ホルンやファゴット、弦楽器の一団が取り囲み、演奏している。

「君はこんなのがいいの」

史門はつまらなそうに聞いた。

「うん」

「ホルンの方がいいのに」

史門は画面の中のホルン奏者を指差すが、梨花は反応しなかった。

「ちょっと、ついてきなよ」

史門が立ち上がり、玄関に向かった。

「どこ行くの?」

「オーボエがあるとこ。健治君は」

「寒いし、俺は行かねえよ」

健治はリビングで、再びえりジェンヌの動画を見始めた。


梨花のおかげで自転車に乗れるようになった史門は、意気揚々と自転車にまたがり、真冬の冷たい風を切って進んだ。梨花も自分の自転車にまたがり、史門の後ろについて行った。

二人は緑谷町を抜け、隣の白錫市へ入った。住宅街を抜け、少し丘を上ったところに、ミントブルーのとんがり屋根の邸宅が見えてきた。二人は自転車をとめ、玄関でベルを鳴らした。

「すごい家だね」

梨花がつぶやいた。史門は黙って、玄関が開くのを待った。

「あら、史門」

琳太郎の母、忍が玄関を開け、少し驚いて声をかけた。

「おばあちゃん、オーボエ見せて」

史門が言った。

「オーボエ? ええ…中、入りなさい」

忍は二人を玄関の中に招き入れた。二人は洗面所で手を洗うと、忍にリビングで待つよう伝えられた。

「史門君の、おばあちゃんちなの」

「そうだよ」

「お金持ちなんだね」

忍は本革のソファに体を沈め、室内の調度品を眺めながら言った。

「うん」

史門が頷くと、忍が楽器ケースを抱えてリビングに入ってきた。

「どういう風の吹き回しかしら」

忍はにやにやしながら史門に尋ね、ケースを開けた。

「この子がオーボエやりたがってるから」

史門がそっけなく言った。

「同じ部活の子?」

忍が楽器を組み立てながら聞いた。梨花は首を横に振る。

「春になったら入るんだって」

「そお。孫の頼みとあれば、断れないわね」

史門が言うと、忍はリードを取り付け、楽しそうに頷いた。それから、おもむろに息を吹き込み、音階を吹いた。温かく、柔らかなオーボエの音色が室内に響いた。

「わあ」

梨花は目を潤ませ、声を上げた。忍は音階をさらりと吹き、モーツァルトの「オーボエ協奏曲」を吹き始めた。軽快で弾むような旋律に、梨花はうっとり聴き入った。

「お粗末さまでした」

忍が演奏を終えると、にっこり微笑んだ。梨花は力の限り拍手した。

「吹いてみる?」

「はい」

忍が梨花を隣に座らせ、オーボエを持たせた。梨花は目を輝かせ、忍の言われた通りに吹いてみた。顔を真っ赤にして息を吹き込んでみるものの、息漏れする音しか出ず、梨花は誰が見てもしんどそうな顔をしていた。忍は優しい笑顔で頷きながら、音の出し方を教えた。少しずつ、音が出るようになった頃、忍は壁の時計を見上げた。

「ごめんなさいね。夕方から予定があるのよ」

忍が優しく言った。

「帰ります。今日はありがとうございました」

梨花はオーボエを返し、礼儀正しく頭を下げた。

「またいらっしゃい。史門、あなたは帰らないでね」

忍に言われ、史門は頷くと、玄関先まで梨花を見送った。

「帰り方、わかる?」

史門が尋ねた。

「うん。ここ、道、真っ直ぐだよね」

梨花は目の前の道路を指さして言った。

「そう。今日、ありがとう」

史門は少し照れて自転車を指さして言った。年下の女の子に自転車を教わり、一発で乗れるようになってしまったことが嬉しく、恥ずかしかった。

「うん、簡単だったでしょ」

梨花が誇らしげに聞いた。

「うん」

史門は素直に頷いた。

「ねえ、おばあちゃん、オーボエの先生なの」

「ううん」

史門は首を横に振った。

「そうなの? すごく上手だね」

「うん」

「私、絶対オーボエやりたい。お母さんに聞いてみる。じゃあね」

梨花は史門に向かって元気に手を振り、自転車に乗って帰って行った。


しばらくして、入れ替わりに一台の車が車庫に入ってきた。出てきたのは琳太郎だった。

「よお」

琳太郎が史門に声をかけた。二人は一緒に玄関をくぐった。

「姉さんは?」

琳太郎が廊下を歩きながら史門に尋ねた。

「もうじきくると思うよ」

史門が答えた。

「お前、一人で来たのか」

「うん」

「電車?」

「ううん。自転車」

史門は細い目をさらに細め、得意げに答える。

「え?」

「僕、乗れるようになったんだ」

史門は両手でハンドルを握る真似をして、足踏みして見せた。

「本当か。すげえな。どうした」

琳太郎は心底驚いて、自信満々な甥の姿を見つめる。

「案外、簡単だったよ」

史門はすまして言った。

「琳太郎、史門、少し手伝いなさい」

忍がキッチンから声をかけ、二人はそれに従った。


史門の母であり琳太郎の姉でもある麗華と、琳太郎の兄・秀平とその妻子、さらに琳太郎の父・飛龍丸(ひりゅうまる)が集まると、ダイニングで賑やかな食事会が始まった。食事が済むと、秀平の妻は我が子達の手を引き、二階に上がっていった。残された大人達と史門はリビングへ移動した。


「いい報告があります」

琳太郎がカフェラテを掲げて立ち、得意げに言った。家族達は何ごとかと、ソファに座りながら見つめる。

「なんだ」

飛龍丸が厳かな調子で尋ねた。

「俺にもようやく、彼女ができました」

琳太郎が屈託のない笑顔で言った。

「おー、やっとか」

秀平が豪快に笑った。

「いつ、連れてくる」

飛龍丸は両手の指を組み、仏頂面を崩さずに聞く。

「それはまだ待って。いきなり父さんみたいな人のとこに連行したら、怖がって逃げられるに決まってる」

琳太郎が言うと、他のメンツが遠慮なく笑った。

「それもそうね、おいおいね」

忍は口元を手で隠して笑い、グラスにブランデーを注ぐと、飛龍丸に手渡した。

「ねえ、どんな人なの」

麗華が尋ねた。史門も黙って見つめる。

「すげえいい女」琳太郎は両手で天を仰ぎ、ほうけたように言った。「俺の女神(ミューズ)なんだ」

秀平が吹き出すと、忍や麗華にも伝染した。

「春が来たのねえ」

麗華が涙を手で拭って頷いた。

「お前なんかに、よくなびいたな」

秀平は肩を揺らして笑うと、ロックグラスに氷と、少しウイスキーを注ぎ、指で氷を回転させた。

「そんなにいい女なら逃さないよう、しっかり捕まえとけ」

飛龍丸は閻魔大王のような形相で、琳太郎にきつく言った。

「言われなくても分かってます」

琳太郎はひょうひょうとしながら、カフェラテに口をつけた。

「どこで知り合ったの」

麗華が身を乗り出して聞いた。琳太郎は史門を見た。史門も見返した。

「史門。ちょっとこい」

琳太郎は突然立ち上がり、史門の手を引いた。

「何だよ」

史門は驚いて琳太郎を見上げる。

「いいから」

琳太郎は史門をキッチンに連れて行き、ドアを閉めた。

「お前、これからは俺のアパートに絶対くんなよ」

琳太郎が怖い顔をして言った。

「なんで?」

史門には訳が分からなかった。

「なんでも」

琳太郎は口を真一文字にして迫った。

「行くと、どうなるの」

史門は細い目を少し大きく開き、尋ねた。

「お前の日記を、学校の放送室で読み上げる」

琳太郎が鬼気迫った顔をして、低い声で言うと、史門は真っ青になり、絶句した。

「分かったな」

「分かったよ」

「よし」

「ねえ、彼女って誰なの」

史門が素朴な表情で尋ねた。琳太郎はしばらくフリーズした。

「それも、聞くな。詮索を続けるなら、放送室で…」

「分かったよ。いいよ、もう」

史門が両手を大きく振ると、琳太郎は厳格な顔のまま、リビングに戻ろうとした。

「おじさん、今日、ここに梨花ちゃんが来たんだ」

史門が思い立って、後ろから声をかけた。

「誰?」

琳太郎は首を傾げた。

「健治君の妹だよ」

「え?」

琳太郎は、今度は意外そうな顔をした。

「おばあちゃんがオーボエ、教えてあげてた。オーボエやりたいんだって。僕はホルンに入ってもらいたかったのに」

史門が口を尖らせて言うと、琳太郎はしばらく沈黙した。

「史門ー」

琳太郎は突然大声をあげ、史門を抱きしめた。

「なんだよ」

「よくやった。でかした。欲しかったんだよ、オーボエ」

琳太郎は嬉しそうに微笑み、さらに史門を締め上げた。

「苦しいよ」

史門は手足をばたつかせたが、琳太郎は離してくれなかった。

つづく

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