イントロダクション
《登場人物》
緑谷中学校職員
【鳥飼琳太郎】音楽科教師。吹奏楽部の顧問
【雛形桃子】家庭科教師。吹奏楽部の副顧問
【鸚鵡林】校長
【鶏田】副校長
緑谷中学校吹奏楽部メンバー
【白鳥直樹】フルート兼ピッコロの二年生。部長
【鴨井健治】クラリネットの二年生
【千鳥川公彦】トランペットの二年生
【目白梅子】トロンボーンの二年生。副部長
【烏川銀之丞】パーカッションの二年生
緑谷町は埼玉県北部にある、自然豊かな町だ。町の南部には穏やかな平野が広がり、商業地と工業地、住宅地、耕作地が混在している。中央部には天谷川という小さな川が東西に横切り、北部には標高七百メートルほどの鳥雲山と、緑豊かな里山が広がる。抜けるような青空の下、透き通った灰緑色の天谷川の両岸にはピンク色の綿飴のような桜が立ち並び、その足元には目の冴えるような鮮やかな菜の花が咲ききそい、春を彩っていた。
緑谷町立緑谷中学校は、南側から川を橋で渡り、北方へ続く坂道を少し上った先に建っている。創立七十年の歴史を持ち、二つある校舎はかろうじて鉄筋コンクリートでできているものの、あちこちひび割れ、ペンキが剥がれ落ち、月日の流れを物語っていた。
午前八時半に、体育館で始業式が行われた。この日は入学式も兼ねており、途中から新入生を迎えることになっている。司会者の副校長・鶏田の進行に沿って、一人の男が壇上に上がった。演台に両手を置き、堂々と話し始める。
「みなさん進級おめでとうございます。校長の鸚鵡林です。本年度もよろしくお願いします」
還暦手前と思われる、白髪混じりの髪をツーブロックに分け、清潔感のあるスーツを完璧に着こなし、社交的な笑みを浮かべて挨拶した。集まった学ランの男子生徒達、セーラー服の女子生徒達は無表情でその様子を見守る。
「文武両道という言葉を知っていますか。学問にも武芸にも努め、秀でている、という意味です。私の学生時代は、まさにそれでありました。みなさんにも今年は是非それを実践していただきたく…」
校長は得意の『自分の若い頃はすごかった話』をとくとくと話し始めた。一部のくそ真面目な生徒達をのぞき、大半の生徒達は目をこすったり、あくびしたりと退屈していた。二年生の列ではおしゃべりが活発になっていた。
「音楽の先生、変わるらしいよー」
背がひょろりと高い烏川銀之丞が、隣にいる小柄な男子・白鳥直樹に話しかけた。
「ふうん」
直樹は興味なさそうに言った。
「うちらの顧問もー、新任の先生がやるっぽいよー」
銀之丞が興奮気味に言った。
「どこ情報なの」
背が低く、ずんぐりむっくりした目白梅子が早口で聞いた。
「さっき用務員のおばちゃんに聞いたー。んー、だいたいあのおばちゃんに聞けばさー、何でも分かるだろー」
銀之丞は自分の前髪で作ったちょんまげをもてあそびつつ、のんびりした口調で、得意げに答えた。用務員のおばちゃんは学校一の情報通だ。普段から愛想よく教師陣とも世間話を欠かさない。そして誰よりいたずら心を持っている。校長の飼っている犬が太りすぎで歩けないこと、副校長の頭の上に乗っかっているカツラはホームセンターでワゴンセールされていたこと、南校舎と北校舎を結ぶ渡り廊下は、天井が無い四階部分だけ立ち入り禁止になっているものの、北校舎側の扉ならヘアピンで開けて立ち入り可能なことなど、ありとあらゆることを教えてくれた。もちろん教師陣には内緒である。
「用務員のおばちゃん情報は九九・九パーセント正解だもんね」チビでメガネでニキビづらの男子、鴨井健治が答えた。「前にも体育館裏に住み着いてる野良猫が妊娠したでしょ。そしたらおばちゃんが猫の腹さわって、七匹、って言ったんだよ。そしたらほんとに七匹生まれてきたの」
「ふうん」
直樹は気のない返事をした。
「察するにね。直樹は興味がないね。誰が来ようとね。どうでもいいんだよね」
色白で線の細い男子、千鳥川公彦がメガネのフレームをつまみながら、優等生ぶって言った。
「別に」
直樹は投げやりに答える。顧問に興味がないんじゃない。顧問の方が俺らに興味ないんだ。こないだまで居た顧問だってそうじゃないか。結局は「仕事だからしょうがない」感を隠せなくて、何となく時間が経つのを待っているだけの先生だった。どうせ次も同じだ。だから何も期待しない。期待していいことなんて、一つもない。
「すげーいい感じのー、先生な気がするー」
直樹の気持ちをよそに、銀之丞は期待を膨らませた。
「俺は可愛い先生だといいなって思うの」
健治も無邪気な様子で銀之丞に合わせた。健治は可愛いもの好きな男子である。笑顔が可愛い人気ネットアイドル「はろはろ♡えりジェンヌ」の配信番組を何より楽しみにしていて、学校指定のスポーツバッグにはえりジェンヌのバッジを大量につけていた。
「そうかなあ」
直樹は賛同できない。
「そうだね。どこの馬の骨かも分からないしね」
公彦は手厳しく言った。
「俺の勘は当たるよー」
銀之丞はそう言って、自分の前髪を束ねていたヘアゴムを取り、天井めがけて指で弾いてみた。ヘアゴムは空中でくるくる回転しながら落下し、再び銀之丞の手の中に落ちた。
「そうかなあ」
直樹は銀之丞の屈託ない笑顔を疑わしげに見た。
「あんたさっきから、そうかなあしか言ってない」
梅子が平らな声で、直樹のリアクションに鋭く食いついた。
「そうかなあ」
直樹は棒読みするように同じフレーズを繰り返す。
「直樹ー。あのおばちゃんが嬉しそうに話すときって、いいことがあるときなんだよー」
銀之丞が説明すると、直樹は呆れて口を半開きにした。どれだけおばちゃん信者なのか。
「ということは、かなりイケメンなんじゃん? おばちゃんは面食いだって言ってたよね」
女の先生が来ると期待していた健治は、急に白けた調子で言った。
「イケメンって言っても色々いるでしょ。濃いか薄いか、顔の系統は…」
「鳥飼琳太郎です。音楽科担当です。よろしくお願いします」
いつの間にか校長の挨拶は終わり、新任の先生の挨拶が始まっていた。生徒達の間からは歓声が上がる。
「誰誰ー。あの先生、誰ー」
銀之丞が顔をよく見ようと、背伸びした。背の低い梅子や健治はぴょんぴょんジャンプしている。
「イケメンが来た!」
「めっちゃかっこいい。結婚してる? 彼女いるのかな?」
「王子様じゃん!」
「あ、ねえこっち見た! 王子がこっち見たよ!」
女子生徒達は色めきだって騒ぎ出した。高揚感は頂点に達する。
「王子だってさー。合唱部は大変だねー。王子がいつも指導してくれるんだったら、新入部員が殺到するだろうなー」
銀之丞が言った。前年度まで居た音楽教師は合唱部の顧問だった。きっとこの新任教師が引き継ぐのだろう。
「尚、鳥飼先生には吹奏楽部の顧問をしていただきます」
副校長が説明すると、今度は生徒達からどよめきの声が上がった。
「合唱部じゃないの?」
「なんで吹部なの?」
「意味わからない」
あちこちで不満の声が上がる中、直樹と銀之丞、公彦、梅子、健治の五人はしばし黙り込んだ。「あの先生が、うちの顧問になるの…?」
直樹がつぶやいた。ほかの新任教師も続けて挨拶をしたが、五人の耳にはまったく入らなかった。