文章は辛さから生み出されるのか?
文章を書くにあたって、あぁ、良い文章を書ける気がするという瞬間が訪れる。
それは決まって切羽詰まって、身動きが取れない、という瞬間に何かを乗り越えふと澄んだ心情になるときだ。
文字情報としてではなく、自分の音声として、文章が紡がれていく。
こんな風に気取っていても、そこには人工的な要素はなく、至って自然の状態なのだ。
こういう時はとても(俗っぽく言えば)生産的になる。
文章を書くのもそうだし、本も、ちゃんと咀嚼して飲み込もうという姿勢で読む。
何かをするにしても、真剣に向き合おうとする。
最近、人生の上限の上と下が広がったように思う。
ハイがいつになく高くて、ローがいつになく低い。
ハイの原因はわかっていて、それは環境が変わって全てが非日常性を帯びて迫っているからである。
ただローの原因はいまいちわからない。
元々自分が平気でやってのけれたはずのことをしんどいと感じてしまう。できなくて、焦ってしまう。
そんなとき、私は一人夜の散歩に出かけるようにしている。(気分が沈むのはいつだって夜である。)
とはいっても、根はめんどくさがり屋、何か口実をつけて家を出るしかない。
ゴミ出し、買い物、運動。
外に出てしまえば、めんどくささはいつの間にか消え、気を抜けばどこまでも行ってしまえそうな気になる。
初夏とは言い難い、ひんやりとした空気の中、歩く。
ほとんど人はいない。
歩く音、服のズレる音、風の音だけが、私の肉体の存在を証明している。
それがなければ、自分自身が歩いていることすら忘れてしまいそうになる。
たまにすれ違う人は、彷徨い歩く私をみて不思議に思うだろう。
私も、私が何をしているか不思議だ。
でもそうやって歩いていけば、一人であることのじんわりとした温かさが流れ込んでくる。
やっぱり、人間は良い意味で一人なのだと思う。
もしかしたら日常では、一人でないことに固執しすぎなのかもしれない。
私は基本的に一人でいることはない。
自分の部屋に閉じ篭もるまでは、誰かと空間を共有している。
その空間に実際に人がいなくとも、亡霊のように人々の物に染み付いた他の人の存在を常に感じている。
部屋に逃れても、隣人の喋る音や、砂利道を通る自転車の音が入り込んでくる。
結局一人になる瞬間は、ほとんどない。
だからだろうか、なぜか辛くて、辛くて、つまずいて転んでしまいそうなぐらいふらふらとした状態で日々を乗り切って、その焦りがたまって、どうしようもないときに、歩く。
それで静かな心情が訪れるのをじっと待つ。
そして訪れてしまえば、文章が書ける。
今これが書けているのも、それが理由である。
でもまた頭の雑踏が戻ってくる。
その前に全てを吐き出してしまわねば。