97.クロのねがい
突然いきいきと生えて伸びだした植物達は、宿の敷地をぐる~と一周すると、そこで穏やかに成長を止めた。もともと庭園だった場所は、一番凄まじいことになっているけれど、もう伸びきってしまったのか今は落ち着いていた。
一時は、このまま止まらなかったらどうしようと不安になっていたので、少し安心することができた。思わずホッと安堵の胸をなでおろす。
そうこうしているうちに、庭を見に外に出ていた従業員の人達も、続々と宿の中に戻っていった。ガヤガヤしていた庭が静かになると、また日常が戻ってきた気持ちになってくる。庭が密林になっている以外は、いつもの普通の一日のような気もしてきていた。
「よかった。植物達も落ち着いたみたいですね。これで慣れれば元通りです。草花も元気になったことですし、庭園に整えたら解決ですね。」
「……なるほど。のん気とかそうゆうアレじゃなかったのね……。この計り知れない感じ、どうしたらいいのかしら……。そうだ!ノアがもうそろそろ帰ってくるんじゃない?ね?違う?」
「今日はお昼ごはんに戻ってくる日でしたか?ちょっと計画表を確認しないと、分かりません。でもまだお昼には早いはずですから、まだ帰ってきませんよ?」
ディアさんが肩に乗って、私達は2階に上がって奥の部屋に戻ることにした。窓際のテーブルの上に置いてある、ノアが作成した行動計画表を確認すると、今日はお昼に一旦戻ってきて、一緒にお昼を食べる日だった。
「今日は戻ってくる日みたいですね。ちょっと早いけど、荷馬車の方の部屋で待っていましょうか。」
洋服箪笥を開けようとした所で、窓からガツンゴツンと音がした。振り返ってみると、クロが窓の外にいた。この透けるような見え方は、たぶん見えなくなる何かを着けている。鍵をはずして窓を開けると、クロが部屋の中に入ってきた。
「久しぶりだね。元気だった?アビーさんとラリーさんは元気?」
クロは部屋の中をウロウロ歩いて何かを確認していた。いつも聞いていないようにみえて、ちゃんと聞いてくれているので、私はクロの背中にかまわずに話し続けていた。
「それでね、……ねえねえ、クロは今、何か見えなくなるのを着けてるでしょ?それ、今だけでも外してくれない?私、ずっとそれを見ていたら目が疲れちゃうの。」
私の言葉に振り返ったクロはベッドの横の引き出しがついた台の上に降り立って、足に着けていた黒い輪っかをゴトンッと外した。えっ?重そう。と思って触ろうすると、その黒い輪っかをクロが足でガシッと踏みつけて、ギロッと睨まれてしまった。……どうやら触ってはいけないらしい。
「ええと、それで、何か用事で戻ってきたの?アビーさん達はいつ帰ってくるか分かる?」
私はベッドの腰掛けて、クロに話しかけていたけれど、なんだかクロは機嫌が悪いようだった。グギャーと鳴いたり、落ち着かないようにそわそわしている。
「ねえねえ、あの庭のことで来たんじゃないの?ここって、他のカラス達が監視してるじゃない?それが伝わって見に来たとか、怒りに来たとかじゃないの?」
「あ、そうか、なるほど。庭を見てクロはビックリしたかもしれないけど、大丈夫なんだよ?もう伸びるのは止まったし、秘密の水ってゆうのを撒いたら、ああなっちゃったんだけど、だからたぶん、そのせいで、あの、アビーさん達にちゃんと説明してくれる?秘密の水の効果が凄くて……。」
クロはフンッと鼻を鳴らすと、身繕いを始めてしまって、庭のことには興味が無さそうだった。クロにちゃんと説明してもらわないと、もしかしたら私はずっと外に出られない事になってしまうかもしれない。
「それに!海の腕輪が指輪になったの。なぜかは分からないんだけど、ディアさんの声が普通の大きさに聞こえるし、ほら、見て。全然濁ってないの。だから、外に出ても大丈夫な気がするの。クロは良いって言ってくれると思う?私も外に探しに行ってもいいよね?ノア達と一緒にいるし、それに、見て。ノアが計画表も作ったんだよ。無茶してないの。だから何も心配しなくてもよくて、大丈夫なんだよ。」
クロは海の指輪を見せときだけは、度肝を抜かれたように目を見開いてビックリしていたけれど、それから目を背けると、落ち着かない様子に戻って部屋の中に留まっていた。飛び立つ素振りは一切なくて、窓には近づこうともしない。
「……アビーさんの所に戻らないの?もしかして、見張りがクロに交代になったの?」
クロの様子がいつもと何か違っていておかしくて、なぜか挙動不審だった。私は不思議に思って、離れた方の窓まで歩いていって、外の様子を眺めてみた。いつもの場所にカラスが留まっていて、いつも通り間隔をあけてカラスが何羽も留まっている。なにも変わった様子はなかった。
「交代でもないなら、なんだろう?休憩に戻ってきたのかな。」
「そうねえ……。帰る様子もないし、放っておいてもいいんじゃない?」
休憩をしているなら邪魔をしては悪いし、私とディアさんは荷馬車の部屋に行っていようと、洋服箪笥に手をかけると、クロが阻止するようにグギャーと鳴いた。
「……だめなの?私に用があるんだね?う~ん。なんだろう?……ディアさん分かりますか?」
「休憩でも見張りでもないなら、なにしに来たのかしら?なにか伝言があるなら、手紙でも持ってくるでしょうし……。全然、分からないわ。」
それから、私とディアさんがあれこれ聞いてみたけれど、どれも違うらしくて、クロがだんだんイライラしてきていた。いろいろな質問を考えてもどれも的外れのようで、膠着状態が続いていた。
「気に入らないなら、おばあ様の所に帰ったらいいんじゃないかな。黙って来たんだろう?」
いつの間にかノアが帰ってきていて、クロと睨み合っていた。まったく気がつかなかったけれど、しばらく私達の様子を見ていたようだった。
「おかえりなさい。ノアはクロの言ってることが分かるの?……アビーさんに黙って?クロが?ホントに?」
「……なんとなく、そう思っただけだよ。」
ただいまと言いながら、私の隣にきたノアは、それでもまだクロと睨み合っている。どうしてそんなにも睨み合っているのかが、本当にさっぱり分からない。
「クロはどうして戻ってきたんだと思う?私に用があるみたいなの。なにかしてほしい事があるのかな?なんだと思う?」
「……エミリア、それより先に、庭のことを教えてくれる?」
思わずギャッと叫びそうになってしまった。すっかり忘れていたので、ちがうの、あの、水が、秘密の、としどろもどろになっていると、ノアが笑いだした。
「違うよ。怒ってないよ。何があったのか聞きたいだけだよ。面白かったんだよ。帰って来たときにピートが、フフッ、なんじゃこりゃ~って叫ぶから、ハハハッ、思い出しても面白いよ。変なかっこうで、ハハハハッ。」
ノアが怒っていなくて楽しそうにしているので、ホッとして、秘密の水のことを初めから説明した。詳しく話しているうちに、ノアも草花が元気になったなら、結果的に良かったんじゃないかと言ってくれた。
「誰にも見られていないなら問題ないよ。見られていたとしても、まあ大丈夫だよ。なんとでもなる。でも、誰かに何か言われたら、すぐに教えてね。それと、その気配の正体が水だって分かったんだし、もう秘密の水のことは探さなくてもいいんじゃない?秘密、なんだろうし。暴かれたくないかもしれないよ。」
「そっか、そうだね。もう探さない。」
「じゃあ、お腹も減っただろうし、お昼ごはんを食べに行こう。」
ノアが立ち上がって洋服箪笥を開けにいった。私はそうだねとついて行きそうになったけれど、まだクロの用件が分かっていなかった。
「待って、ノア。クロのこと忘れてるよ。まだ用件が分からないままだよ。」
「ああ、……そうだったね。でも僕は先に、エミリアにごはんを食べてほしいんだけど。お腹減ってない?」
「大丈夫だよ。ずっとクロを待たせておくのは可哀想だよ。なにか分かる方法があったらいいのに……。」
力なくそのままストンッとベッドに腰を下ろした。クロはアビーさんに黙ってまでここに来たのに、それはよっぽどのことなのに、力になってあげられないなんて、とても悲しい。
「ふう。分かった。クロ、はいの時は首を縦に、いいえの時は横に振るんだ。おばあ様に黙ってきたのか?」
ため息をついてから、ノアが素晴らしい提案をした。ノアの質問にクロはゆっくりと首を縦におろした。やっぱりアビーさんに黙ってここまで来たらしい。
「何かしてほしいことがあるのか?エミリアに?……おばあ様達に、なにかあったのか?」
はい、はい、いいえ。つまり、アビーさん達は無事でいるけれど、私に何かしてほしいことがある。それは、なんだろう?そうして、ノアはいくつか質問をすると、今度は顎に手をあてて何かを考えていた。
「……分かった。クロ、僕に貸しが一つできるけど、いいの?」
クロが嫌そうに、首を縦に振った。苦々しい声でギイイーと鳴いている。そんなに嫌なら、貸しにしなければいいのにと言おうとしていると、ノアが引き出しや、鞄や、いろんな所から紙やペンやらを取り出してきて、机の椅子を引いて紙を置いたり、何か用意していた。私はクロと一緒になって首を傾げながら眺めていた。
「エミリア、おばあ様に手紙を書いてくれない?そのまま素直な気持ちを書くだけでいいよ。おばあ様達はたぶん、……疲れているんじゃないかな。あれから何日も経っているし。それで、クロが心配しているんだよ。この前みたいに、エミリアが呼んだらすぐ帰ると思ったんじゃないかな。そうクロに伝言してもらってもいいんだけど、事情が違うし、今回は手紙の方がいい気がするんだ。その方が、勝手に持ち場を離れたクロが怒られないで済むと思う。」
「そうなの?クロ……。なんて優しいの。アビーさん達を心配したんだね。私、手紙を書く!帰って来てくれるように、気合を入れて書くよ!」
そうして机に向かって、ペンを握っていざ手紙を書こうとしたんだけど、クロが怒られないようにしたり、休憩するために帰って来てくれるようにお願いしたり、心配していることや、でもアビーさん達は成し遂げると信じてることや、書きたいことはたくさんあるけど、私はまだ、文字を全部ちゃんと覚えていないし、書けないのだった。
薄々うっすら、勉強しなくちゃと分かっていたのに。そう思ったときにちゃんと、勉強しておけばよかった。こんなに、こんなにも困ることになるなんて……。手がぶるぶる震えてしまう。
「だ、大丈夫だよ。エミリア、落ち着いて。僕が教えるよ。僕が、書いてもいいんだから。」
「ううん。自分で、書くよ。待って、待ってね。思い出すから。」
手紙を書く前に、まずおさらいの為に文字の練習をした。間違っていないかノアに見てもらいながら、何度も綺麗に丁寧に練習する。それから、なんとかやっと、心を込めて手紙を書いた。
あいたいです。さみしいです。えみりあ。
文字を大きく書きすぎたし、名前の後に丸はいらなかったかもしれないし、なんだか不格好な手紙になった。それでも、ノアが真っ赤になって、ぶるぶる震えながら腰が砕けるほど感動したので、書き直さないでそのまま封筒に入れて、クロが持って行くことになった。
やっぱり、これからはちゃんと文字の練習をしようと思う。クロが飛び立つ前に、見えなくなる輪っかを嵌めたので、ノアには見えなくなった。私はクロの飛んでいく姿が遠くなって、見えなくなっても、ずっとそのまま空を見つめ続けた。そうして見送りながら、クロの主人を思う優しさが伝わりますようにと願っていた。