96.秘密のお水
王都に到着してから、もう何日も経っているけれど、アビーさんとラリーさんはまだ一度も宿には戻って来ていなかった。もしかしたら私達が寝ている間に戻って来ているのかもしれないけれど、会えない日々が続いていた。
責任や使命や、成し遂げなければならない大事なことがあって、忙しく飛び回っていることは分かっていても、もうずっと二人に会えていないことを、寂しいと思いながら過ごしていた。
ラリーさんが貸し切りにしたので、私達一行以外の他のお客さん達は誰もいないけれど、日に日に従業員の人数は増えているようだった。もともと大きな宿だし、掃除するだけでも、とてもたくさんの人達で手分けしないといけない事が分かるので、急にお揃いのお仕着せを着て働いている人達と行き交うことが多くなっても、なぜかその方が当たり前の、普通のことのように思えていた。
そうして私は、当たり前のように平穏な、何事も起こらない毎日を過ごしていた。私とノア以外の人達は、食事をすべて食堂で食べているようで、1階にある食堂はいつも賑わっていた。私達も食堂で食べることはあるけれど、それよりも荷馬車の部屋の食堂でノアが料理を作ってくれて、二人で食べることの方が多かった。
1階の食堂近くの一室に、宿のご厚意で捜索本部の部屋ができていた。広い部屋には全員が座って会合を行えるように机や椅子が置いてあって、壁には大きな地図が貼ってあった。地図には毎日様々な印が書き込まれていて、日に日にその印は増えていたけれど、まだメイベルさん達に繋がる有力な情報は得られていなかった。
私は宿の館内地図を見ながら宿の中を散歩して回る前に、誰も居なくなったその部屋に入って、地図の変化を確認することを毎日の日課にしていた。誰もがみんな、それぞれのやり方で情報を集めたり、町を探し回ったりしたいた。私は焦ったり、せっかく王都にいるのにと思っても、これも修行だと思うようにして、誰にも何も言わずに黙々と、毎日広い宿の中を歩き回っていた。
この宿はなんだか少し不思議だった。海の腕輪が指輪に変わってから、この宿のどこかから不思議な気配がしていた。それが薄くなったり微かに濃くなったりとなにか落ち着かない気分になるので、歩き回ってそれが何なのか密かに探しているけれど、それらしい物はまだなにも見つかっていなくて、それは未だに不思議な謎のままだった。
海の腕輪から指輪になってから変わったことは他にもあって、まずディアさんの声は小さくなくなって、いつも通りに聞こえるようになったし、指輪は腕輪のように濁らなかった。だからどうしても、もしアビーさんが今帰ってきてくれたら、外に出てもいいと許可が出るんじゃないかと思えて、そう考えるといつも、一層落ち着かない気分になった。
心配はかけたくないけれど、約束は破りたくないけれど、もどかしくて心が揺れて、これも修行、揺れないように真ん中にと、毎日歩き回りながら何回も、そう自分に言い聞かせていた。何も見つからない、なにも成果のない状態に、思わずため息がでて、目についた椅子に座った。宿の中は廊下でも階段脇でもどこにでも、至る所に椅子や長いソファーが置いてあって、いつでも誰でも座れるようになっていた。
ぼんやりと窓から見える庭の景色を眺めていると、宿の主人のお孫さんのマリウスさんがお花に水をあげていて、植物の世話をしているようだった。まだ小さいのに働き者のマリウスさんは、毎日楽しそうに掃除や大人のお手伝いをしていた。
なんとなく眺めていると、庭に造られた庭園にいるマリウスさんは、珍しく元気がない様子で、私と同じようにため息をついていた。小さな子供の元気がない姿は、とても気にかかってしまう。
「ディアさん、宿の庭の庭園の中なら、お外じゃないですかね?」
「あら?外に出る気になったの?……え?外って、庭もだめなの?町に出なくても?厳しくない?庭はいいんじゃない?魔女だって、さすがにそんなつもりはないでしょう。……たぶん。」
少し後ろめたく思いながらも、この宿に到着してから初めて外に出た。そのまま庭園まで歩いて、マリウスさんに歩いて近づいていった。挨拶以外で話したことはないけれど、ため息がとても切なそうで、なにかあったのかがとても気になった。
窓からは花が咲き乱れているように見えていた庭は、思ったよりも植物に元気がなくて、花は咲いていても、どこかぐったりとした印象だった。それがなにか妙に不思議に思えた。
「こんにちは。お花に水をあげているの?もし良かったら、私もお手伝いしてもいい?」
ビックリして振り向いたマリウスさんは、私の言葉にもの凄く驚いて恐縮して、あたふたしながら、とても狼狽してしまっていた。
「いえ、そんな、お嬢様に、そんなこと!そんな、どうしよう、そんな。」
「あの、驚かせてしまって、ごめんなさい。その、お邪魔するつもりじゃなくて、ええっと、それに私、お嬢様じゃなくて、普通の、都会じゃない村から来た普通の村の娘だから、お嬢様じゃないの。」
「そんな、そんなわけ……、お嬢様がうちの宿を気に入ってくれたおかげで、たくさん、たくさん前金をもらって、従業員を呼び戻せたし、みんな感謝してて、それで……、だから、そんな、水やりとか、そんな手伝いなんて、そんな……。」
お嬢様の誤解は、なんだか、なかなか解けそうになかった。それに、庭のお手伝いをしようと声をかけたのも失敗だったようだった。
「そう……。私、無理に、お手伝いしに来たわけじゃないの。その、窓から元気がない様子が見えて、それで気になってしまって……、なにかあったのかなって、気のせいだったら、ごめんなさい。」
私のその言葉に、マリウスさんはやっと我に変えったようになって、少し落ち着いて辺りを見渡すと、小さくため息をついた。
「心配してくれて、どうもありがとう。……お水をあげているのに、花たちの元気がないから、つい……。ここの庭園は、もっと花がいっぱいで、いつでも見とれるくらい綺麗で……。秘密のお水をあげたら、枯れることなんて、今までなかったのに……。」
「秘密のお水?」
マリウスさんは小さく悲鳴をあげて、慌てて口を押さえると、なにかモゴモゴ言いながら、そのまま走って、逃げるように何処かに行ってしまった。あっという間のことで声をかける暇もなかった。私はただその場所に、呆然と立ち尽くした。
「エミリアって、最近、叫ばれて逃げられてばっかりね。プププッ。小さな子供達を怖がらせちゃだめじゃない。ふふふっ。」
「怖がらせたいわけじゃ、ないんですけど……。落ち込みます。」
「あら、やだ、冗談よ?冗談で言ったのよ?本気にしないで?エミリアのせいじゃないんだから。」
その場にしゃがみ込んで、また、ため息がでる。違うと言われても、叫んで逃げられるんだから、なにか怖い思いをさせてしまっているんだと思う。気が滅入る思いで辺りのお花を見渡していると、目の前に小さなバケツが置いてあった。柄杓が立てかけてあって、これでお水をあげていたことが分かった。
「……秘密のお水って、なんでしょうね?」
「ええ?子供の言うことでしょ?お水はお水でしょ?」
「ディアさんも、お水なんですよね?」
「いやいや、さすがにそのバケツの水と一緒にしないでよ。あっ!分かった!なんとも思ってないでしょ?なにも不思議に思ってないんだわ!だから、自分のことも普通の村娘なんて言うんだわ!ただの平凡な村娘とか!」
「私は平凡な村娘ですけど、不思議には思ってますよ。すごく不思議ですよ。そのバケツのお水も。」
「え!?バケツの水??なに?」
私はゆっくりと、バケツに近づいて、中のお水を覗き込んだ。いたって普通のお水に見えるけれど、最近ずっと不思議に思っていた、宿の中で感じる不思議な気配の正体が今分かった。ほんの微かに漂っている、この不思議な気配はバケツの中の水からしていた。これがマリウスさんの言う、秘密の水?
「なにが秘密なんでしょうね?このお水から不思議な気配がするんです。宿の中でこの気配が何なのか探していたんです。どこから汲んできたんでしょう。そこに行けば、これが何の気配なのか分かりますよね?」
「……気配ねえ。秘密なんだから、知られたくないんじゃない?また、叫ばれちゃうわよ?」
「……それは、……落ち込みます。」
「だからね。散歩はいいと思うんだけど、よけいな事に首を突っ込まない方がいいわよ。今は魔女も、ノアも昼間はいないんだし。」
「……そうですね。」
私は、また、ため息が出そうになるのを我慢してから、目の前の柄杓を手に取った。一掬いの水を慎重にパシャッとその辺りに撒いて、宿の部屋に戻ろうと立ち上がると、辺りにとんでもないことが起こった。水を撒いた辺りの植物が、ゴワッともの凄い早さで伸び出して、あっという間に私の背丈を追い越してしまった。どんどん水を撒いたあたりじゃない場所の植物も、ザワザワと伸び出していた。
「なにしたの?なにしたの?なにこれ?え?なになに?浄化??したの?いや、でもこんなの?えっ?なにこれ?」
「してません!してません!浄化もなにも!してません!どうしましょう?どうしましょう?」
「に、逃げるわよ!早く!部屋に帰るのよ。私達のせいじゃ、なかったことにするのよ。早く早く!人目につかないように!早く!」
私は慌てて、走って庭園を後にした。誰にも、見つからなかったとは思うけれど、ずっとドキドキと緊張していた。庭園から逃げ帰っている途中で、一度躓いて転けそうになって、ラリーさん達が作ってくれた転けない靴の性能が分かったことも、より動悸が激しくなって、鼓動がドッキンドッキンと波打つ原因だった。
私の転けない靴は、何があっても絶対に転けないようにするとゆう強い意志を感じる仕上がりで、転けそうになった地点からは遠く離れた場所にぐるぐる回転しながら、ふわっと着地した。そのもの凄い勢いにディアさんは吹き飛ばされて、ベシャッと壁にぶつかって落ちた。クラクラしながらディアさんを拾って、ふらふらしながらやっとのことで、宿の部屋に戻った。もう絶対に転けないように気をつけて歩こうと固く決意した。
部屋に入ってすぐ、大きなソファーセットの所までいって、ディアさんをテーブルの上に置いてから、ソファーにもたれ掛かるようにドサッと座った。ディアさんは気持ちを落ち着かせる為なのか、どこかに行っているようで、ここには居なかった。鼓動がおさまるのを待ってから、そお~っと窓際に近づいていって、庭園を覗き込むと、続々と人が集まってきていて、みんなが口々に何か言い合っていた。王都では目立たないとゆう事がとても重要だと誰もが口々に言っていたことを思い出してしまって、目眩がしそうだった。
「……秘密の水、……のせいになってくれないかな……。」
「ならないわよね!?ちょっと、何したのか、ちゃんと説明して!あれなに!?あんなの、浄化じゃないわよね?」
「おかえりなさい……。ほんとに、何もしてないんです。あそこにあった水を撒いただけなんです。とゆうことは、やっぱりお水のせいじゃ……?……お庭、目立って、ますよね?大丈夫ですかね?私、誰にも見られていないはずだから、大丈夫ですよね?」
「……そうね、まあ庭があんなに元気満々になったんだから、少なくともあの男の子は喜んでいるんじゃない?だから、もしかしたらエミリアにあそこで会ったことは黙っていてくれるかもね。もしかしたら、だけど。」
「喜んでくれていたら、いいんですけど……。」
私は庭園と言うより、密林になってしまったお庭を見下ろしながら、秘密の水の効果が、もう少し穏やかだったら良かったのになと思っていた。