5.本の部屋
もうそうそう驚かないだろうと思っていたのは、まったくの間違いだった。
今まで入った部屋の中で一番広くて、向こうの端までずっと本棚が続いている。
すごく本が好きな人が見たら、喜びで絶叫してしまいそうな光景だった。
高い天井の上の方まで本がぎっしり詰まっているけれど、一番上の本は怖くて取りに行けないと思う。ふかふかの絨毯の所々に、いろいろな形や大きさの椅子や机が置かれてあって、好きなように本が読めるようになっている。
ノアがもっと奥の方に本を探しに行ったので、好きなように見て回ってみる。大きくて分厚い本もあれば、手のひらに収まりそうな小さい本まであって、背表紙を見ているだけでも楽しい。適当に一冊手に取って開いてみると、まったく読めなかった。見た事もない文字で、ビッシリ埋まっている。挿絵は綺麗だった。
何冊か手に取って見てみたけれど、それぞれ色々な違った文字書かれている気がするだけで、内容はまったく分からなかった。あんまりにも知らない文字ばかりなので、自分が知っている文字と見比べてみようと思い立って、なるべく軽そうな本を一冊選んで、近くにあった椅子に座って本を開いた。
指で私の知っている文字を書いてみようとしたけれど、まるで知らない事みたいに、なにも思いつかない。どうしてか、文字を習った記憶も思い出せない。本の記憶はあるのに。何の本?どこで読んだの?自分で読めた?冷や汗がでてきたけれど、やっぱりすぐに、服は乾いていく。
なぜ思い出せないのか。他にも忘れてしまった事があるのか。それは、これから困った事になるんじゃないのか。だんだん不安な気持ちが膨れ上がって、自然と涙がでてしまいそうになる。
「エミリア。ちょっとこの本見てくれる?」
顔を上げると、ノアが重そうな本を、何冊も抱えて近づいてきていた。
バサバサっと音がしたと思ったら、顔面蒼白になったノアが落とした本を蹴散らして、勢いよく座っている私の足下にひざまずいた。その素早さに目が追い付かなくてチカチカする。なぜか頭の中に、ジャンピング・ひざまずき。とゆう言葉が浮かんだ。
「どうしたの?気分が悪い?どこか痛い?今すぐ眠りに……」
私よりよほど具合が悪そうに、顔が青ざめているノアに慌ててしまう。
「ううん。違うの。どこも痛くないよ。気分も悪くない。大丈夫。……ここの本が読めなくて、知ってる文字じゃないみたいって思ったんだけど、なんだか私、文字を忘れちゃったみたいで……。」
「……そうなんだ。ここにはいろんな種類の文字があるよね。文字を忘れて、本が読めなくなったら、悲しいよね。それは、とても辛いよ。」
ひざの上に置いたままの本を大事そうに床に置いてから、私の手をとって、顔を心配そうに覗き込みむと、やさしい声で話してくれる。
「もし良かったら、一緒に文字を勉強しない?エミリアが覚えていた文字を、僕も知りたいよ。」
気遣うように見つめてくる青灰色の綺麗な瞳を見ていたら、不安だった気持ちが薄れて、胸がなにか温かいものに満たされていく気がした。なんだか見つめ合っているのが恥ずかしくなって、目を逸らしてしまう。
「そう?じゃあ、一緒に、……その前に、靴を探しに行ってもいい?」
裸足の足を上げていたずらが見つかってしまったように笑うと、ノアが驚いた顔をしてから、声を上げて笑い出した。ひとしきり二人で笑い合っていたら、さっきまでの不安が吹き飛んで、前向きな気持ちになれた。忘れたなら、また覚えればいいだけ。素直に、そう思えた。
先に立ち上がって、ノアが手を差し出してくれたので、目尻の涙を拭ってから、手をとって歩き出した。黄色い扉が閉まる前に、本の部屋をもう一度覗くと、床に散らばった本が本棚に飛んでいくのが見えた。
「あの部屋は僕の部屋だから、どこからでも行けるんだよ。」
と説明しながら階段を少し下りて、なにもない壁に手をかざすと、赤い扉が現れたので二人で中に入った。もう、便利ならそれでいいんじゃない。としか思わなかった。
ノアはベッドの周りを探してくれているけれど、私は迷わず壁際づたいに靴を探していく。今まで忘れていたけれど、すごい勢いで靴を投げてしまっていた事を、ベッドを見て思い出した。天井から床まで覆っている大きなタペストリーの裏に、私の靴が隠れていた。こんな所まで、飛ばしちゃっていたなんて。なにも壊れていない事を確認してから、ノアに声をかけた。
「片方は見つけたんだけど、もう片方の靴がどこにあるか、分からないの。」
「もしかしたら、外に落としてきたのかもしれない。僕、探してくるよ。怪我してもいけないし、エミリアはここで待っててくれる?」
「私も一緒に行っていい?一緒に行きたい。なにか片方だけ履く物貸してくれない?」
ノアは少しその場で考えてから、代わりの靴を持ってくると言って、部屋を出て行った。待っている間に、ベッドに腰掛けて落ち着いて考えてみる。
大怪我をして、起きたらその怪我が治っていた。髪の色が赤く変わっていて、頭を強く打ったからか、文字を忘れていたけれど、その他には特に支障は無さそうだった。不思議な「魔法の家」が楽しくて、つい長居してしまったけれど、家族も心配しているだろうし、早く帰らなければ。あの雨の日から、どれくらい日にちが経っているんだろうか。
しばらくして、ノアが古い大人用の長靴を持って部屋に戻ってきた。
「こんなのしか見つからなくて……。」
申し訳なさそうに、座っている私の足に長靴を履かせてくれた。大きな長靴は、私の足が入った瞬間に縮んで、ちょうどいい大きさになった。
そのまま流れるように私の手をとって、立たせてくれる。目を瞬かせながら、なぜか頭の中に、ジェントルマンとゆう言葉が浮かんだ。お礼を言って、手を繋いだまま赤い扉の部屋を出て、ふたりで私の靴を探しに向かった。