168.教授の長い話し
アビーさんは椅子の上で器用に胡坐をかいていた。座っているみんなよりも随分目線が高いので、たぶんちょっと浮いているんだと思う。ポルガ教授は僅かに身動ぎをして、少し申し訳なさそうに、穏やかな声で話し始めた。
「私が人族でないとゆうことは、不思議なほどに誰にも、気がつかれませんでした。私の微力な魔力のせいかもしれないと思ったりもしましたが、何故かはいまだに分かりません。ですが、時折、王都で魔法使いを見かけることはありました。その方々が何をしていたのかは分かりませんが、私には関係のないことですし、近づかないようにしていました。私はいつでも研究で忙しいのです。妻のソフィアは動植物を愛する人でした。とりわけ健気な植物や小さな可愛い昆虫を可愛がりました。私と妻は色々な土地に一緒に出かけ、昆虫や動植物を観察し、図鑑を作りました。今も、膨大なその資料をまとめて、図鑑を作っています。まだまだあと何冊も作らないといけません。早く、早くと気ばかり焦りますが、中途半端な物を世に出す訳にはいきませんから、こればかりは仕方がありません」
そうして話しながら、ポルガ教授はどこか遠い目をしていて、少しの間、懐かしそうに思い出に浸っていた。
「失礼。それで、そう、あの頃は一所に留まらず、研究旅行ばかりしていました。何しろ彼女の旺盛な動物や昆虫や植物への関心は留まることをしらず、その情熱は年々熱くなるほどで、よく二人で、日がな一日小さな昆虫を観察していました。時には日が暮れてからの生態を観察する為に、夜通し森に潜んでいたこともあります。本当に、幸せな日々でした。毎日何回も幸せだと思って、そう、二人で言い合いました。そして毎夜、また明日の朝日が昇ってからの計画を語らいながら、胸を躍らせて二人で眠りにつきました。人族は日の光と共に生活するのです。明るい今日を動き回って疲れてしまっても、暗くなった夜に眠ると、また明日の朝には元気になっているのです。それは忙しなく思われるかもしれませんが、人族にとっては、とても理に適った重要な周期であり、生活なのです。私達二人は、そうやってずっとこのまま二人で、この地上にある総ての動植物の図鑑を作ろうなどと、夢を語ったりもしていました。しかし、充実した日々は、あっという間に過ぎ去ります。……彼女が、人族である以上、瞬く間に過ぎていく年齢とゆうものに、あまりにも、短すぎる寿命というものに、逆らう事など、できません。私は妻が不便にならないように、ありとあらゆる機械を作りました。衰えゆく手足の変わりは、いくらでも私が作ります。長く歩けないなら、いくらでも歩ける機械を作ればいいのです。ですが、病は、呪いとも言える病は、私では、私の機械では、どうしようもありませんでした。……そんなある日、あの、長閑な、動植物の楽園のような、あの辺境の土地で、ホルト、村、と言いましたか、広大な土地を丸ごと呑み込むように張り巡らされた、強力な、魔術の結界を見つけたのです。私は、魔力が飛び出すほど驚きました。あ、私の微力な魔力ではとても飛び出るようなことにはなりませんけれども、ええ、ですが、人族では目玉でしたか、とにかく、何かが飛び出してしまいそうなほど、驚きました。私は夢中になって、その魔術を調べました。なんとも、乱暴、いや、豪快、いや、ええ、派手……、な魔術でした。何よりも目を見張るのは、その強力さ。なんとも強靭な結界でした。そしてそれは、それは確かに見惚れるほど美しい結界でした。私は魅入られたようにその場に留まり、ただただ結界を見続けました。私が見惚れ続けた王の結界のように強力な、素晴らしい、魔術」
ポルガ教授がうっとりした顔をして、虚空を見つめて動かなくなった。しばらくして、ラリーさんが小さく咳払いしたので、ハッとなったポルガ教授は手で顔を覆ってから撫でさすった。
「申し訳ありませんでした。それで、……そう、私は結界に見とれていたので、私の妻が泣いていることに気がついていませんでした。人族は、悲しいことがあると、泣いてしまうのです。泣いてしまうとゆうことは、不幸だとゆうことです。私は驚き、慌てました。私の妻には、どんなときにも幸せでいてほしいのです。悲しいことなど起こってほしくありません。私は泣いている訳を聞きました。妻を幸せにするのは、夫の務めなのです。話を聞くと、私の心の優しい妻は、結界で弾かれる虫や、小動物が可哀想だと言って泣いていました。とても強い結界ですから、小さな生き物達は、絶対にその結界を越えられません。その土地の豊かな恵みや、その畑にたわわに実る、それぞれの食料に近づくことも食べることも出来ません。私には、どうすることも、できないことでした。私にはその魔術を打ち消すような、そのような強力な魔力はありません。私には、ほんの少し書き換えることすら不可能に思えました。もちろんそのような行為は、勝手に他人の魔術を書き換えるなどと、そのように非常に礼節を欠くような行いは厳に慎むべきものであると、重々分かっておりました。ですが、私の妻が泣いて、悲しんでおりました。私の妻には、とても短い寿命が、駆け足のように迫りつつある私の妻には、一滴の涙も流して欲しくありませんでした。泣かないで、ほしかった。何一つ悲しい事など起こってほしくありません。泣いている顔を見ているのは、辛いのです。私の妻、愛するソフィアには、いつでも、幸せそうに笑っていてほしかったのです」
ポルガ教授はふいに目を瞑り、その時の奥さんの涙を思い出してしまったのか、教授も涙を堪えているようだった。
「申し訳ありません。私は本当に愚かだったのです。この微力な私が、あの強力な結界の魔術を書き換える事など、出来るわけがないと、冷静に考えれば分かるものを、あの時の私は、妻のことしか考えていませんでした。あの魔術を消滅させる事は不可能でも、少し、少しだけなら、書き換えられるかもしれないと、考えてしまったのです。目の前の、強引な魔術は、少しは修正できる要素があると思ってしまったのです。少しずつだけ、小さな生き物達が少しだけ行き来できるようになればいいだけだと、そう思ってしまったのです。そうして、愚かにも、私は、手を出してしまった」
ポルガ教授な自分の手のひらを見下ろしていた。その手は小刻みに震えていて、どんな光景を思い出してしまったのか、教授は、恐怖に耐えるような表情をしていた。私達はみんな黙って、ポルガ教授が話しだすのを待っていた。
「……よくよく、慎重に、観察したはずでした。小さな風穴のように、少しだけ広げるように、ほんの少しだけ、手を加えるつもりで、手を伸ばした瞬間に、私は、ほ、本物の、魔術の、魔法使いたる、魔力の、本物の純粋な、魔力とゆうものに、はじめて、触れたのです。……圧倒的な、おお、恐ろしいほどの、ふ、ふふふふふ、ふははははは、はははは、はあはあ、す、すみません。こうして、思い出しただけでも、あの時の、恐怖が蘇ります。私は、私の、消滅を覚悟しました。到底無理です。踏み込んでしまった私が愚かだったのです。ですが、目の前に、妻が、私の妻のソフィアが見えました。私は、もがいて、もがいて、抗って、必死で、その、強力な魔術から抜け出しました。やっとのことで地面に倒れ込むと、恐怖に震え、体は硬直し、呼吸もままならず、大量の汗が流れていました。やがて、恐怖に見開いていた私の視界いっぱいに、ソフィアの顔が目に映りました。初めて会った時のように、私を心配そうに見ていた。彼女の変わらない慈愛に満ちた表情に、私は、だんだんと、現実の、感覚が戻ってきました。妻に支えられて、その場に座り込んで、二人で、長い間黙って、結界を眺めました。結界は何も変わらず、その場にありました。私が何かしようとしたことなど、何もなかったかのように、とても強力な結界が、そこにあり続けていました。私の小さな存在など、取るに足らないのだと、まざまざと見せつけられているようでした。私は、妻に謝りました。私が何も出来ない、出来損ないの、一族の恥さらしの、微力すぎる者ゆえ、私は、妻を泣かせてしまい、妻の望みも叶えられず、彼女を不幸にしてしまう。私は、何度も何度も、誠心誠意、謝りました」
そこまで話して、ポルガ教授は額から流れていた汗に気がついて、ポケットから出したハンカチで汗を拭った。そしてしばらくの間、その綺麗な刺繍のしてあるハンカチを見ていた。
「妻は、本当に心の優しい人でした。無力な私のことを、泣きながら許してくれました。それどころか、私には、価値があるのだと、恥ずかしい人などではないと、そんな風に私を励ましてくれました。とてもたくさんの、私の褒められる、良い所を言ってくれました。私はとても、嬉しく思いました。私は彼女が好きですから、彼女も私を好きでいてくれたら、こんなに幸せなことはありません。私は心から、ソフィアに感謝していました。私の妻が大切に思っていてくれる夫である私には、価値があるのだと、そう思えました。私達はずっと変わらず、そのまま二人で一緒に研究をしていたかった。……ですが、病は、呪いのように、体を蝕んでいく病は、着実に、ソフィアの体力を奪っていきました。彼女が、もう研究旅行は無理そうだと言うので、私達はなるべく急いで、王都に戻りました。王都にはたくさんの人族の医者がいるのです。病気は、医者が作る薬で治ることもあるとゆう事を、私達は知っていました。色々な医者に診てもらいました。薬もたくさん買いました。……ですが、とうとうソフィアはベッドから起き上がれなくなり、私は、私の総てを使って、彼女を治そうとしました。彼女と、離ればなれになるなど、絶対に嫌なのです。けれど、また、私の魔術は失敗し、私の妻のソフィアは、まもなく、その寿命を終えてしまいました。もう息をしない、鼓動も動いていない姿でも、私はずっと側に居たかったのですが、彼女の親族は、それを許しませんでした。人族達はみんな、亡くなると土の中にかえるのだと言って、彼女を棺に入れて連れて行きました。人族は、亡くなると土の中で眠って、お墓を建てないと幸せになれないそうです。私は離ればなれなってしまうのは嫌でしたが、土の中は、小さな動植物が好きなソフィアが喜びそうなので、彼女が幸せな方がいいと思って、私も最後には了承しました。そして、彼女の親族は、私も亡くなると、ソフィアの隣にお墓を作ってくれると約束してくれました。ですから、私はずっと王都にいて、ソフィアと私の図鑑を一冊でも多く完成させなければなりません。……ですが、我らが偉大な王の御意志にはすべて従います。罪を犯したのは、間違いなく私です。どのようにも、私に罰をお与えください」
ポルガ教授が話し終えると、部屋の中はシンと静まりかえった。あまりに長い沈黙に、みんながゆっくりとアビーさんの方を向くと、アビーさんはええ?私?なぜ?とゆう顔をしていた。
「……おばあ様?今の話し、聞いていましたか」
「なっ!?ちゃんと、だいたい、聞いておった。なにより!そなたの話しは長すぎるのじゃ!!こう、長すぎて、回りくどくて、遠回りな、なんとも、なんとゆうか、長すぎる!!」
アビーさんはビシィッとポルガ教授を指さして、手をワキワキさせながら憤慨していた。ポルガ教授は座っていた椅子から流れるように土下座して、申し訳ありませんと謝っていた。平気そうにしているけれど、ポルガ教授の体中からなんだかバキボキ聞こえる。
「ええい!鬱陶しい!それを止めんか!だいたい、妾がせっかく弁当を作ってきたと言うに!妾が手ずから拵えた弁当がまずくなっていたら、そなたのせいじゃ!子らが腹を空かせて待っておるとゆうに、どうしてくれよう、どうしてくれようか!」
「ふむ。腹が減っておるな」
ラリーさんが小声で何か呟いたかと思えば、おもむろにサッと地面に大きな青い絨毯を広げて敷いて、サササッとお茶や食べ物が並べられた。私達が驚く暇もないほど、瞬く間に部屋の中にピクニックの用意が完了していた。
「さ、とにかく昼だ、メシにしよう。さあ、アビー、アビーが首尾よく仕上げた、あの美味そうな弁当も出しておくれ。さあさあ、ここにみんな座ってくれ。アビーの素晴らしい弁当をみんなで食べよう」
「なにを~、この~、ラリーめが、妾の弁当が美味そうなどと~、妾も美味そうに仕上がったとは思うが、どうであろうか、どうであろうな、子らはそう思うであろうかのう」
アビーさんは浮かび上がって、上空の高い所でふわんふわんしていた。照れているようで、くるんくるんともしていた。私達はみんな靴を脱いで絨毯の上に座って、アビーさんが下りてくるのを待っていたけれど、先に下りてきたのは大きなお弁当箱だった。アビーさんがラリーさんの隣にふわりと下りて座るのと同時に、お弁当の蓋がパカッと開いた。
「わあ~~!!綺麗!!とっても綺麗な、カラフルなサンドですねえ!すっごく美味しそうです!!」
それはそれは嬉しそうなアビーさんの顔は、とても美しく華やいでいた。みんなお腹が減っていたので、さっそくみんなでいただきますを言ってお昼ごはんを食べ始めることにした。アビーさんの作った何色もの野菜がたっぷり入ったサンドは、ずっしりしていて綺麗で、とても美味しそうだった。みんなで一斉に一つずつ手に取って、パクッと食べてみると、酸味の利いた味付けになっていて、サッパリしていて、お肉が香ばしくて、とても美味しい。
たくさん並んだお弁当のパンやお菓子や果物や、たっぷりのお茶も、みんなでどんどんモリモリ食べた。分厚いサンドにかぶりつくノアの姿を、アビーさんが嬉しそうに眺めていた。ピートさんは余程お腹が減っていたのか、どんどんガツガツ次々になんでも口に入れていた。ラリーさんはお茶のお代わりをポルガ教授のカップに入れにいったついでに、嬉しそうに話し込んでいた。ポルガ教授も照れながら楽しそうに話していた。やっぱり、みんなで一緒にごはんを食べたら仲良くなれるんだなと思って、私は、楽しい幸せな気分に浸っていた。