162.楽しみな明日
ディアさんと二人で隠れながら話していて、しばらくしてからまた円形の舞台の方に目をやると、ノア達の様子がまた変わっていた。ノアとピートさん以外の人達は全員が座り込んでいて、ノアが嬉々とした笑顔で、座っている一人一人に何かの紙を配っていた。横にいるピートさんは困ったような微妙な顔をしていた。
「あれ……、なにしてるのかしら?」
「なんでしょうね?ここからでは声も聞こえませんから、もう少し近づいてみましょうか。」
私とディアさんはいそいそと慎重に観客席の間にある階段を下りていって、また椅子の後ろに隠れた。ずいぶん前の方に下りてきたので、舞台の上のノア達との距離が大分近くなった。近くはなったのだけど、舞台の上では誰も喋っていはいなかったので、シンと静まりかえっていた。
さっきまでの雰囲気とはまったく違っていたので、不思議に思ってずっと覗き込んでいると、ふとピートさんがこちらを見た。目が合った気がしたけれど、フイッとむこうを向いたので、やっぱり気のせいだったのかもしれない。
「さて、そろそろ全員書けたかな?自分の名前ぐらい、間違って書くはずがないけど、一応、隣同士で確かめ合ってもらおうかな。」
「いや、そこまでは……、しなくてもいいだろ?な?」
「ピートはずいぶんお人好しだなあ。僕は彼らを一切信用していないけど?騎士らしからぬ振る舞いが度を越しているんじゃないかなあ。僕は、これからもエミリアにちょっかいなんて出されたら、到底許せないんだけど?だから確実な、誓約書がいるよね?」
「いや、俺も鉄棒を馬鹿にされた時には、腹が立ったけど、ちょっとしつこくし過ぎたかなって思ってるし……、な?ほら、お前らも!謝れよ。もう、しないよな?」
「は!はいいい!!」
「しません!!」
「アニキ!!」
なんだかピートさんは、並んで座っている人達に慕われていた。ピートさんのことを何人もの人達が次々にアニキと呼んでいた。一緒に訓練したら仲良くなれると、前に誰かが言っていたような気がするけど、本当にその通りだなと思った。
「僕はね、僕が居ない時に、エミリアが怖い思いをしたのかなと思うと……、ね?考えるだけでも……、うん、没落一択だよね?」
座っている人達は、震え上がっていた。ここからではノアの顔が見えなかったけれど、なんだかずいぶん怒っているようだった。
「だから、止めとけって、こいつらが可哀想だろ!?……エミリア!おい!エミリア、ちょっと来いよ。ノアに大丈夫って言ってやれ。」
ちゃんと隠れていたはずなのに、ピートさんには見つかっていたようだった。気になって、さっきからずっと椅子の横から顔を出して覗き込んでいたのがいけなかったのかもしれない。
「エミリア、もうあっちの舞台に一緒に上がっちゃったら?ノアがずいぶんへそを曲げてるみたいだし、このまま放っておくのも面倒くさいわよ。」
ディアさんが私のマントの襟に隠れたので、私はディアさんに言われたようにノア達の所に行くことにした。すぐ近くにはいるけれど、仕切りのようになっている低い壁を乗り越えるのに手間取ってしまった。するとノアがすぐに近くに来て手伝ってくれた。
「手伝ってくれて、ありがとう。わあ~、真ん中から見ると、こんな風になっているんだね~。椅子がいっぱい。」
ノアに手を引かれて、みんなのいる舞台の真ん中に歩いて行く途中で周りを見渡してみると、ぐるりと椅子に囲まれていて、通路を挟んで上の方までずっと続いていた。
「な?エミリア、怒ってないよな?こいつら、怖くもないよな?エミリアも可哀想だと思うだろ?ノアの暴走を止めてくれよ。」
ノアの暴走とは何なのかを聞こうとしたときに、突然、大きな音を立ててピートさんの向こうにある門のような扉が開いた。そして、急ぎ足で何人もの大人の人達が入ってきた。よく見てみると、大人の男の人に混じって、真ん中にレイモンドさんがいた。
「遅い。もうすっかり事は済んだ後なんだけど。」
「すみません、ノアさん。これでも急いで来たのですが。なにしろ、毎日学ぶことや、やる事が山積みで、王太子がこんなに忙しくて大変だとは思いもしませんでした。」
久し振りに会ったレイモンドさんは、なんだか疲れて、やつれているようだった。小走りで歩いてきたレイモンドさんは、そのまま私の目の前まで来て跪いた。周りの全員が、息を呑んだ音がした。
「お久しぶりです。我が女神。あ、エミリア様、……さん。またお会いできる日を心待ちにしておりました。エミリアさんは、お変わりありませんでしょうか。私は、この国の罪を償い、より良き未来の為に尽くしたく毎日精進しております。私は、エミリアさんと交わした誓いを一日たりとも忘れたことはありません。」
レイモンドさんが私の手をとると、一瞬だけなにか、静電気のようにパリッとした。そのまま私の手を軽くおでこに当てると、すぐに私の手を離したので違和感は一瞬だけですぐに消えた。
「……この国の、女性に対する扱いはどうなっているのかな。不躾に声をかけられて、まったくの迷惑でも、話したりどこかについて行かないといけないのかな。ねえ、レイモンド?どう思う?それとも、それは騎士や、貴族や王族には許されているやり方なの?」
「……本当に、申し訳ない。面目もございません。」
ノアが静かに怒っているので、レイモンドさんはすごくシュンとしていた。レイモンドさんを囲んでいる大人の人達も顔色が悪かった。
「大丈夫。もう別に、終わったことだし、今ちょうどこの人達に名前と家名も書いてもらっていたんだ。全員、取り潰しにするだけでいいよ。エミリアに対する不埒な行いの責任にしては、軽すぎるけどね。」
「不埒な!?女神様に対して!!?なんたる!!分かりました。すぐに一族郎党処分いたします。」
ノアがニコニコ笑いながら、紙の束をレイモンドさんに渡そうとしていた。すると、慌ててピートさんがその紙の束を横から奪い取った。
「待て!待て待て!!ちょっと待て!やり過ぎだ!なにも!なにも不埒なことなんてされてねえから!たしかに、ちょっと横暴だったけど、こいつらも反省してるし、ノアも!手回しがよすぎんだよ!あと、一族郎党とか!止めろ!恐いこと言ってんじゃねえよ!な!?エミリア、なんとか言ってやれ。こいつら、許してやるよな?」
なにか緊迫した雰囲気の中で、私は座っている人達を見た。赤い上着を着た集団の人達はみんな具合が悪そうで、泣いている人もたくさんいたし、気絶して横になっている人もいた。みんなが暗い顔で、すごく悲しい雰囲気に包まれていた。
「泣いているのは可哀想ですし、私、怒っていませんよ。」
「それで、大げさだよな?もう許してるよな?なにも、されてねえもんな?ノアが大げさなことをしようとしてんだぞ?そっちのが、だめだろ?」
「大げさなことを……、するの?」
ノアの方を向いて聞いてみると、少し困ったような顔をしたノアが、ふるふるとゆっくりと頭をふった。
「……しない。エミリアがしてほしくないなら、しないよ。」
「ピートさん、ノアは大げさなことなんてしませんよ。ノアは凄く賢いですから、いつも正しいことをしますよ。だめなことなんて、しませんよ。」
「ああ、そうかよ。なら一件落着だな!おしまい!お咎めなしだな!おら、お前らも立って、さっさと帰れ。レイモンドも、忙しいんだろ?ノアが急に呼んで悪かったな。じゃあ、まあ頑張れよ。はいはい、解散解散!かえれ帰れ。」
一件落着して、すべて解決して終わって、後は帰るだけのようだった。すぐに、ピートさんが泣きながらお礼を言っている人達に囲まれていて、ピートさんの周りは大渋滞してごった返していた。すぐには帰れそうにもなかったので、私は少し気になっていたレイモンドさんに近づいていった。
「レイモンドさん、少しお疲れですか?疲れてしまったら、ゆっくり休んでくださいね。」
「ありがとうございます。エミリアさんも、学校に通っているそうですね。私も微力ながら、皆が過ごしやすい環境について考えてみます。今回は、騎士科の者達がご迷惑をおかけしました。以後、このような事が起きないように周知徹底いたします。」
私は両手をだして、レイモンドさんの手を握ってみた。さっきと違ってパリッとしなくて、特に、変な感じもしなかった。なんだか不思議に思ったけれど、私の、ただの気のせいだったのかもしれない。
「レイモンド、いい加減に手を離せ。」
私が、両手で長く握手しているようにしてしまっていたので、ノアが私とレイモンドさんの手をとって離した。
「あ、ごめんね。私が、手をずっと触っていて。」
「いえ!いえ、私の手など、いつでも!あの、いつまでも、あの、……すみません。」
レイモンドさんが真っ赤になって謝っていた。私の方から手を触りにいったので、なにも謝ることはないと思うんだけど、レイモンドさんはもの凄く恐縮して、汗をかいていた。
「……疲れてしまったら、休んでくださいね。」
私は、レイモンドさんにまた同じことを言って、その場を離れた。ノアとレイモンドさんが話していたし、ピートさんの周りの人達はまだまだ別れを惜しんでいたので、私は、観客席の近くに腰をおろして待つことにした。
「ディアさん、さっき変な感じがしたんですけど、私の気のせいですかね?手を触ったときにパリッとしたんですけど、今触ってみたら何ともなかったんです。ディアさんもさっき何か変って言ってましたよね?」
「ええ~?パリってなに~?分かんないけど、エミリアが何かしたの?一瞬で浄化したとか?まっさかあ~。」
「いえ、私は何も、していないと思いますけど……。私も、ディアさんみたいに調査してみたいです。なにか変なのは気になります。」
「そお~ねえ~。それは、ノアに聞いてみないとねえ。なにせ今は魔女がいないんだから、まったく、いつ帰ってくるのかしらねえ。あっ、でも調査って、明日とかはだめよ。私だって可愛い本をいっぱい見てみたいんだから。」
「そうでした。可愛くて綺麗な本がたくさん、凄くたくさんあったんですよ。ディアさんもきっと喜びますよ。お昼にメイベルさんにも見てもらったんです。それに、ジョアンナ先生が私に辞書を貸してくれたんです。私にぴったりの辞書なんですよ。」
「フフフ、エミリアは学校が気に入ったみたいね。私も明日が楽しみ。」
「はい。明日が楽しみです。」
今からベリーさんの家に帰って、ごはんを食べて、眠って、またごはんを食べて、楽しみにしていると、明日がすごく先のことのように思えた。待ち切れなくて、すぐに明日になってほしい気もしたけれど、楽しみにしている今この時がもう楽しくて、それがすごく、大切に思えた。