160.私の大切な古い辞書
図書棟に着くと、ジョアンナ先生が扉を開けてすぐの所に置いてあるベンチに座って、手のひらの中のとても小さな本を、愛おしそうに見つめながら撫でていた。
「おお?ビックリした。見張りかよ?まだ鐘は鳴ってないぞ。」
「え?あ、おかえりなさい。すみません。エミリアさんに一刻も早くこれをお渡ししたくて……、!?そ、それは?あの、すみません、その、手にお持ちの……?」
立ち上がったジョアンナ先生は、ピートさんがぶらぶら振り回していたハンカチに目を留めると、なにかワナワナし始めた。
「ああ、これ?さっき貰っただけだから、気にすんな。」
「貰った?いったい、誰に……、ま、待って!待ってくださいよ。見せてください!ちょっと、よく見せて、ください。」
すっかり青ざめているジョアンナ先生はピートさんから白いハンカチを受け取ると、小刻みに手を震わせながら両手でハンカチを広げて凝視していた。
「これは……、これは……。」
掲げながら広げた白いハンカチには、ビッシリと白い糸で刺繍が施されていた。複雑な模様で、蔦のような蛇のような、なにか剣や動物や、色々な模様が細かく絡まるように組み合わされていた。
「ああ、白い布に白い糸で刺繍すると模様が分かりにくいですよね。私のシャツにも同じように刺繍がしてありますよ。これは、なんの模様でしょうね。」
「これを、どこで、誰に、貰ったんです?どうゆう状況で?まさか、まさかですけれど、これは、これはまさか決闘の証では?あの、あの、騎士の儀礼のことには、詳しくありませんけれど、たしか、本では……、ヒイッ!それにそれに、この、この紋章は?かなり上位の貴族では?すみません、私、詳しくなくて、あの、貴族名鑑を確認してみないと、分かりませんけど、あの、だってだって、かなり複雑な文様ですし、白い刺繍の、ハンカチですよ!?」
かなり動揺している様子のジョアンナ先生は、ハンカチとピートさんを見比べながら、色々なことを問い詰めてピートさんに詰め寄っていた。
「お昼休憩に、お昼を食べに行っただけですよね?なにが、あったんですか!?どうして決闘するはめに?どうしましょう、どうしましょう。」
「まあまあ、落ち着けよ。ジョアンナ先生。これは、なんか、あれだよ。落とし物だよ。え~っと、赤い上着の連中が落としていったから、後で届けに行こうと思って。なんかほら、あいつらはしゃいでたから。」
ピートさんがそう話すと、ジョアンナ先生はハフウ~ッと深い息をはいて、よろけながら後ずさりすると、さっきまで座っていたベンチにドスンと座った。そして胸や頭をせわしなく手で押さえていた。
「そうでしたか、よかった……。良かったです。私の、早とちりで、すみません。あんまり驚いたものですから、フウー。そうですか、落とし物でしたか。それなら、騎士科の棟の受付の方にお渡ししたほうがいいですよ。なにせ白いハンカチですから、ご本人の名誉に関わりますからね。親切心からでも、決して落とし主を探してはいけませんよ。目立たないように、気付かれないように持って行ってくださいね。受付の方に事情を説明したら、こっそり落とし主の方に渡してくださると思います。騎士科はここからは少し遠いですが、場所を知っていますか。」
「ああ、だいだい。競技場も近くにあんだろ?第一とか第二とか、他にもいっぱいあんの?」
「ええ、そうですね。第一、第二競技場は並びにありますね。第三競技場は少し離れていますけど、あちらは厩舎の並びですから、用途が違うのかもしれません。騎士科の方が馬に乗って訓練なさっているのかもしれませんけど、すみません、私、詳しくなくて。」
「いいよ。俺もそんな興味ねえし。」
「それにしても、ピートさん。たとえ親切な行いでも、騎士棟の辺りをあまりウロウロしてはいけませんよ。受付の方に落とし物をお届けしたら、速やかに騎士棟から離れてくださいね。どんなイチャモンをつけられるか分かりませんからね。関わらないのが一番ですよ。」
「まったく、騎士っていったいなんだよ。うっとうしい。」
「少々荒っぽい方々が多いかもしれませんけど、有事の際には騎士の方々が私達を守ってくださるんですから、そう毛嫌いしてはいけませんよ。今はまだ政変の影響でゴタゴタしていますでしょう?大変な騎士様方がピリピリしていても、しょうがありませんよ。」
白いハンカチを綺麗に折り畳みながら話していたジョアンナ先生が、パンパンとハンカチをはたいてからピートさんに渡した。
「そんなん、言い訳にならねえよ。そんなん、騎士の絵本を読んで憧れちまった子供が見たら、がっかりすんだろ。」
「たしかに、そうですよね。格好良い騎士様の本はたくさんありますし、ウフフ、実は女性向けの騎士様の本もたくさんあるんですよ。とっても素敵な騎士様の本はいつでも大人気なんですよ。ああゆう、騎士様ばかりなら……、それはそれで大変そうですけど。フフフ。」
すっかり平静を取り戻したジョアンナ先生が、楽しそうに女性向けの騎士様の本の話しを始めると、ピートさんは手を振って2階に上がっていった。私とジョアンナ先生は二人でまた1階の本の部屋に入って、好きな本を選んで読むことになった。
「ああ、なんて素敵な授業でしょうか。あっ、そうでした。エミリアさん、よろしければこちらをお使いください。」
ジョアンナ先生は私の隣の席に座ると、先程からずっと持っていた小さな茶色い本を差し出してくれた。受け取ってみると、それは手の中に収まるほど小さくて、濃い茶色の表紙には金色と赤色で装飾してあって、裏表紙の真ん中には小さな可愛い鳥の絵が描いてあった。
「かわいい、本ですね。」
「ええ、小さいですけど、これは辞書なんです。小さいので持ち運びにも便利ですし、もちろん総ての文字も、色々な文字の解説も載っていますし、なにより、この辞書には季節の挨拶例など、手紙の書き方なんかも載っているんですよ。」
「ええ!?それは、なんて素晴らしい本なんですか!これは、私にぴったりの本です。」
小さなかわいい本を開いてみると、とても薄い紙のすべてのページが、とても細かい文字で隅々までびっしりと埋め尽くされていた。
「この辞書で文字を調べると、色んな本が読めますよ。それに、色々な言葉の意味も知ることができます。これは、私が子供の頃に使っていたものなんです。私は今でも、この辞書のページをただめくって読むのも好きなんですけど、子供の頃の私には、知らない言葉がたくさん出てきてワクワクして、何回も何度も、いつまでも飽きずに眺めていたものでした。今思えば、辞書は、私の本好きの原点かもしれません。」
ジョアンナ先生は私の手の中の辞書に手を伸ばして、そっと撫でた。とても大切に思っていることが伝わってくる。
「この紙質も好きで……、薄いのに丈夫で、子供の頃の私には、どうやって作っているんだろうと不思議に思ったものでした。父の書棚にあった辞書なんですけど、私があんまりにも気に入っていたので、大人になってから譲り受けました。紙の色もだいぶ変わっていますから、父や祖父の代よりももっと古い辞書なのかもしれません。」
「ジョアンナ先生、そんなに大事な辞書を私が使えません。もし汚してしまったり、破いてしまったりしては大変です。」
辞書から手を離したジョアンナ先生は、私の顔を見て嬉しそうにニッコリと微笑んだ。そして辞書を持っている私の手にそっと触れた。
「いいえ、エミリアさんはこの辞書を大切に使ってくれますよ。エミリアさんが言ったように、これはエミリアさんにぴったりの本です。本は、辞書は、使われてこそ、読まれてこそです。私は同じような辞書をまだたくさん持っていますから、よろしければこの辞書を貰ってください。大切に使ってもらえる方が辞書も喜びます。この辞書で文字を調べて、たくさん本を読んでもらえたら、私にとって、これ以上に嬉しいことはありません。」
「そんな、とても貰えません。そんなに大切な本を私は貰えません。」
「……では、こうしましょう。この辞書に書かれていることを総て覚えて、もう必要が無くなったら私に返してください。それまではどうか、この辞書を使ってあげてください。」
私はとても迷ったけれど、ジョアンナ先生のこの大事な辞書を借りることにした。私が、一生懸命この辞書を使って文字を勉強すると約束すると、ジョアンナ先生はとても嬉しそうに微笑んでくれた。
「先生とは、とても素晴らしい職業ですね。今までの私は知りませんでした。本はとても素晴らしいですけど、本だけでは分からないことも、ありますよね。……辞書にも本にも、たくさんの知識が載っていますけど、その知識を全部知っている人がいて、それを全部書いた人がいるんですよね。ずっとずっと後の人にも、教えてくれているんですよね。考えてみれば当たり前のことなんですけど、私、その素敵さに初めて気付けた気がします。その方々の知識に対する情熱に頭が下がります。やはり、本は素晴らしいですね。私は今まで以上に、総ての本を尊敬することができます。エミリアさん、ありがとうございます。」
それからジョアンナ先生はまた本を選ぶ作業に戻って、私は手の中に収まっている可愛い辞書に夢中になった。文字を調べたり、パラパラとめくって眺めたり、順番に調べていって言葉の意味を読み解いてみたり、知らないことを知るのは、とても楽しい。
ジョアンナ先生が言っていたように、この辞書は、知らないことを教えてくれる、とても親切な本だと思った。小さくて分厚いこの辞書が、私にも、とても愛おしく思えて、ついつい撫でてしまう。私はこの部屋にたくさんある綺麗な絵の本を見るのをすっかり忘れて、ずっと辞書を眺め続けていた。
「おい、お~い!エミリア!ったく、毎回毎回、いい加減にしろよな。そんな小っこい本をよくじっと読んでられるな?」
「ピートさん?どうしました?あれ?ジョアンナ先生はどこですか?」
「ジョアンナ先生はさっき慌てて帰っていったぞ。今日の授業は全部終わったんだよ。もう鐘が2回とも鳴り終わっただろ?エミリアはさっきの休憩の間もずっと本を読んでたのか?」
「休憩があったんですか。気づきませんでした。」
「ったくよお。ちゃんと休憩しないと疲れるぞ。しかしあれだな、ジョアンナ先生はたぶん苦労人だな。あれはきっと弟妹の面倒をみてるんだぜ。うちもそうだけど、弟妹が多いと色々と大変なんだよ。まあ、そのぶん賑やかで楽しいけどよ。あ、エミリアにまた明日って、言ってたぞ。明日はちゃんと挨拶しろよ。」
私は立ち上がって周りを見渡してみた。さっきよりも本がたくさん積み上がっていて、本の山は増えていた。そして、ジョアンナ先生はもう帰ってしまった後だった。
「私達も帰りましょうか。メイベルさんとの待ち合わせ場所に……。」
「あ~、それなんだけど、メイベルには先に帰ってもらうことにした。昼休憩も、これからは別になると思う。さっきの休憩んときに言ってきた。」
「それは、どうしてですか。」
「メイベルはこれからずっと長い間この学校に通うんだぞ。この学校の連中と仲良くならないといけないんだよ。これから友達を作っていくんだから、俺達が邪魔しちゃだめなんだよ。ベリーさんの家に帰ったらすぐ隣にいるんだし、朝は一緒に学校に行くんだから、俺達はそれで十分だろ。」
「……そうですか。」
「そんなシュンとすんなよ。昼だって、メイベルはたまには俺達と一緒に混ざって食べるって言ってたぞ。メイベルが全部俺の言う通りにするわけないだろ。」
メイベルさんとお昼休憩をいつも一緒にいられないのは残念だけど、私もメイベルさんの邪魔はしたくないと思う。なにより、この学校はメイベルさんが目標にしていた大切な場所なので、邪魔じゃなくて応援をしたいと思った。
「分かりました。学校では別々になっても、ベリーさんの家に帰ればまた会えますよね。私達も帰りましょうか。あ、でもノアがまだ戻ってきていませんね。」
「そうなんだよ。……だから、エミリアはここでノアが戻ってくるのを待っててくれ。ノアが来るまで外には出るなよ。俺は、ちょっと用事があるから先に帰る。」
「用事って……、あ、今って放課後ですか?やっぱり、さっきのハンカチは貰った物だったんですよね?今が、放課後なんですか?さっきの人達に会いに行くんですか?」
「ちっ、憶えてたか。いいか。ノアには言うなよ。これは、俺の責任なんだよ。俺が油断してたんだから、俺だけで始末をつける。絶対、ノアに言うな。言ったら怒るぞ。じゃあな、ノアが戻って来るまで絶対に外に出るなよ。エミリアが一人で外に出たって、迷子になるだけだぞ。分かったな。」
ピートさんはそう言って、あっという間に部屋から出て行ってしまった。私はぽつんと部屋に残されて、立ち尽くしてしまう。しばらくただ呆然と、ピートさんが出ていった扉を見ていた。