157.すごくとても本が好き
ジョアンナ先生は私とピートさんの間の席に座って、私達二人にそれぞれ勉強を教えてくれていた。ノアは私の隣に座って、ニコニコしながらお気に入りに本を読んで自習していた。先生をするのが初めてと言っていたジョアンナ先生は、とても教えることに熱心で、優しくて親切で、とてもいい先生だと思った。
「エミリアさん、すごいです。もう今ので3つも新しい文字を覚えましたよ。」
「ジョアンナ先生、私、この3つは前に習っていたんでした。今思い出しました。すごいです。3つも思い出せました。」
「思い出し……、そう、ですか。それなら、これからどんどん思い出しましょう。読み書きが出来ると、本が読めるようになります。本が読めるようになったら、とってもとっても楽しいですよ。」
「ジョアンナ先生よお、本なんか読んでも楽しい訳ないだろ。こんな小っこい文字ばっか見て、目が疲れるだけじゃねえか。なんにも面白くねえ。」
ピートさんが机の上に開いている教科書を叩いて、抗議していた。文法と言う難しい文章を書き写していたピートさんは、疲れてうんざりしているようだった。
「ピートさん、本はとっても面白いですよ。私には下に何人も弟妹がいますけど、みんなまだ幼い子供の頃から、楽しい物語の本が大好きでした。本は楽しいいだけでなく、見識が広がりますし、弟妹達がもっと幼い頃には、私が読み聞かせをしていましたけど、男の子が好きな本はやっぱり冒険の本ですよね。ピーターの大冒険をゆう本を読んだことがありますか?ワクワクする冒険の本なんですけど。」
「いや、……読んだことないけど。」
「それはとても残念です。とても面白くてお勧めの本です。長く続いているお話しの本で、弟達も大好きなんです。今は34巻が出たばかりなんですけど、そろそろ完結になりそうなので、悲しくて、あ、でも結末が読めるなんて幸せなことですよね。次の巻を待っている間もそれは楽しみな気持ちをもらえますし、それに……、すみません、私ったら長々と個人的な話しを、あの、簡単に、すごく大まかにあらすじを言いますと、主人公は、……庶民の、商人の息子の男の子なんですけど、ハラハラするような波乱万丈な冒険の過程で成長していく物語で、あ、商人ならではの計算の話しでは、ちょっぴり計算が苦手な主人公の男の子と一緒に勉強しているような気になりますし、それに、なにより途中で強くなる為に師匠について訓練に励むくだりなんかは胸が熱くなりますし、鬼気迫る決闘の場面は弟達も大好きで、……読んでみますか?勉強にもなりますよ。とても良く出来た文章なので、それをお手本に、教科書にしてみるのもいいかもしれませんね。」
「……商人の、息子?……師匠に、訓練に、決闘?」
「ええ、奇抜に思われるかもしれませんが、商人の子が主人公なんです。市中の、庶民の暮らしぶりを知る良い機会になりますよ。もし、貴族の身分の者以外に偏見をお持ちなら、彼らも私達と同じように日々の暮らしを……。」
「偏見!?庶民に偏見だって!?俺が!?この俺が!?まさか!?」
ピートさんがあまりにも驚いたようで、席から勢いよく立ち上がって頭を押さえていた。そしてそのまま、口を大きくあけたり閉じたりしているけれど、次の声が出ていなかった。
「ジョアンナ先生は、ずいぶん本に詳しいんですね。話を聞いているだけで、面白い本を読んだ気分になりました。あの本には、そんなに長い続きがあったんですね。僕も今度読んでみます。ああ、ピートは庶民に偏見を持っていませんよ。それに、ピートもその冒険の本のことをきっと気に入りますよ。」
「ありがとうノアさん。すみません、あの私、本当に、本が好きなもので、すみません。聞かれてもいないのに、つい喋りすぎてしまって、……お恥ずかしい限りです。」
ジョアンナ先生は、とても面白そうな本の話しを楽しそうに話していたのに、今はなぜか恥ずかしそうにうなだれていた。ジョアンナ先生に声をかけようとしたその時、突然に学校中に響き渡るような大きな鐘の音が鳴ったので、私は驚いて体がビクッとなった。それと同時に、椅子から立ち上がったままだったピートさんが、ハッとして慌てて教室から走って出ていった。
「え?あの?え?どうし……?」
「ああ、ピートのことは気にしないでください。次の鐘が鳴るまでは休憩なんですよね?ピートはちょっと、食堂の制覇に燃えてて、休憩を有効に使うそうなので、ホントに、お気になさらず。」
ノアがピートさんのことを説明しながら分厚い本をパタンと閉じると、ジョアンナ先生が身を乗り出して、私とぐいんと近くなった。
「まあ、ずいぶん年代物の本ですね。楽しそうに読書されていたので、何の本を読んでいらっしゃるのか気になっていたんです。それは……、ポルガ教授の本ですよね?その装丁はたしか、難しい数式の専門書ですよね?教授はそういった数字ばかりの公式の本も何冊も出されていますよね。古い方を読み直しているんですか?」
「……何冊も?この独創的な数式の本が何冊もあるんですか?」
「ええ……、独創的かどうかは私には分かりませんけど、そうゆう数字ばかりの本も何十冊も書いてらっしゃったと思います。ポルガ教授はあらゆる学問に通じた天才でいらっしゃいますから、ありとあらゆる分野の本を書いていらっしゃいますよ。とても好奇心旺盛で面白い方ですよね。絵までお上手で、昆虫や植物の図鑑の絵も、ご自分で描いていらっしゃるそうですよ。驚くほど多才な方ですよね。」
「実在する人物だなんて、考えたこともありませんでした。ジョアンナ先生のお知り合いの方だったんですか。」
「知り合いだなんて!とんでもないです。私はただ、ただ……、私は、……働いていたもので。私は先日まで、図書館で働いていたんです。教授のことは、時折お見かけして……。」
なぜかジョアンナ先生は恥ずかしそうに顔を赤くして、またうなだれてしまった。私には、なにか恥ずかしいことがあったのかが分からなかったけれど、心配になって顔を覗き込むと、ジョアンナ先生はぎこちなく笑いかけてくれた。
「……大丈夫、ですよ。貴族の女性が働きに出ることに否定的な意見をお持ちの方が多いのは、分かっています。ですが、私はこんな容姿ですし、適齢期はとっくに過ぎいていますし、婚姻の予定もまったくありませんから、私は何を言われても平気なんです。弟妹達の為に、少しでも家計の足しになることをしたいと、私が自ら望んで働いているんです。驚かれるかもしれませんが、図書館で働くことは、本を愛する私にとって、この上ないほどの喜びでした。」
ノアの顔を挑むように見ながら話すジョアンナ先生は、膝の上でギュッと手を握りしめていた。私にはなにか、二人が仲違いしているように思えた。ノアの顔を見ると困ったように笑って、大丈夫と言うように私の肩に手をおいた。
「好きな仕事に従事することは素晴らしいことですよね。ここの授業が終わったら、ジョアンナ先生がまた図書館で働けるようになることを、僕達は願っています。」
ノアがにこやかに話し終えると、教室がシンと静まりかえった。やっぱりなにか行き違いや思い違いがあるような気がした。なにかモヤモヤしたすっきりしない不思議な雰囲気が辺りに漂っていた。
「いえ、私は、もう……、先の政変の影響で、働きに出られる事になったお嬢様方が増えたらしくて、私などよりも、よっぽど高位の方々ですから、もう、私が図書館で働くことは、……できない、そうです。」
「そうだったんですか。そうとは知らずに、すみませんでした。……ピートが戻ってきたら、みんなで図書館に本を探しに行きませんか。ピートもさっき話していた本を読んでみたいと思っているだろうし、僕も続きを読んでみたい。エミリアにもお手本になる本がきっと見つかります。たしかこの学校には、図書館が何棟もあるんですよね。」
「え、ええ、はい。そうですね。……では、そう、しましょう。ええと、それなら、物語の本をたくさん置いてある図書棟に行きましょうか。ここからは少し歩きますが、子供向けの絵本なんかも豊富に置いていて、明るくて素敵な内装なんですよ。」
しばらくすると、教室の中にまた大きな鐘の音が響き始めた。そしてバタバタと騒がしく走る音がして、ガタガタと勢いよく教室の扉を開けてピートさんが帰ってきた。
「まに、間に合ったな。よし。間に合った。まだ鐘の音が鳴り終わってないからな。遅刻じゃねえ。」
「あ、すみません。ピートさん、あの、教室では飲食が禁止されています。その手に持っている、……ケーキ?を、あの、……すみませんが。」
「あ、そうなの?やっべ。」
ピートさんが手に持っていたお菓子を一口で口の中に詰め込んで、パンパンと手をはたいた。空になった手をこちらに広げて、膨らんだほっぺでモゴモゴと何かを言っているピートさんをみんなで見ていると、教室の中がなんだかやわらかい雰囲気になっていた。
「ピート、これからみんなで図書棟に行くんだ。ピートもさっきの本を読んでみたいだろ?面白い本を教科書にしたら、勉強がはかどるよ。」
まだ口の中がいっぱいで喋れないピートさんは、うんうん頷きながら口を押えていた。いっぺんに口の中に全部入れたので、飲み込めなくて出てきてしまいそうで四苦八苦していた。ノアがピートさんの背中をトントンと叩いて助けてあげながら、そのまま二人は扉の方に歩き出した。
「あ。お待ちください。外に、教室の外に出るときはマントを忘れないでください。規則違反になってしまいます。」
そうして、私達はみんなマントを羽織ってから教室の外に出た。みんなで揃って本がたくさん置いてある図書棟を目指した。歩きながら、ジョアンナ先生が話してくれる素晴らしい本たちの話しを聞いていると、私も、本を読むことがとても楽しみになってきていた。
心が解き放されたように自由になって、まるで本の物語の中に入り込むような感覚とゆうものがとても楽しそうで、私は、学校に通えることになって、勉強をして、いつか本が読める日がくることを、本当に嬉しく思った。