147.焦ってしまう
私はなんとなく集中して修行がしたくなって、ディアさんと二人で何日も荷馬車の自分の部屋に籠っていた。ゆっくりと呼吸をして心を落ち着けていくと、澄んでいくような、前よりもはっきりと、研ぎ澄まされていく感覚がしていて、それがとても気になって、他のことが何も考えられなくなった。
たまに、ノアやディアさんが食べることや眠ることは必要だと言っていて、食べたり飲んだり眠ったりはしていたと思う。けれど、なにかが掴めそうなのに掴めなくて、知っていることなのに思い出せないような、そんなもどかしさに、ずっと、絶え間なくとらわれていた。すると、そのうちにどんどん遠ざかっていってしまうように、集中することも難しくなっていった。
「ねえ?どうしてそんなに焦ってるの?あのムカつく梟のせい?あんな奴の言うことなんて気にしなくていいのよ。ちゃんと、前よりもイイ感じに集中できるようになってるわよ。今はそれで十分じゃない?」
「そう、ですか?私……、なにか、忘れていることがある気がするのに、思い出せなくて、なんだか落ち着かないんです。それで、それがずっと気になっているんですけど、どんどん、離れていっているような気もしていて、……焦ります。」
「そんなに焦らなくてもいいのよお。焦りすぎ!あのねえ、エミリアはまだ子供なのよ。それに!修行以外のことも疎かにしちゃだめよ。部屋に籠りっきりなのも、気が滅入ってきて良くないんじゃない?気分転換に、たまには外に行かない?忘れてることなんて、そのうちにポロッと思い出したりするものよ。」
私は集中して修行を始めてから、まだなにも前に進んでいなくて、情けなく思えてすごく焦っていたけれど、ディアさんの言ってくれている事は、何もかもすべて大切なことだと思えた。
思えば私はまったく、ゆるす、こともできていなかった。そのことにも今初めて気がついて、私は、吸った息を大きくフウ~とはいた。私は、本当に、自分の行いを反省しなくてはいけないなと、あらためて思った。
「ディアさん、ありがとう。修行はいったん、休憩にします。」
「そう?良かった。じゃ、外に出てみる?」
私は荷馬車の部屋に籠りっきりだったので、今が昼なのか夜なのかも分からなかった。私はとにかく一度、鞄の扉の方から宿の中に出てみることにした。すると宿の部屋の窓から見える景色は明るくて、どうやら昼間のようだった。
久し振りの宿の中はなにか、ピリピリした雰囲気に包まれていた。部屋の中には誰もいなくて、部屋を出て廊下や階段を歩いてみると、どこがどうとは分かりにくいけれど、どこも静かで、張り詰めたような不思議な感じだった。
私はこのまま宿の中を歩き回らずに外に行ってみようと思って、もう一度鞄の扉から荷馬車の部屋に戻ると、荷馬車の荷台に繋がっている方の扉を開けて外に出た。そして、庭園に向かおうと荷台を降りると、すぐ近くでピートさんが何回も素早く鉄棒を振り下ろしていた。
宿の裏手のこんなに人気の無いところで、ピートさんが素振りの練習をしているのを今まで知らなかった。まったく音がしていないのが不思議で、しばらくそのまま見ていると、ピートさんが私に気がついた。
「お?エミリアか。ずいぶん久し振りだな。修行はうまくいったのか?」
「いいえ、全然だめでした。諦めたわけじゃないんですけど、ちょっと休憩です。気になって、夢中になっていたんですけど、ディアさんに教えてもらうまで、何にも気がついてもいなくて、とにかく、反省しています。」
「ははは、そうか。まあ、そうゆう時もあるよな。素直なのは良いとこだけど、あんま気にすんなよ。根を詰め過ぎんのも良くないからな。あ!そうだ。師匠が、壁にぶち当たった時が、もっと強くなれる時だって言ってたぞ。ま、ぼちぼち頑張れ。」
「はい。頑張ります。ピートさんは、ずっとここで訓練していたんですか。」
「ずっとじゃねえけど、いま宿の中があれだからな。エミリアは上の部屋に行くのか?一緒に行ってやろうか?それか、食堂でなんか食うか?」
「庭園に行くつもりだったんですけど、宿の中がアレってなんですか。」
「庭園か、ま、じゃあついて行ってやるよ。」
ピートさんは訓練道具を手早く片付けて、首にタオルを巻いてから庭園に向かって先に歩き出した。私が横に並ぶと、ピートさんは頭の汗を拭きながら、なぜか声をひそめて話し始めた。
「いまメイベルが受験ってやつで大変なんだ。うるさくすると、すっげえおっかねえんだよ。朝から図書館に行ったままの日もあるけど、今はずっと勉強部屋にいるから、足音とかには気をつけろよ?」
庭園のお花は色とりどりに咲き誇っていて、いつ来てみても素敵な庭園だと思った。手入れが行き届いているのが、元気な草花たちから伝わってくる。
「気を遣うかもしれんけど、あと少しの辛抱だから我慢してやれよ。あいつ殺気立って頑張ってるからな。」
花壇の花たちもみんな綺麗に咲いていて、ここに、幼精達がいないのが不思議なぐらいだと思った。あの可愛い子達がここでフワフワしていないのが、なんだか凄くさみしく思える。
「そうだ。エミリアが長いこと引きこもってる間に、いろんな事があったんだぞ。神殿の子供達と先生達が別の宿に移ったんだ。あ、でも騎士団の管理下にいるから安心なんだって。ノアが一人残らず親元に帰すって言ってたから、なにも心配いらねえぞ?あと、カレンさんが、……どうした?……なんで泣いてんだ?」
「……え?」
ピートさんが心配そうな顔をして私を見ていた。不思議に思って頬に触れると、私はたしかに一筋の涙を流していた。首を傾げながらピートさんを見ると、私の顔をまじまじと見ていたピートさんがホウッと安堵の息をはいた。
「なんだよ。あくびでもしてたんだろ。ビックリさせんなよ。泣いてるのかと思っただろうが。」
「……すみません。」
「……ったく。人の話を真面目に聞いてなかったな?……ちょっと、待てよ。……あった。これ、何に使ったのか忘れたけど、ポケットに入ってた、布?だけど、たぶん綺麗だから、これで涙を拭け。」
ピートさんは首から提げているタオルを見てから、いろんなポケットをゴソゴソして、ハンカチみたいな布を差し出してくれていた。私の涙はもう止まっていたけれど、ありがたくハンカチを受け取ろうとすると、私とピートさんの間にシュッと黒い何かが通り過ぎた。
「いってえ!なんだ!?あ、クロ!なにしやがる!」
驚いて見てみると、クロが花壇の低木の枝に留まっていて、足で掴んでいたピートさんのハンカチをポイッと地面に落としていた。ピートさんが文句を言いながらハンカチを拾いに行っている間に、両手で涙を拭って確認してみると、もう涙は流れていなかった。私は、ピートさんが言うようにあくびをしていた訳じゃないけれど、なぜ涙が出ていたのかは、分からなかった。
「あっ!待て、こいつ!さっき俺の手を蹴っただろう!なにすんだよ!痛かったぞ!」
枝に留まっていたクロはピートさんを無視して飛び立っていった。そうして、上空で急に旋回すると、もの凄い速さでビュンッと木の陰に入った。そして、すぐに出てきたクロは何か大きな物を両足で掴んでいて、屋根の上に飛んでいってしまった。
「うわっ!クロの捕食を見ちまった。あいつの獲物デカすぎだろ。最強かよ。」
「……ほしょく?食べちゃうんですか?クロが掴んでいたのは、ラキアさんじゃなかったですか?なにか叫んでいましたよね?」
「そうか?梟だったか?一瞬だったからな……。分かんねえけど、あいつ、エサと間違えたのかな。獲物が喋ってたんなら、齧ってる途中で気づくだろうから、大丈夫じゃねえか?……一瞬で仕留めてなければだけど。」
「私、屋根の上に行って見てきます。」
私はクロとラキアさんが心配になって、荷馬車に向かって走り出した。ピートさんの言うような恐ろしい事になっていなくても、間違って齧ってしまうだけでもいけないと思うので、近道をして、一番上の階の私とノアの宿の部屋の窓から、屋根の上に登ってみようと思う。
「おい!待てよ!屋根の上って!危ねえって!!」
大急ぎで荷台の中の部屋に戻ると、すぐに鞄の方の扉を開けて宿の私とノアの部屋に出た。慌ててベッドの近くの大きな窓を開けて外の壁を覗き込んでみると、どこにも登れそうな引っかかりがなかった。隣の窓を見ても同じような壁だった。
「クロ?クロいる?食べるの待って。食べちゃだめだよ。それはたぶんラキアさんじゃないかな?クロ~?」
窓から呼びかけて見てもクロは降りてこなかった。私は窓に腰掛けて、足をかけて窓に立ったら屋根の上を覗き込めるかやってみることにした。
「ちょちょちょ!ちょっと!!エミリア!?なになに!?なにするの?なにするつもり!?」
「あ、ディアさん、ちょっと屋根の上を覗けるか確かめてみます。屋根の上にクロがいるんですけど、間違えてラキアさんを食べちゃうかもしれなくて。」
「なに言ってんの?何言ってんの?だめよ。危ないでしょ。降りて!まずそこから降りて!」
「ディアさん、さっきクロがたぶんラキアさんを掴んでいってしまったんですよ。急がないと、間違えて食べてしまうかもしれないんです。」
「うん。ないわ。それは無いと思うわよ。あの賢い魔女のカラスが、間違える訳ないじゃん。たぶん、邪魔だからつれて行っただけよ。ど~しても屋根の上に行きたいなら、そこを登るんじゃなくて、ほら、あれ、魔女の道具で飛ぶやつがなんかあったでしょう?」
「魔女の道具?……箒のことですか?あの箒は乗るのが難しそうでしたけど、試してみます。」
「まっっ!!待て!待て!!く、く、雲!ノアが鞄に雲を入れてただろ!?」
ピートさんが一階から走ってきたようで、部屋の扉の前でグシャッと膝から倒れて、床に手をついていた。よほど急いできたのか珍しくゼーゼーと息を弾ませていた。
「そうでしたか?私の鞄の中にですか?」
小さいので存在を忘れていたけれど、そういえば私のベルトは鞄になっていた。ボタンを外して鞄の中を確かめてみると、なにか色々な物が入っていた。私が手をかき混ぜるようにして入れてみると、なにかふわふわした物が手に吸い付いてきた。その白い雲を掴んで鞄から出してみると、二人乗り用ぐらいの小さな雲だった。
「ほんとだ。雲が入ってました。ピートさんはよく憶えていましたね。」
「……エミリア。それは自分で把握しておけよ。はあ、屋根の上に行くなら俺も行く。」
すっかり息を整えたピートさんがため息をつきながら、床に浮かんだ雲に乗り込んでいた。私もピートさんの横に座って、ふわふわの白い雲に乗り込んだ。
「……これ、どうやって動くんだ?」
「そういえば、そうですね。屋根の上に上がれ~って思うんですかね?」
そう言った瞬間に雲がビタンッと天井にぶつかった。そして、私を庇って天井にぶつかったピートさんがポロッと雲から落ちてしまった。ピートさんは床に落ちるまでにクルッと回転して、ちゃんと両足で着地していた。
「あっぶねえ!痛てえだろうが!この不器用が!降りろ!降りてこい!」
「すみません。痛かった、ですよね。すみません。」
「い、痛かねえけど!これしき!なんでもねえけど!とりあえず、雲は無しだ!乗るならノアに習ってからにしろよ。」
「はい。……そうしたら、やっぱり、ここを登ってみます。」
私が窓の方を見ると、ピートさんがもの凄く嫌そうな顔をしてまたため息をついた。そして、私と窓を見比べると、眉間にシワを寄せていた。
「どうしても、屋根の上に行くのか?……どうしてもか?あれが梟だとしたら、もうクロの腹の中にいてもおかしくねえぞ?」
「お腹の中にいるのか気になるので、見に行ってきます。クロを呼んでも来てくれないみたいなので、ちょっと見てきます。」
「そんじゃあ、俺がつれて行ってやるから、とりあえずバルコニーまで下りるぞ。……ノアには言うなよ?ホントは、危ねえんだからな。」
バルコニーの屋根伝いからなら屋根の上に登れそうだと言うので、ピートさんが私を担いで屋根の上まで登っていってくれることになった。ピートさんはいつも何かと親切にしてくれるので、私は、とても有り難く思った。
ウキウキした気分で歩いて階段を下りていきながら、私は何度もピートさんにお礼を言った。ピートさんは一度も振り返ってくれなかったけれど、私と同じように、嬉しい気持ちでいてくれているような気がしていた。