プロローグ
起きてすぐに、両親の部屋を見に行く。
ごはんを食べて、それから眠るまでの間は、本を読んで過ごす。
眠る前にまた両親の部屋を見に行ってから、目が覚めて起きるまで眠る。
そして、ずっと同じ事を繰り返す。何回も、繰り返し、繰り返す。
いつもと変わらず、階段を1階まで降りて、ごはんを食べに向かう。
1階には外にでる扉がある。なぜかいつも、その大きな扉を見つめてしまう。
けれど、決して外には出ない。目をそらして、また繰り返す。
その時がいつもと違ったのは、偶然の出来事だった。
外にでる扉の方から、ふと良い香りがして、ふらふらと誘われるように扉に近づいて行って、思わず手をのばして扉に触れてしまった。
気づくと外に出てしまっていた。罪悪感で、少し後悔する。
それよりも眩しくて、どこもかしこもが輝いて見える。鮮烈な草や木や土の香り。
どれくらいぶりだろう、外の世界は。久しぶりにドキドキと胸が高鳴る。
でも帰らなければ。家にはいって、また繰り返さなければならない。
そう思って戻ろうとした時に、また、さっきの良い香りがした。
思わず振り返って辺りを見渡すと、少し離れた場所に小さな女の子が見えた。
下を向いてなにかを探しながら、少しずつこちらに近づいて来ている。
ふわふわとした綿毛のような髪が、歩くたびにゆらゆらと揺れるのが面白くて、思わず見入ってしまう。見つかる前に隠れなかったのは、その良い香りが女の子から漂ってくるのに気がついたから。ほんのりと光っているようにも見える。淡くやわらかなその光彩がとても綺麗で、とても、とても美しい。
ぼんやりと見とれているうちに、女の子がもう目の前まで来ていた。
ようやく僕に気がついた。小さな女の子が顔を上げて、僕と目が合うと、眩しいような笑顔でにっこりと微笑んだ。
そのまましばらく見つめ合っていると、なぜか顔が熱くなってきた。訳が分からなくて、手で顔をあちこち触っていたら、女の子が突然話しだした。
「……あたち、な、まえ、……エミリア。」
エミリア、エミリア。名前。エミリア。女の子の名前は、エミリア。
名前を教えてくれた。僕の、僕の名前も知ってほしい。長いあいだ誰とも話さなかったから、とっさに声がでてこない。ずっと誰にも呼ばれなかった。僕の、自分の名前。
喉がヒリついて、鼓動が早くて、胸が苦しい。はやく声をだして、話したい。口を開いたまま、焦って一歩近づいたその時、どこか遠くの方で長く伸びるような、高い音が聞こえた。耳を澄まさないと聞き取れない微かな音だけれど、何回も繰り返し聞こえる。
その音に気づいたのか、エミリアは辺りを見渡してから、急に焦った様子で、もと来た道を引き返すように走って行ってしまった。とっさの事で、引き留める事もできなかった。
僕はいつまでも、もう姿が見えなくなっても、いつまでもその場所に佇んでいた。また会いたい。ここにいたら、また会えるだろうか。もしまた会えたらその時には、名前を、僕の名前を知ってほしい。
はじめて投稿します。楽しんでもらえたら、嬉しいです。