15 反省文を書かないとね
原初の魔女ドロシーが殺された。
いまから約四年前のことだ。犯人はユダと名乗る魔法使いだった。
オズ魔法協会イギリス本部に属する一部の人間だけがその事実を把握し、ユダを重要指名手配犯として捜索中。
異端審問官の一人である廻は、被害者であるドロシー本人の命令を受け、協力者の新羅卑弥呼とともに日本に派遣されることになった。
ユダが日本のオズ魔法学園に身を隠している、という情報が協会に入ったからだ。
「……阿夜家の繁栄こそが、私のすべてだったのです」
魔法の鎖に拘束された幹枝が、ぽつりと震える声をこぼす。
そんな彼女を静かに見つめ、廻は自分の杖を下ろした。
「私がオズの中等部にいた頃のことです。魔法の特別講師として、阿夜家の五代目当主が学園を訪れたことがありました」
阿夜家の五代目当主。撫子の祖母である阿夜椿のことだろう。
廻が調べたところによれば、十年程前に彼女は亡くなっているはずだ。
「あの方の魔法を初めて見たとき……私は感動しました。この世にこれほど美しい魔法を操る人間がいるのかと。これが御三家、日本三大魔女の血を引く阿夜家当主の力なのだと」
「……」
「その数年後、中等部に上がってきた菫さまの魔法を見たときにも同じ感動を覚えました。菫さまは後輩でしたが、そんなことはどうでもよくなるほど彼女の魔法は素晴らしかった。私が植物魔法を専門にするようになったのもそれがきっかけです」
乾いた笑みを浮かべる幹枝が、ふと廻の背後に視線を移す。
そこにいたのは撫子だった。
地面に座りうなだれていた先程までの彼女の姿はどこにもなく、ただ真っ直ぐに幹枝を見つめるその様子は、いつもどおりの毅然としたものだった。
「撫子さん。あなたの魔法も同じです」
気高くて美しい、と幹枝は微笑む。
「八年前……あなたの家庭教師をしてほしいと菫さまに頼まれたときは本当に嬉しかった。私の名が阿夜家に届いていたことも、阿夜家の未来を背負う才女の成長を見守る権利を与えられたことも。私には過ぎた幸福だと思いました」
「幹枝さん……」
「……けれど、撫子さんの教育係として阿夜家に仕え、内情を知ってしまったからこそ私には不満が生まれた。魔法使いの家系としての阿夜家の立場が弱いことについてです」
銀色の鎖に巻かれたまま幹枝は言う。
悔しさを滲ませた口調で語られる彼女の思いに、廻たちは黙って耳を傾けた。
「魔法が世界に普及して以降、この国の政治を影で支えてきたのが阿夜家です」
魔法省の設立に尽力したのが阿夜家の初代当主であることもご存知でしょう、と幹枝は続ける。
「ですが今の時代、阿夜家でなくとも優秀な魔法使いはたくさんいる。国が阿夜家を頼ることは少なくなりました。御三家とは名ばかりとなり、魔法に携わらない人間にはその存在すら知られていない……」
御三家──かつて日本の魔法使いの地位を確立した魔女たちの子孫。
その一つである箭田家は、オズ魔法学園日本校の運営を。
もう一つの櫛名家は、オズ魔法協会日本支部の中枢を担う家系だ。
両者と比べれば、たしかに阿夜家の知名度は低いと言えるのかもしれないが。
「公英さんが魔法省の大臣になったことで阿夜家が再び権力を得たと考える者もいるでしょう。しかしそうではないのです。阿夜家を、御三家を導くのはあくまで女性……魔女でなければいけない。男に務まるものではありません」
「そんな考え方はもう古いわ。叔父さんも……父も、阿夜家のために十分がんばっていると思います」
「……ええ。それでも私は認められなかった。旦那さまは所詮はよそ者。公英さんは政治家として優秀ですが、私たちほど阿夜家の将来を案じてはいない」
撫子の睫毛がぴくりと揺れる。そんなことはないと言いたいのだろう。
「菫さまが亡くなり、残された撫子さんはプロの資格を持たない学生。正式に家を継ぐまでには時間がかかる。このままでは本当に阿夜家の名が廃れてしまうと私はあせりました。……その心の隙をつかれたのでしょうね」
あの“蛇”と名乗る魔法使いに、と幹枝が目を伏せる。
だから今度は廻は反応する番だった。
「阿夜さんに魅了魔法を使わせて、権力者たちを味方につければいい。そう“蛇”に唆されたんですね」
無謀な話だ。現実的な提案ではないと、本来の彼女であれば判断できたのかもしれないが。
廻は知っている。“蛇”が言葉巧みに対象の心を操り、冷静な思考を奪う術を会得していることを。
高度な催眠魔法を使用している可能性も高い。つまり幹枝は利用されたのだ。
「そのためにはまず撫子さんの心を折る必要があると言われました。偽物のアザの力は精神の綻びに作用する。一度魔法を暴走させてしまえば、撫子さんも諦めて異端者となる道を選ぶだろうと……」
撫子が学園での居場所を失うような噂を流し、政界の男たちが彼女に下心を抱くよう誘導した。
そうすることで撫子の退路を断つことが目的だったのだと幹枝は語る。
「安心してください。公英さんには私は何も言っていません。噂は届いていたかもしれませんが……あの方の優しさは本物です。撫子さんをそういう目で見ていたわけではないと思います」
「……そうですか」
「あなたを……阿夜家を裏切るような真似をしてしまい申し訳ありませんでした。もちろん謝ってすむ話でないことは重々承知しています。……私は連れて行かれるのでしょう?」
力なく笑った幹枝が、廻の顔を見上げて問う。
幹枝も言っていたとおり、実際に彼女がしたのは撫子の悪評を学園や政界に広めることだけだ。本人が戒律を破ったわけではなく、撫子を異端者に仕立て上げる計画も廻によって阻止された。
だが、彼女がオズ魔法協会が敵と定める“蛇”とつながっていたことは事実だ。
事情聴取はもちろん、プロの魔法使いとして何かしらのペナルティを受ける可能性は高いだろう。
「幹枝さん」
廻の隣に並んだ撫子が、迷いのない真っ直ぐな視線を幹枝に向ける。
「父と母を侮辱したことは許せません。あなたの処遇がどうなるのかもわからない。……けれど、あなたの教えはたしかにわかりやすかった」
だから感謝しています、と。
本心であることがわかる口調で撫子が言うのに、幹枝は目を見開いた。
直後、彼女の顔がくしゃりと歪み、みるみるうちにその目に涙が溜まっていく。
「……協会に転送します。あとのことは“蛇”捜索の担当者が対応してくれるはずです」
一度下ろした長杖を再び掲げ、うつむいてしまった幹枝を見つめて廻は言った。
握る杖に魔力を込める。
その先端に松明の火のような光が灯り、緩やかな風が辺りを舞う。
木の魔法によってひび割れた地面に、淡い青色の光を放つ巨大な魔法陣が出現した。
「撫子さん」
その中心で鎖に繋がれたまま座り込む幹枝が、憑き物が取れたような表情を撫子に向けた。
「あなたの魔法は美しい。──どうかそれだけは忘れないで」
幹枝を囲む魔法陣の輝きが増す。廻が発動した魔法による対象の転送が始まったのだ。
「私が言えた義理ではありませんが……阿夜家をよろしくお願いします」
すべてを覆い隠すような眩しい光が周囲を照らす。
幹枝の姿が見えなくなるまでに、そう時間はかからなかった。
「──小津佐くん。あなた遅咲きじゃなかったのね」
幹枝の転送を完遂した廻が、役目を終えた杖を収納魔法で亜空間に仕舞ったとき、撫子が口を開いた。
自分の隣に立つ彼女に向き直り、苦笑いを浮かべて廻は答える。
「うん。隠してたわけじゃないんだけど……」
「魔力の発覚はいつ?」
「……えっと、生まれたとき、かな……」
「私と同じ。……そうよね。あれほどの実力で魔法を覚えたのはつい最近ですなんて無理があるもの」
留学生のルクスのような特殊な事情でもないかぎり、高等部からオズに入った生徒を周囲の人間が遅咲きと認定するのはなにもおかしなことではない。
廻はそれをあえて訂正しなかったのだ。
本当のことを話せば、生まれつき魔力を持つ者がなぜこれまでオズにいなかったのかという話になるだろう。その流れで廻が異端審問官であることが発覚しないともかぎらない。
だからこそ黙っていた。今回の件で撫子には知られてしまったが、状況的には致し方ないことだったと廻は思う。
「あの、阿夜さん。このことは……」
「わかってる。だれにも言わないわ」
潜入捜査なんでしょう、と冷静な態度で撫子が言うのに廻は胸を撫で下ろした。
他人の事情を軽々しく吹聴するような少女でないことはわかっていたが、あらためて明言されるとやはり安堵の気持ちは生まれる。
同時に罪悪感も抱いたが。
どのようなかたちであれ、自分の任務に彼女を巻き込んでしまったことに変わりはないのだ。
「協会の依頼を受けているということは……あなたはすでにプロの資格を持っているのね」
「そ、そうなるね」
「異端審問官……ドロシーのしもべと呼ばれる最強の魔法使いたち。さっきのあなたの魔法を見たら納得としか言いようがないわ」
真顔のまま、抑揚のない口調で撫子は言う。
感情は読み取れないが、どうやら褒めてくれているらしい。
「この辺りに結界を張ったのも小津佐くんでしょう。あれだけの騒ぎに人が集まってこないのはおかしいと思っていたけれど、あなたが魔法で隠してくれていたのね」
「人に見られたらいろいろと大変だからね……」
「幹枝さんの魔法に対応しながら、オズの教師たちすら欺く精度の結界を維持していたなんて。並大抵のことじゃない。──あなたにはオズで学ぶことなんてなにもないんじゃないかしら」
仕事だから仕方がないのかもしれないけど、と目を伏せる撫子に廻ははっとした。
慌てて首を横に振り、ちがう、と全力で否定する。
「僕がこの学園にきたのはたしかに任務のためだけど、その、それだけじゃなくて……!」
「しってる」
あたふたと手を動かす廻に背中を向け、微かな笑いを含んだ声を撫子が発する。
廻の前でさらりとなびく長い黒髪。
彼女が足を向けたのは、自分たちの教室がある高等部の校舎の方だった。
「小津佐くんも、学校が好きなんでしょう」
なら早く戻らなくちゃ、と。
紺色のローブの裾をふわりと揺らして振り向いた撫子が、ほんのわずかに口角を上げて廻を見た。
「五限にはもう間に合わないけど、まだ六限の授業が残ってる。借りた本を返さなくちゃいけないし。それに──反省文を書かないとね」
真っ直ぐに向けられた黒い瞳がきらりと光る。
廻ははっと目を見開き、阿夜さん、と小さな声でその名を呼んだ。
「あなたもよ小津佐くん。授業を抜け出してきたんだから」
「え」
「校則違反は許さないんでしょう? 風紀委員として」
廻の知る撫子にしては珍しい、悪戯っぽい口調だった。
──けれど彼女は少しだけ間違っている、と廻は思う。
校則その一。正当な理由のない欠席、遅刻、早退の禁止。
当然その中には一部の授業を抜け出す行為も含まれているだろう。
だが、今回の廻には正当な理由があった。
「小津佐くん」
そんな廻の思いが伝わったのだろうか。
校舎に向かってすたすたと歩き始めた撫子が再び立ちどまり、その顔を廻に向ける。
「──ありがとう」
そう言って少女は笑った。花が綻ぶような淡い笑みだった。
彼女自身の魔法みたいだ、と廻は思った。