エル
「もったいねーよ……。なあ」
カイは事あるごとに、口にした。
「芸能界、挑戦してみろよ。愛美ならてっぺん取れるって。俺が保証するよ」
カイがあたしのことを『エル』と呼んでくれなくなったのがなんだか寂しかった。
ずっとカイが芸能界のことを言うたびに笑って誤魔化してたけど、あまりにしつこいのでちゃんと説明することにした。
まだ日曜日の夜だった。日曜のお昼前にスカウトされ、同じ日の夜までにカイは何べん同じことを口にしたのだろう。
晩ごはんにチキンラーメン・グラタンを二人で食べたあと、膝に乗せたダイチの背中を撫でながら、あたしは話しはじめた。
「あたしなんか無理だよ。こんなブスなのに……」
「だーかーら! 愛美はブスなんかじゃねーって! 特に最近、輝きを増してるぞ?」
「……ありがと。でもね、なんていうかね、怖いし……」
「飛び込んでみるんだよ! ダメで元々じゃん」
「何よりね……」
あたしはそれを口にすることにした。
「あたし、カイと一緒にいられれば幸せなの。これ以上の幸せは望まないよ」
カイの口が止まった。
元々おおきな目をさらに見開いてあたしを見つめた。
あたしは続ける。
「そんな世界に入って……、もしカイとあんまり会えなくなったら……やだ。家出少女だってバレて、連れ戻されるかもしれないし……」
「そうか……」
カイが俯き、黙り込んだ。
納得してもらったと思って、あたしは笑った。そして、約束した。
「明日から、学校に行く! カイがそうしたほうがいいって言ったから。それでいいでしょ?」
「そうか……。うん」
顔をあげて、優しく笑うカイが言った。
「それがいいよ。高校は卒業しといたほうがいい。芸能界に行かないんなら」
あたしはカイの言葉を待った。
でも、言ってはくれなかった。
『もしいじめられて、学校がやっぱり嫌だったら、俺のところに戻って来い』って、言ってほしかった。
久しぶりの学校だった。
鞄も制服もぜんぶカイの部屋にあるから、何も問題はなかった。
先生がうちの親から聞いてて、家出してるあたしに帰るように言ってきても、その場で『はい』と言えばいいと思っていた。
でも先生は何も言ってはこなかった。
あたしがいなくなって両親とも喜んでたりするのだろうか。両親はふつうの顔なのに、誰に似たんだがさっぱり不明な、突然変異みたいな娘は、いなくなったほうがいいと思ってるのだろうか。
よくわからないけど、あたしに都合がいいのは確かだった。
クラスのみんなの目が冷たかった。
明らかにあたしのことを意識してる。でも話しかけてきたりはしなくて、それぞれのグループで楽しそうにお喋りをしながら、席に大人しく着いているあたしのほうをたまに横目でチラチラと見ていた。
放課後、机の横にかけた鞄を蹴り上げられた。
「おい、エキゾ!」
不良の森山くんが、ニヤニヤしながらあたしの顔を覗き込んだ。
「おまえ、何してたんだ? 半月以上も学校休みやがって。説教してやるから、ちょっと来い」
あたしは音楽室に連れ込まれた。
扉が閉められ、鍵がかけられた。
男子が6人、あたしを取り囲んでニヤニヤ笑う。
「なー、エキゾ。なんで学校休んでた? 言ってみろよ」
森山くんがやたら近い距離で、口から唾を飛ばしながら詰め寄ってきた。
「まーさーか、俺たちにいじめられてるとか、思ってねーよなあ?」
何も言葉が出てこなかった。
ただ、助けてほしかった。
カイに、ここに来てほしかった。
「コイツ、やっちゃおーぜ……」
誰かが言い出した。
「俺、経験ねーからよ。コイツでいいわ。みんなで輪姦しちまおーぜ」
男子たちの口から狼みたいなハアハアという荒い息が聞こえてきた。
「ブスだけど、カラダはよさそうだからな……、コイツ」
森山くんが、言った。
「よし、抑えつけろ」
机の上に背中を押しつけられた。
6人の男の力に、なす術なんてなかった。
悲鳴をあげたけど、音楽室の防音壁がそれを外へは漏らしてくれなかった。
『カイ!』
声にならない叫び声をあげながら、あたしは頭の中でその名前を呼んだ。
『カイ! カイ! 助けて!』
「へへへ! 初体験が人外になるとは思わなかったけど、それもいいや」
「脱がせろ! ひっぺがせ!」
「エキゾも嬉しいだろ? 一生処女確定だったとこ、いい経験できて、よ?」
処女だとか関係ない。
生憎あたしはもうとっくに処女じゃないけど、そんなことは関係ない。
カイのためのあたしに、汚らしいおまえらが触れるな!
遂にあたしは、叫んだ。
「カイ! 助けて!」
鍵がかかってるはずの扉が、バン!と開いた。
「ちょっとあんたたち!」
外から入ってきたのは、女子の声だった。
「それはないわ! いい加減にしなさいよ!」
見るとひっつめ髪に黒ぶちメガネの女の子の怒り顔が戸口のところにあった。学級委員長の伊地知さんだった。手には職員室から借りてきたらしき鍵束を握っていた。
うへへ、と笑い声を漏らす男子たちの間を、あたしは走って音楽室を出た。
「榊原さん!」
あたしの名前を叫びながら、委員長が追いかけてきた。
まだガクガク震えている手で靴を履いて校舎を出ていこうとしているあたしに追いつくと、伊地知さんが肩に手を触れてきた。
「榊原さん……。大丈夫?」
「う……、うん。大丈夫」
ぐしょぐしょに濡れた声で、笑って答えた。
「あ……、ありがとう。助けてくれて」
「私……、先生に言ってるんだよ? 榊原さんがいじめに遭ってますって」
伊地知委員長は静かな憤りを声に込めて、教えてくれた。
「……でも、とりあってくれないの。そんなものはあるはずがないって、言い張って……。私、どうしてあげたらいいか……」
「大丈夫、大丈夫」
無理やり笑ってみせた。
「ありがとう。もう、大丈夫だから」
学校帰り、あたしは決めていた。もう学校には行かない。
カイは言っていた。
『学校は卒業しといたほうがいい。他にやりたいことがあるとかじゃなかったら』──と。
学校に行くだけが人生じゃない。
あたしはスマホを持ってなかった。
街角に公衆電話ボックスを見つけると、中に入り、受話器を持った。
名刺はスカートのポケットに入っていた。
電話をかけると、女のひとの声がむこうに出た。
「お電話ありがとうございます。芸能プロダクション、ミューズでございます」
「あ……あのっ……」
しどろもどろに、あたしは言った。
「この間、社長さん……西中さんにその……」
「あっ。伺っておりますよ」
話がめっちゃ早かった。女のひとは、にこやかな声で、あたしの名前を言い当てた。
「榊原愛美さんですよね? 社長から、連絡があったら通すように申しつかっております」