幸せな場所
女の子になって、初めてカイに抱かれた。
折り畳みベッドを優しく軋ませて、カイの体温を全身に感じた。
はじめは猫のように、くすぐった気持ちいいのが可笑しくて、あたしは笑い出してしまった。
でもやがて人間になって、女の子になって、薄闇に浮かびはじめた。黒いエキゾチックショートヘア猫ではなくて、白いあたしの体が、液体のように夜を巡ってるのがわかった。
あたしが苦しそうな顔をすると、気遣うようにカイが覗き込んできた。あたしが笑うと笑って、頭を撫でてくれた。
男のひとどころか、誰に抱かれるのもあたしは初めてだと思った。
感動なんて言葉では表せない気持ちが、心の奥から溢れ出して、あたしはあったかい涙が止まらなくなった。
ダイチはキャットタワーの上で、うるさそうに何度か顔を起こして、でも眠ってた。
「おまえ……学校行けよ」
あたしの髪を撫でながらカイが言う。
「行きたくない」
目をそむけてあたしは答えた。
カイと二人で、ずっとここにいたい。
「前から言おう、言おうとは思ってたんだけどな」
カイの声が優しくあたしを叱る。
「高校は卒業しといたほうがいいぞ? 他にやりたいことがあるとかじゃなかったらだけどな」
カイは知らない。
あたしが学校でどんな目に遭ってたか。軽く話したことはあったけど、実際にそれを見てはいない。
あたしにも前から聞こう、聞こうと思ってたことがあった。
ちょうどいいのでこの機会に聞いてみた。
「カイって、ブス専なの?」
「だからそんなこと言うなって。愛美はブスなんかじゃねーよ」
「だってあたし、この顔のせいで学校でいじめられてるんだよ? 親からも愛されてないし」
「おまえの顔は確かに個性的だ」
ズバリ言われた。
「でも、本当にかわいいって思ってるんだぞ? 大きな目は愛らしいし、猫みてーな口もたまんねーし、その間にあるちっちゃい鼻が……もう……」
そう言ってあたしの鼻にキスをした。
「ホストクラブでさんざん美人さんを見てるんでしょ?」
嬉しさを必死に顔に表さないようにしながら、下がってる口角をさらに下げてぶすくれて見せた。
「だからブスのほうがかえって目に新鮮なんじゃない?」
「愛美はかわいい」
呪文をかけるように、カイが言った。
「かわいい、かわいい。ほら、笑え」
表に出さないように抑えてた嬉しさが、呪文にかけられて全部表に飛び出して、あたしは今、自分がどんな顔をしてるのか自分でもわからなかった。
「それだ。その顔だよ」
うっとりするようにカイがあたしの顔を見つめる。
「笑った顔がいいよ。輝いてる。堂々としてればいいんだ。自分に自信をもってれば、学校のみんなも絶対、見方を変えてくれるぞ?」
決心はつかなかった。
でも、だんだんとカイの言う通りのように思えてきた。
『学校……、行こうかな』
口には出せなかったけど、そう思いはじめた。
あたしが外を歩く時にマスクをしないのは、男のひとに要らない期待をさせないためだ。
とにかく目はおおきいので、マスクをしているとかわいく見えてしまうらしい。
以前はマスクで顔を隠していた。そうしていたら、「マスク取って顔見せてもらっていいですか?」なんて知らない男のひとに期待マンマンの笑顔で声をかけられたことがある。
拒否ったけど、あの時もし、マスクを外して見せてたら、どんな顔をされてただろう。
物凄いガッカリした顔をされていたか。
それとも化け物でも見たように逃げ出されていたか……。
日曜日だ。街は寒くなってきたけど、太陽はポカポカだ。
あたしはぶさいくな顔を晒して表通りを歩く。カイのために編んでるマフラーの毛糸を買い足すために。
今日はカイは友達と約束があると言って出かけていった。ほんとうは一緒に街を歩きたかったけど、しょうがないよね。物わかりのいいとこも見せとかなくちゃ。
今までは猫少女と飼い主の関係だったのが、あの夜、ベッドの上で進展した。
ほんとうは恋人同士になって初めての街を歩きたかった。
イケメンと並んであるく世界一ブスな少女を見て、みんなはどんな顔をしたのかな。
どんな顔をされてもいいと思えた。
カイさえあたしをかわいいと言ってくれれば、他のことはどうでもいいと思えた。
自然にあかるい顔になっていた。
「君……! ちょっといい?」
おじさんに声をかけられた。
面倒くさそうなので早足でやり過ごそうとすると、後ろから追いかけてきて、こんなことをおじさんは言い出した。
「あっ、すみません。私、ミューズ芸能事務所の社長をやっております、西中と申します。君、芸能界に興味はない?」
な……、なんの話なんだ、これ?
あたしが思わず振り向くと、社長さんと名乗るおじさんはにっこり笑い、あたしの顔を直視しながら、自信たっぷりにこう言った。
「君の顔、すごくいいよ! 個性的で、一度見たら忘れられない顔だ! ミューズ芸能事務所って、知ってるよね? 大きな芸能事務所を維持してる私だからわかります。君はきっと日本どころか世界にも通用する大物になれる! モデルか、女優か……そのへんで!」
ぽかんとするしか出来ないあたしに、社長さんは名刺を取り出し、渡してきた。
「興味があれば連絡して! ネットで調べれば私が本物だということもわかるはずです。じゃ、待ってますよ!」
なんだ……。堂々としてればよかったんだ。
おじさんの後ろ姿を呆然と見送りながら、あたしは思ってた。
自分は自分なんだから、自分を認めて、あかるい顔をいつもしてればよかったんだ。
そうしてれば、こんな嘘みたいな話が舞い込んでくることもある。
スカウトされたらしいことを、アパートに帰って報告すると、カイの顔にとんでもない笑顔が花開いた。
「まじかー! いやでも、俺の目は確かだったろ? いやー、すげーよ! わかるけど、そりゃそうだってうなずけるけど、でもすげーよ! 天下の一流芸能事務所の社長に声かけられたって……すげー! すげー!」
あたしが貰った名刺とパソコンを交互に見ながら、カイが検索すると、画面にあのおじさんの顔が現れた。本物だ。
「もちろん行くんだろ? 芸能界!」
我がことのようにはしゃぐカイに、あたしははっきりと答えた。
「ううん。行かない」
驚愕の表情に変わったカイを見ながら、あたしはふふっと笑って見せ、口には出さずに言ってあげた。
『だって、あたしが一番幸せな場所はそこじゃなくて、ここにあるから』