猫になるべきか、女の子でいるべきか、それが問題だ
おまわりさんに見つからないように、裏通りを歩いて近所のスーパーマーケットへ向かった。
チキンラーメンと、ひげそりと、インスタントのコンポタ買ってこなくちゃ。
あとあたしの好きなや必要なものも買っていいって言ってたけど、カイのものだけでいい。
あ……。リップクリームだけ買おうかな。
頭の中でそう呟きながら歩いてると、あの公園に差しかかった。
ふと見ると、ベンチの上でこげ茶色のオス猫さんが日向ぼっこしてる。ダイチだ。
猫の目からは意地悪そうに見えたけど、人間になって見ると、やはり猫だ。かわいく見えた。
あたしは公園に入っていった。
ダイチはあたしが来たのを見ると、ヤァーと言った。
「ふふ……。あたしが誰だかわかるかな?」
意地悪な笑顔を浮かべてあたしが近づくと、彼の口が言った。
「えるー……」
「わかるの!?」
まさかそんなわけない。偶然だ。偶然、ダイチの鳴き声が『エル』に聞こえたんだ。だってあの時あたしは猫だったのに。姿が全然違ってるのに……。
そう思ってると、すぐ側で男のひとの優しい声がした。
「ダイチはわかってるよ。君がエルだって」
びっくりして振り向くと、いつの間にかそこに、スラリと背の高い、白い髪の毛のひとが立っていた。
短い髪が風にそよいで、たんぽぽの綿毛みたいだ。とても綺麗な顔をしてて、真っ白な毛皮のマント姿で、あたしは思わず妖精でも現れたのかと思った。
わけがわからず、あたしが何も言えずにオロオロしてると、そのひとはにっこりと微笑んだ。
「僕が誰だかわからないよね? ごめんね、一方的に君のことを知っちゃってるんだ。僕の名前はソラ。君と正反対の、人間になれる猫だ」
「猫なの?」
「うん。そして魔法使いだよ。じつは、君を猫になれるようにしたのは、この僕なんだ」
「そうなんだ……」
「うん」
「なんで?」
「君があまりにも人間やめたがってたから」
そうだった。
人間やめたがってたっていうより、あたしは死にたかったんだ。カイに出会ってからはそんなこと忘れてた。
学校でいじめられて、両親からは愛されなくて、この先いいことなんてあるわけないって思って、死にたくなってたある朝、目覚めてみると猫になってた。
このひとが……あたしに魔法をかけてたの?
「やうー、なうー」
ダイチがあたしの足元にすり寄って、なんか熱烈に鳴いてる。
「彼、君がエルだって知ってて、仲良くしたがってるよ」
ソラと名乗るひとが教えてくれた。
「君の姿に一目惚れしたんだってさ」
「い……、今はあの時と、姿が違うよ?」
あたしは少し身を屈め、ダイチに言った。
「猫だったらブサかわいいだろうけど、人間のあたしはほら……こんなに、ただブスなだけだよ」
「君は美しいよ」
横からソラさんが言った。
「少なくとも僕の目からはそう見える。もっと自分の美を認めるべきだよ、君は」
あたしは口を半開きにしたまま固まった。『かわいい』ならカイにいつも言われてるけど、『美しい』と言われたのは産まれて初めてだった。
「……でも、猫の時のほうがもっと美しいかな」
ソラさんはゆっくりと近づいて来ると、あたしの目の前で足を止めた。
「今はお試し期間なんだ。どっちかに決めてほしい」
そう言って、綺麗な碧色の目で見下ろして来る。
「お……、お試し……?」
「うん。今は君が『人間やめたい』って思ったら猫になれる。君が『ずっと猫でいたい』って思ったら人間に戻るようになってる。でもどっちかひとつに決めてもらわないといけないんだ。僕の魔力をずっとかけ続けてないといけないからね」
「そうだったのか……」
彼の話を聞きながら、呟いた。
「ずっと猫でいいかなって思ったから……戻っちゃったのか……」
なんか意地悪いなって思った。
「猫にしなよ。ね?」
綺麗な声で囁くように、ソラさんが言う。
「僕らの仲間になりなよ。ダイチもそうしろって言ってるよ? 彼は君のことが大好きだ。君が猫になったら、是非お嫁さんにしたいってさ」
「決めなきゃ……いけないの?」
「うん。出来れば今すぐ、ね」
なんか急ぐようだ。
ソラさんがどうしてあたしを猫にしてくれたかはわからなかったけど、どうも彼の魔力に負担をかけてしまってるようだ。あたしを『猫になれる女の子』にし続けてるのは辛いんだろうか。
「人間やめたいって思ってごらんよ。ほら猫になってダイチとお話してごらん。きっと猫でい続けたいって思うはずさ。僕が魔法を解けば、そう思ってもずっと猫でい続けられるよ」
ダイチが足元からあたしを熱烈に見つめてる。
こんなに好いてくれる男の子なんて、いなかった。
カイもきっと、あたしが猫になれなくなったら、あたしから離れていく……。
「僕のお嫁さんにもしてあげるよ」
ソラさんがなんか言い出した。
「猫は一匹のメスが一匹のオスに縛られなきゃいけないなんてルールはないからね」
あたしは、揺れた。
「なー」
ダイチがあたしの足にすり寄る。
「一生、愛してあげるよ」
綺麗な顔と声で、ソラさんが囁く。
カイの顔が、頭に浮かんだ。
猫のあたしにメロメロで、あたしを愛してくれていた。
決めた。
あたしはソラさんに向き直ると、力を込めた声で、言った。
「あたし……、人間がいいです!」
びっくりした顔をしてるソラさんの綺麗な顔を見つめながら、あたしは思った。
猫になったら、幸せな場所は間違いなくどこにでもある。人間だったら、きっと苦しいままだ。それでも人間でいたかった。
知らなかった。人を好きになるって、こんなに苦しくて、でもとんでもなく楽しくて……
あたしは人間として、カイに愛されたかったのだ。
カイだけがあたしの幸せな場所。それで構わない。
あたしを猫じゃなく、一人の人間、一人の女の子としてカイに見てもらうんじゃなければ、意味がないんだと思った。