ただの猫じゃいられない
カイはあたしがまた猫になって、嬉しそうだった。
人間だった時と違って、やたらあたしの体に触れてくる。
こんな笑顔、人間の時には見なかった。
目尻が垂れすぎて、今にも顔の輪郭から取れて落ちそう。
「エル〜……。おまえは本当にかわいいでちねー」
口調もなんだか赤ちゃん言葉だ。
「そのブサかわいいお顔、もっと見せてくだちゃいねー」
『カイはやっぱり、あたしは猫だって……思ってるの?』
抱っこされながら、まっすぐ彼の顔を見つめて言ったけど、あたしの口は「にゃ、にゃにゃ、にゃっらる、わあうー、おにょにょ、あにょにょ」としか動かない。
悲しいけど、腋の下に感じるカイの手があったたかった。悲しいけど嬉しくて、ずっとこうされてたい気持ちになりかけた。
だめだよ!
あたし、猫じゃないんだから!
なんとかして人間に戻って、カイのために何か役に立ちたいんだから。
なんとかして、人間に戻ってもこんなふうに、カイから触れられるような関係を築きたい。
でも戻る方法がわからない。
「お外で遊んできたんでちねー?」
あたしが買い物してこれなかったことには何も言わず、カイはただひたすらに嬉しそう。
「汚れちゃってまちよー? 一緒にお風呂、入ろっかー?」
さすがにあたしが女の子だって知ってるから、下には海パンを穿いていた。
でもやっぱり遠慮なく体を触ってくる。
あたしが女の子の姿だったらこんな触り方しないのに。
『人間の時も、こんなふうに触ってよ』
お風呂に響く声で、あたしは言った。
『いいよ? あたし、嫌がったりしないと思う』
「エルはシャンプーを嫌がらないいい子でちねー」
チキンラーメンがないので晩ごはんは味噌汁ごはんと冷凍食品のからあげをカイは食べた。あたしには猫缶だ。
味のないツナ缶をあたしは抵抗なく食べられる。っていうか、美味しい。
こんなの人間だったら『食べてられるか!』ってなってもおかしくないのに。
「ごめんな。今日もバイトだ」
すまなそうな声でカイが言う。
「遅くなっちまう。ひとりで遊んでてくれるか? ゲームは猫の手じゃ出来ないけど、キャットタワーで」
『ゲームやりたいな……。猫の手でもコントローラーの操作、出来ないのかな』
そう言って、思いついた。
『そうだ! 筆談だったらカイとお話できるかも?』
あたしは食べかけの猫缶を置いて、たっと駆けた。
ピザ屋さんのチラシを口にくわえて持ってきて、目で訴えると、カイはわかってくれた。
「あ……! もしかしてこれで会話できるのか?」
そう言うと立ち上がり、マジックペンを引き出しから持ってきてくれた。
文字なら書ける。
これで猫の姿でもカイと会話できる。
そう思って両手でペンを持ったけど、思うように動かすことができなかった。
ミミズが這った跡みたいなものしか書けなくて、歯痒くなった。猫の手は縦にクイクイと動かすことはとても得意だけど、文字を書くのには向いてない。
「あうー……」
あたしが悲しい声を出して見上げると、カイは安心させるように笑ってくれ、頭を撫でてくれた。
「いいよ、いいよ。エルは言葉なんて喋らなくて。かわいければ、それでいい」
カイがアルバイトに出て行ってから、パソコンだったら文字が書けるんじゃないかと試みた。
だめだった。猫の手はキーボードを押すのにも向いてない。指を広げることはできても、人差し指だけでキーを押すことはできなかった。どうしても他の指も同時にキーに触れてしまって、モニターに現れる文字が意味のあるものにならない。
諦めて、猫用ベッドにうずくまった。
すぐに眠たくなって、いつの間にかあたしは夢の中に入ってた。猫になるととにかくよく眠れる。
夢の中で、女の子の姿のあたしが、カイと一緒にお風呂に入りながら頭を撫でられ、頬を赤く染めてニコニコしてた。
彼が帰ってきたのを駐車場に車が止まった気配で気づいて目覚め、急いで玄関へ迎えに出た。
「エル〜、ただいま」
玄関の扉を開けると、彼の顔はすぐに嬉しそうに溶けた。
女の子のあたしが迎えた時も笑顔だったけど、これに比べればあれは愛想笑いだったのかなと思えるほどだ。デレッデレ。
やっぱりあたしが猫だったほうが、嬉しいのかな……。
あたしは人間でいたいのに。
背中を彼のお腹につける形で抱っこされた。
体じゅうを触ってくる。
あたしは抵抗する気もなく、彼のしたいがままにさせてあげた。
無言で、カイがあたしの体を彼の好きなように撫で回す。
あたしも気持ちよくなって、思わず喉がゴロゴロと鳴ってしまう。
肉球をニギニギする指が気持ちいい。
お腹を上下にマッサージしてくれるてのひらがあたたかい。
人差し指で喉の下なんか撫でられたら……鼻から汁出そう。恥ずかしい。
人間の時はこんなスキンシップなんてしてくれなかった。
それどころか、触るのをためらってるように見えた。
猫だと遠慮がない。
すごく恥ずかしいとこまで平気で触ってくる。めっちゃ触ってくれる。そんなとこ……
あん♡
声、出ちゃった。
彼のベッドに入って、くっつき合って眠った。
人間の時も同じベッドで寝てくれたけど、基本的には背中を向けてた。
朝目覚めると寝返りを打ってて、あたしを抱くようにこっちを向いてくれてることもよくあったけど、その腕は眠っていても遠慮がちで、けっして抱き寄せてくれるようなことはなかった。
猫の時は距離が全然違う。
あたしの顔は、彼の顔とくっついてる。
眠りながらあたしの背中を撫でてくれる。
彼の胸にあたしが埋まってることもある。彼の心臓の音を心地よく聴きながら、あたしはまたゴロゴロいってしまう。
ずっと猫でもいいかな……。
そう、思ってしまった。
目覚めるとカイはもう大学に出かけたあとだった。
なんで気づかなかったんだろう。猫は敏感だから、彼が少し物音を立てただけでも気づいたはずなのに。
幸せすぎて、眠りが深かったのかな……。
そう思いながらベッドから起き上がって、すぐに気づいた。あたしは人間に戻ってた。
モスグリーンのだぼだぼのトレーナーに制服のスカート姿だった。ポケットには鍵も二千円も入ってた。
なんで戻れたんだろう。それはわからなかったけど──
カイ……。もしかして……
起きたらあたしが人間に戻ってたから、ガッカリしちゃった?
「そうだ、チキンラーメン買ってこなくちゃ」
人間の体は重くて、あたしはのろのろと起き上がった。