幸福な結末
控え室でメイクを受けていると、社長がホクホクの笑顔で入ってきた。
「エルちゃんっ! いよいよドームだね」
あたしは笑顔でお辞儀をし、顔をあげてもう一度笑顔をよく見せた。
これからおおきな迷惑をかけることになるのだ。謝ることはできなくても、せめて今までの感謝を笑顔で伝えておかねば。
西中社長には心から感謝している。私の商品価値を見抜き、それを磨き、大々的に売り出してくださった。
今夜、私は引退することを決意している。
芸能界からも、この世からも。
榊原エル初めてのドームライブ2Daysは初日だけで終わることになる。
宣言はしない。このステージが終わったら、ホテルで最期を迎えるつもりだ。薬はもう用意してある。
人生の絶頂の中で、眠りながら人生を去りたい。
社長にも、スタッフにも、ファンのみんなにも、本当に感謝している。私をこんなに自信満々な芸能人に育ててくれた。
自信はついた。それなのに私は幸せじゃない。
表面に溢れる私の自信は誰もが認めてくれる。でも、私の奥にある私の弱さは誰も知らない。
輝く私を讃えてくれるひとはいくらでもいる。
でも、弱い私を抱きしめてくれるひとは、いない。
泣いているだめな私の頭を撫でて笑ってくれたひとは、もういないのだ。
彼が私に無言でアパートを引っ越して、もう5年。
5年待ったら、諦めようと決めていた。
5年待って、姿を見せてくれなかったら、もう終わりにしようと覚悟していた。
「愛美、ドーム初ライブおめでとう!」
そう言いながら、両親が控え室に姿を現した。
「愛美ちゃん、あなたは私たちの誇りよ。頑張って!」
父にも母にも笑顔を見せてあげた。
私が家出しても捜索届さえ出さなかった両親に。
彼らも私のことを、自分たちを社会的に格上げしてくれた『看板』としてしか見ていないと、私はわかっていた。
この5年で私は変わった。
表面的には激変した。
私の裏で、私が膝を抱えて泣いている。
私は何も変わってないんだよと、べそをかいている。
最近、朝食にはいつも自分でフレンチトーストを焼く。
とても上手になったと自負している。失敗なんてあり得なくなった。レギュラーコーヒーも美味しく淹れられるようになった。
ひとりじゃなく、前には大抵誰か、男のひとがいる。
足越くんは「美味しいよ」と言って食べてくれたけど、私は彼がそれを口にするのを見るのが嫌だった。
食べさせたいのはあなたじゃない。褒めてほしいのはあなたじゃない。
フレンチトーストが上手になっても、どれだけ有名になっても、一番褒めてほしいひとが側にいない。
そのひとに、私は捨てられたのだ。
レーザービームが巨大な空間に踊りまくる中心で、私は笑顔を振りまいた。
ありがとう、みんな。
ありがとう、私を讃えてくれて。
でも、みんなは私を幸せにはしてくれないの。
「ドームライブの夢、叶えることができて、本当に幸せです!♡」
そんな台本通りのことをマイクを通してファンのみんなに高らかに言いながら、私は少しも幸せじゃなかった。
疲れていた。疲れきっていた。
このステージが終わったら、もう空振りの笑顔を浮かべる必要もない。この世から飛んでいける。
そんなことを思いながら、黒い猫耳に、黒いしっぽのついた衣裳を着た私は、声を張り上げて歌っていたその声を止めた。
息も止まった。
前から5列目に、ひじきみたいな頭を見つけた。
マスクをして伊達メガネをかけてる。でも、見間違えようがない、ひじき頭。
私が歌も踊りも止めて、そのひとのほうを注視すると、ピンクのペンライトを振っていたひじき頭が急に慌てたように挙動不審になって、横のお客さんに手で断って、逃げ出そうとしはじめた。
私はステージから飛び下りていた。
「カイ!」
お客さんはみんな、私がステージから下りてきたことに嬉しそうな顔をしていた。でも私の体に触れようとはしないで、道を開けてくれた。
「カイ! カイ!」
逃げるひじき頭を私は追いかけた。捨てられたと思って、あれほど追うことをためらっていた彼のことを、必死で追いかけていた。
列から抜け出そうとしていたところを捕まえた。
懐かしい胸板。細いのにがっしりとしたその体躯。あたたかくて、チキンラーメンの匂いの染みついた、彼の匂い。
マスクを剥ぎ取ると、何も変わらない彼の顔が現れた。
「なんで逃げるの?」
まっすぐ彼の顔を見上げながら、ただ聞いた。
「なんで逃げたの!?」
カイはただ口をモゴモゴと動かし、何と言ったらいいのかわからなかったのか、ニコッと笑った。
「要らなくなったの?」
私はまるで駄々をこねる子供だった。
「あたしのこと、要らなくなっちゃったの!?」
「遠い世界に……」
ようやく彼が言葉を喋った。
「エルは遠い世界に行くんだから、俺なんかが邪魔しちゃいけないと思ってさ」
「離さないでよ! 好きなら何があっても離さないでよ!」
私は抱きつくと、思いきり背を伸ばし、彼にキスをした。
固まっていた彼も、その腕を私の背中に伸ばし、キスに応えてくれた。
スポットライトが二人を照らしていた。
お客さんの歓声や悲鳴が私たちを包んでいたような気がするけど、とても静かで居心地のいい世界に私は浸っていた。
私のホテルの部屋に、カイは泊まった。
写真週刊誌の記者に写真を撮られたけど、何も構わなかった。コソコソすることなんて何もない。
二人の家を買おう。
その時に約束しあった。
「にゃー……」
ダイチが私の足元にじゃれついて邪魔をする。
「あっ、こらダイチ。エプロンに飛びついちゃだめよ?」
フライパンから焼き上がったフレンチトーストをお皿に取り、食卓に持っていくと、朝日を背にしてそのひとが笑っている。
「うん! すげー上手になったな」
一番褒めてほしかったひとが、褒めてくれる。
「料理人の俺が言うんだから間違いない。エルのフレンチトーストは世界一だ」
カイは修行して料理人になっていた。
前から料理好きだった。でも上手じゃなかった。それが今では難しい料理でも作れるらしい。
「今日も忙しいのか? 帰り、遅くなる?」
カイが聞いてくれる。
「ん。バラエティー番組の収録終わったら帰れるよ。そんなに遅くはならないと思う」
コーヒーを口に運びながら、私が答える。
「じゃ、晩メシ一緒に食えるな?」
まぶしい笑顔でカイが言う。
「何が食べたい? 最高の作ってやるよ。お勧めはハンバーググラタンな」
私にリクエストを聞いておきながら食べさせたいものを用意している彼に、私は少し意地悪な、でも本当に食べたいものをリクエストした。
「チキンラーメン・グラタンが食べたい」
そして私は彼の膝の上で丸くなった。
彼の前でだけ、私は猫になれるのだ。
(おわり)
ありがとうございました(•ᵕᴗᵕ•)⁾⁾